第33話 2020年3月17日(火)

 樹は細心の注意を払う生活に変えた。身の回りの物は全てアルコール除菌した。家の中でもマスクをし、病院以外では外出しない事にした。日向の家への出入りもストップした。香澄と智草も日向の家に行く以外の外出は控えていたので感染リスクは低いはずだが、少しでも人間との接触を減らしたかった。自らの手でさくらを殺す事にはなりたくない。

「樹」

 葵が部屋に入って来た。

「ちょっと待って」

 樹は慌ててマスクを確かめた。

「どうしたの?」

「ウィルス予防」

「はぁ、そう。これありがとう」

 葵は樹から借りた定規を返した。樹は定規にアルコール消毒液をスプレーし、それが終わると自分の手も念入りに消毒した。

「急にウィルス怖がり始めてどうしたの?」

「感染したら命に関わるから。当分は外出も控えて、病院以外は外に出ない事にする」

「極端だね。出歩かないようにするって言って、毎日病院へ通ってたら意味なくない?」

「病院に出入りするから神経を使ってるんだよ」

「それ治療?」

「リハビリ」

「本当に毎日通う必要あるの? しかも先週は全く行ってなかったじゃない」

 葵は意外に鋭かった。

「先週は一時的に病院がロックダウンされてたけど、昨日から解禁になったんだよ」

「聞いた事ない。見え透いてるよ」

「何が?」

「彼女が病院にいるんでしょ。急にウィルス気にし始めたのも、それが理由でしょ」

 ちょっとした引っ掛けのつもりだったが、簡単に引っ掛かった。

「そこまで分かっているならわざわざ聞くなよ。外出禁止にされたら困るから誰にも言うなよ」

「は〜い」


『柊司』

 葵は二十秒後に樹の言いつけを破り、柊司にメッセージを送った。

『やっぱりそうだよ。樹の彼女は病院にいるよ』

『へー、やっぱり?』

『柊司のお姉さんじゃないとしたら……』

『スタッフの誰かって事はないよね?』

『まさか。いくら何でもそれは無いでしょ、条例違反だよ。って言うか犯罪でしょ』

『俺、他の部屋の患者とか知らないよ』

『他の部屋は年寄りしかいないでしょ』

『同室なら可能性はあと一人だけだけど』

『でしょ。次はいつ行くの?』

『面会制限でなかなか入れないんだよ』

 何かが葵の琴線に引っ掛かった。

『患者の家族でしょ?』

『それでも制限があって、昔みたいに自由に出入りできなくなってるんだよ』

 何が引っ掛かったのか分かった。

『ん? どうして樹は出入りできるんだろう。家族ですら自由に出入りできないんだよね?』

『そうだよ。基本一人だけ、しかも三十分以内』

『昨日は昼過ぎに出て行って、家に帰って来たのは夜八時近くだったよ』

『それはおかしいね』

『でしょ』


「ねえ、あいつどっか悪いの?」

 香澄が日向に聞いた。

「特に何も聞いてはいないけど」

「急に二日連続病院でしょ。また折った?」

「ははは、まさか」

 智草はテーブルの向かいで二人の会話を聞いていた。樹がいないと邪魔をしているようで居心地が悪かった。一方で二人のの会話に変化が現れている事に気付いていた。名前で呼び合っている様子がない。意図的に呼ぶのを避けている様だ。その気はあるのだが恥ずかしくて言えないのだろう。

「通院しているんだ?」

「そう言ってた。理由は言ってなかったけど、バイ菌でも入ったのかな」

 どこか悪いのであればそれはそれで心配だ。


「お届け物です」

 樹はドアを開けて入るなり言った。

「こっち、こっち。特盛五杯」

 さくらが手を振って答えた。

「お客さん、食欲旺盛ですね」

「昨日の夜から何も口にしてないからじゃない?」

 樹がベッドサイドの椅子に座ると、二人は額と額を着けた。二人同時に手を伸ばし相手のマスクをそっと外した。


「は〜い」

 葵がドアを開ける。

「こんにちは」

「ちぐちゃん、どうしたの?」

 智草は日向の家から帰る途中に樹の様子を見に行く事にした。

「樹くんいる?」

「まだ帰ってきてないよ」

「まだ? もう六時なのに」

「最近帰ってくるの八時前だよ」

「そんなに遅いんだ」

 帰ってから捕まえるのは無理そうだ。

「病院へ行くのは何時頃?」

「昼食べてから」

 すると午前中は家にいるという事だ。

「ありがとう。いる時間に来るね」

 笑顔で言うと智草は樹の家を後にした。


 画面のさくらが不満をこぼした。

「またお腹空いてきた」

「まだ最後に会ってから三時間しか経ってないけど」

 時計を見ると夜十時だった。

「言ったでしょ。私には樹が不足しているの」

「太るよ」

「太らせてよ」

「メガ盛りね」

「ギガ盛りで」

「はいはい。明日も間違いなく」

「明日が待ち遠しい」

「俺も」

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