第36話 2020年3月20日(金)
三連休初日は天候に恵まれ、晴れた空は爽快だった。さくらの車椅子を押した樹はエレベーターの呼出ボタンを押した。やってきたエレベーターは誰も乗っていなかった。エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。最上階から先は力技になる。いくら松葉杖が不要になったとはいえ、足はまだ全快には程遠いので不安があった。最上階でエレベータを降りて階段まで行くと、樹は慎重にさくらの座った車椅子を持ち上げた。驚くほど軽かった。
階段を登りきった所で車椅子を出来るだけそっと下へ置く。ドアを開けて外へ出るとそこは屋上だった。シーツやタオルが大量に干され、風に煽られながら畑のように広がっていた。車椅子を押して布製の通路を抜け、東側の端を目指す。
病院の建物はそれ程高くはない。隅田公園はかろうじてビルの隙間から見えるだけだった。まだ五分咲だが、桜の白が鮮明に見えた。距離にしてわずか五百メートル、歩けば数分の距離だった。普段の年であれば簡単に行ける場所が今年は永遠に手の届かない場所になっていた。それでも久しぶりの空の下にさくらは興奮していた。一心に東側を見ている。
「見えるよ、ほら」
ビルの間から見える桜はわずかだった。
「あそこ、凄くない?」
さくらは通りの先を指差した。樹は指の先をちらっと見たが感銘は受けなかった。桜は来年も咲く。樹はずっとさくらの横顔だけを見ていた。
「ああ、綺麗だね。凄く」
上の空に気付いたさくらが樹の方を見ると目が合った。しばらく無言で互いの目を見つめ合っていると強い風が吹いた。さくらは慌てて頭のニット帽が飛ばないように抑えた。
「桜、見てなかったでしょ?」
風がおさまるとさくらが言った。
「さくらを見てた」
「一緒に見る事に意味があるんだよ」
「そうなんだ」
「前に言ったでしょ。人間は自分の主観を通してしか世界を認識できないって。でも同じものを一緒に見て、同じ事を一緒に感じた時だけは、主観を共有できるんだよ。それが大事なんだよ」
「物語が交わるだっけ?」
樹はさくらが言った事を忘れていなかった。
「そう。それから……」
さくらは付け加えた。
「人の顔ガン見しながら綺麗って言うのはどうなの?」
「そう思ったから、そう言っただけ」
「そこは相変わらずだね」
「別に嘘を言ってるつもりはないし」
さくらは樹の顔をじっと見上げていた。
「本当に素で言うよね。言われた方がどうなるか考えた事ある?」
「どうなるの?」
「大変な事になってるよ。何とかしてよ」
樹はさくらの顔に手を伸ばした。樹の手がマスクを外す間、さくらはじっと待っていた。
「ねぇ、写真撮りたい」
マスクを戻しながらさくらが言った。
「任せろ」
樹はマスクを付けながら、ポケットから小さな折りたたみ式の三脚を取り出してみせた。セルフィーでない写真を取りたかった。
「準備いいね」
「当然。一緒に外へ出るの初めてだし」
「病院の屋上を外って言えるかどうか微妙だけど」
「空の下に出れば外でしょ」
「そうだよね。ある意味これは」
「初デート?」
「それ!」
「じゃあ手繋がないと」
「はい」
さくらが手を樹の前に差し出した。
「何かちょっと違う気もするけど」
樹は手を握った。
「じゃあ、こうしたら?」
さくらが指同士を絡めた。
「いいかも」
「でしょ。順番がおかしいから苦労するわ」
「ん?」
「だって、まず最初に私の布団に潜り込んで来たでしょ。次にキスして、最後に初デートで手を繋ぐ」
「う……」
「完全に逆だよね?」
「はい、そうです」
「思い描いてた姿とはかなり違ったわ」
「そうだった?」
「香澄ちゃん達が樹の隣のベッドは危ないって言ってた理由はそういう事だったんだね。このケダモノ」
さくらは笑いながら言った。
「ほら、写真取るよ」
さくらに促されて樹は三脚を設置して撮影する。シャッター音が屋上に響いた。
「どう?」
樹が撮ったばかりの写真を見せた。二人は満面の笑みで、背景に隅田公園の桜が少しだけ見えた。
「いいじゃない。それ送って」
樹はスマホから画像を送った。
「送ったよ」
届いたデータをさくらは大事に保存した。
「お願いがあるんだけど」
「何?」
「その写真、コンビニでプリントアウトして来てくれる」
「明日持ってくるよ。アナログ派だったんだ?」
「いつも見えるようにベッドに貼っておくつもり。それに電子機器は棺に入れて燃やせないから」
「……」
「いいんだよ。事実だけ受け入れてくれれば」
再び強い風が吹いてしばらく会話が途切れた。遠くで白い桜の花びらが舞い上がっている様子が見えた。強い風が収まると、周囲を見回しながらさくらが続けた。
「ねえ、死んだ後ってその辺にいたりするのかな?」
「かもね」
「桜、もう一度見られるかな」
「その時にもう一度見に来よう。一緒に」
「約束だよ」
風が凪いだ。川岸から風に飛ばされて来た桜の花びらが周囲に舞い降りてきた。
「嘘……雪みたい」
さくらが独り言のように言った。白い花びらが周囲にしんしんと降っていた。樹は無意識に目の前を舞う花びらの一つに手を延ばして掴もうとした。花びらは指の隙間をすり抜け、柵の向こうへ空中を漂って行った。樹は手の届かない場所へ舞って行く花びらを見送った。
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