第35話 2020年3月19日(木)

 卒業生のみの卒業式は歴史に残る短さだった。午前十時から始まった式は保護者も在校生も参加せず、一時間足らずで終わった。式後も密を避けて速やかに退出するよう求められ、卒業生たちは追い出されるように校舎を後にした。今日をもって彼等はどこにも所属しない身となる。皆、名残惜しさと寄る辺のない身となった不安感を感じていた。


「これはもういらないから」

 医者はそう告げながら樹から松葉杖を取り上げた。最近は左足が体重を支えられるようになってきており、松葉杖はバランスを取るために使っているだけだった。それも今日で卒業だった。若干不安があったが、自分の足で立って歩くという当たり前の事ができるだけでも気分が良かった。

「これでリハビリは終了です、お疲れ様。流石に若いだけあって回復が早いね」

「お世話になりました」

「但し装具はまだ着けるようにね。一ヶ月後に診察して状態を確認しましょう」

「まだかかるんですね」

 樹が残念そうに言うと医者が答えた。

「完全にくっついている訳ではないという事は忘れないようにね」

「はい」

「まだ怪我人なんだから、無茶して走ったりしちゃだめだよ。いいね」

「はい」

 樹には無茶をした前科があるので医者はきつく釘を刺した。


「どうしたの?」

 香澄に突然言われて智草がビクッとした。

「何が?」

「何か変」

「そお?」

「うん、何か分からないけど沈んでる感じがする」

 日向も言った。

「ありがとう。でも特に何もないよ」

「嘘でしょ。笑顔が消えてるよ」

 香澄が呆れた声で言った。分からないはずがない。

「そうかな……」

 智草は曖昧に答えた。


「樹、プラン覚えてる?」

「何の?」

「忘れたの? 隅田公園の桜」

「ああ、花見」

「三連休中は天気が良くて花見に良いらしいよ」

 さくらが嬉しそうに言う間、樹は別の事を考えていた。来年のないさくらにとって今年が最後の桜だ。それを取り上げるのは忍びなかった。それでも樹は一日でも長くさくらに生きていて欲しかった。

「隅田公園には行けないよ。今、人混みの中にさくらを連れて行く事はできない」

「そうだよね……」

 樹はさくらの失望を見るのが辛かった。出来るのであればどんな願いでも叶えてやりたかった。その時さくらが言った。

「屋上から見えないかな?」

「屋上?」

「病院の屋上から少し隅田川が見えるんだよ。川岸に咲いている桜なら見えるんじゃないかな」

「明日行こう」

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