第34話 2020年3月18日(水)

「おはよう」

「ちぐちゃん」

「樹くんいる?」

「いるよ。どうぞ」

「ありがとう」

 智草は家に上がった。

「樹、ちぐちゃん来たよ」

 葵がドアを叩く。

「え? はいはい」

 左右均等でない足音が中から聞こえ、ドアが開くとマスクを着けた樹が立っていた。

「こんにちは。もう立てるんだね」

「そろそろ松葉杖もお別れかな」

「良かったね。入ってもいい?」

「あ、ちょっと待って」

 樹は消毒液のボトルを取って来た。

「手を出して」

 差し出した両手に樹がアルコールをスプレーした。

「どうぞ」

 智草にベッドを椅子代わりに勧めると、自分は椅子に座り部屋の角まで下がった。

「どうしたの? 遠いよ」

「ソーシャルディスタンシング」

「マスクしてるのに?」

「それでも近付かないでおいて。今はコロナもらう訳にはいかないんで」

「熱ないよ」

「必ずしも熱が出る訳じゃないらしい。知らずに持ち運んでいる可能性もあるらしいから」

「どうしたの? 急に?」

「病院に出入りするから神経使わないとね」

「どこか悪いの? 急に病院に毎日通いだして」

「いや、たいした事ないよ」

「嘘。半日も病院にいるなんておかしいよ。どこか悪いなら教えて」

「どこも悪くないよ。足以外」

「折った所?」

「折った所」

「本当にそれだけ?」

「それだけ」

 智草は嘘の匂いを感じ取った。立ち上がると樹の前へ行き、目の前からじっと樹の目を覗き込んだ。

「どこか悪いなら言って。本気で心配してるんだから」

「本当にどこも悪くないよ。あと、近寄らないでもらえるかな?」

 何気ない言葉が智草の胸に刺さった。何故それがそんなに辛いのか、自分でも分からなかった。

「そう……どこも悪くなくて良かった。私、帰るね」

 樹に背中を見せて智草は出て行った。廊下ですれ違った葵は智草の目が潤んでいる事に気付いた。靴を履いて玄関を出た瞬間に理由なく涙がこぼれ落ちた。


『樹なら来てないよ』

 悠斗が返信してきた。

『知ってる。今、病院に行ってる』

 葵が答えた。

『また何かやった?』

『何でそうなるの』

『樹だから。最近来なくなったんで、また怪我したのかと思った』

『急にコロナ怖がって家に引きこもり始めた』

『らしくないな。体を鍛えれば感染しても大丈夫とか言ってる方が似合いそうなのに。それでウチに来なくなったんだ?』

『かわりに今朝ちぐちゃんが来たけどね。この前一方通行って言ってたよね。当たりかも。さっき泣きながら帰って行った』

『それで今日は二人とも来てないのか。樹、何した?』

『どうも彼女が病院にいるらしいんだよね。それじゃないかな』

 葵は躊躇なく兄の秘密をバラした。

『マジ? 樹に?』

『誰かは分からないけど、あれは間違いないね』

『兄貴達の代が乱れ始めたなあ』

『日向も乱れてるんだ?』

『いや、あれは進展がなさそう』

『ダメな感じ?』

『その気があるなら、さっさと言えばいいのに』

『意識してるなら進展あるじゃん』

『相対的にはね』

『絶対的には?』

『イライラする。この前もウジウジ同じ服で死ぬまで踊るしかないとか言ってた』

 葵は柊司との会話を思い出した。

『ちょっと、何でそれ日向が知ってるの?』

『何が?』

『与えられた服で踊るしかないって言ってなかった?』

『そうそう、そんなやつ』

『日向は多分それ樹から聞いたんだよ。樹は病院で聞いたんだと思う』

『へえ、彼女の写真とかないの?』

『誰だか分かったような気がする。ありがとう』

『後で写真見せろよ』

『私もちょっと会っただけで写真なんかないよ』

『なんだ。見たかったのに』

『樹の写真でも送ろうか?』

『男の写真はいらない』

『嫌がらせなんだから素直に受け取りなよ』

『ブロックすんぞ』

 返信の変わりに問答無用で写真が送られてきた。日向が樹の家に遊びに行った時に撮った物らしい。日向と樹、それに葵が三人で写っていた。良い笑顔だった。悠斗は写真を拡大し、一人だけ写るようにトリミングしてから保存した。


「はいギガ盛りお待ち」

「テラ盛りを頼んだはずだけど?」

 ニヤニヤしながらさくらが言った。

「クレーマー」

「忖度してペタ盛りくらい持って来るのが筋でしょ」

「しかもモンスター」

「唯一人の客なんだから最優遇でしょ」

「会員証をお願いします」

「はい」

 さくらはマスクを外して樹を見上げた。

「顔バスでしょ?」

「スタンプは何個押せばいい?」

「私がいいって言うまで」

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