第37話 2020年3月21日(土)

「彼女元気?」

「は?」

 葵に突然聞かれて樹はかろうじて言った。

「いるんでしょ、病院に」

「何で知ってるんだよ?」

「やっぱりそうなんだ」

「引っ掛け問題かよ」

「お母さん達には言わないから教えてよ」

「お前には関係ないだろ」

 葵はもう一度引っ掛けを試みた。

「与えられた服を着て踊る人?」

「どうやってそんな事まで知ったんだよ?」

 樹は驚いていた。今度は葵も驚いていた。

「え、そうだったの?」

「何が?」

「その人、弟いるでしょ」

「いるよ」

「そうなのか。はあ〜〜」

「何だよ?」

「がんばりなよ」

「お前に言われるまでもなく」

「前の彼は病院通いに疲れて別れたらしいから」

「え?」

「終わりが見ないんじゃ確かに厳しいよね」

「ちょっと待て。何それ?」

「いやだから、そういう人がいたって」

「初耳」

「あれ、言っちゃまずかったんだ」

 葵はしくじった事に気付いた。

「知ってる事を全部言え」

「えっと……」

「言え!」

 兄に凄まれて妹は断れなかった。

「私も詳しくは知らないよ。入院前から付き合ってた人がいたけど、終わりの見えない病院通いに疲れて一月に別れたんだって」

「一月? 今年の?」

「らしいよ」

「つい最近じゃないか……」

「どうしたの?」

「嘘をつかれてた」

 樹はやり場のない怒りを感じていた。


「絶対どこか悪いんだよ。でなきゃそんな長時間病院にいる訳ないじゃない」

 携帯から聞こえてくる智草の話にさくらは回答に困った。

「病院にいる時間の大半は待ち時間だよ」

 嘘をつくしかなかった。

「どこか悪いのって聞いても、まともに答えてくれないし」

「それは悪い所がないから答えようがないだけなんじゃない?」

「近寄るなって言われた……」

「どうして?」

「コロナを気にして」

 さくらは樹が自分を守るために一生懸命な事が分かって嬉しかったが、いらぬ誤解を招いている事には閉口した。

「それは病院に出入りするから神経質になっているんでしょ」

「それは分かるけど、そういう事じゃない。私の事を避けているし、何か本当の事を言ってないような気がする」

「気のせいじゃない?」

「そんな事ない。最近の事だし、もしかして気付かれて避けられてるのかな?」

「何か言ったの?」

「何も」

「お馬鹿がそんな鋭いはずがないでしょ」

「気付かれたんじゃないとしたら、どうして?」

「分からないけど、言わないのは関係性が充分じゃないからじゃないかしら。時間をかけて関係を深めるしかないでしょ」

「そうかな」

 智草は納得していなかった。

「幸い時間はあなたの味方なんだし、焦る事はないでしょ」

 さくらは口にしてから自分の言葉の後味に苦さを感じた。時間はさくらの敵でもあった。


「ん……」

 さくらが目を開けると、すぐ近くに樹の顔がまだあった。直感がさくらに告げていた。樹の様子が普段と違う。

「どうしたの?」

「何が?」

「何か分からないけど、普段と違う気がしたから」

「別に」

 そう言いつつ樹は不機嫌だった。嘘をつかれた事が不快だった。他の男がいた事も不快だった。顔も名前も知らないそいつがさくらに触れたのかと思うと気が狂わんばかりだった。人生で初めて味わう嫉妬に心の整理がついて行かなかった。

「そう……」

 さくらは下を向いた。不機嫌の理由が分からなかった。怒らせるような事を何かしてしまったのかと不安になった。

「……原因、私?」

 おずおずと聞いた。

「いや」

 切り捨てるような一言が返って来た。樹の情緒不安定が怖かった。次の言葉がなかなか出てこなかったが、限られた時間をこの状態のままいたくなかった。意を決して顔を上げ、樹の目を見上げ覗き込んだ。どうしても確認したかった。

「私の事」

 短い一言が一息で言えなかった。

「まだ好き?」

 昨日まで簡単に言えた言葉が引っかかった。

「もちろん」

 即座に迷いのない答えが返ってきた。さくらの目を見るその目も真剣だった。微塵も嘘は感じられなかった。

「良かった。私も」

 さくらは思わず満面の笑顔になった。つられて樹も笑顔になった。それを確認するとさくらは樹に抱きつき、樹の肩に顎を乗せた。樹の耳がさくらの目の前にあった。

「お願い、不安にさせないで」

 樹の耳元でさくらは言った。

「ごめん」

 樹は素直に謝った。心に凝りは残っていたが、さくらを目の前にすると潮が引くように怒りが冷めてしまう。自分の心が制御不能になっていた。自分が底なしに弱くなって行くような気がした。

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