第19話 2020年3月3日(火)

 香澄の声は相変わらず良く通った。

「おーーい水野、天才美少女が降臨したぞ」

 待ち合わせより少し遅れた時間になって香澄が病室に入って来た。温かい日だったのでショートパンツにTシャツ姿だった。

「突っ込んで下さいアピール強過ぎだろ」

 香澄はポケットに手を突っ込んだまま椅子に座った樹を見下ろして言い返した。

「散々バカにしたんだからひれ伏して崇め奉りなさいよ」

「香澄ちゃん合格おめでとう」

「さくらさん、ありがとうございます。一生分の運を使い果たしました」

「その程度で足りるとはとても思えないんだが」

「じゃあ、足りなかった分は実力でしょ」

「はいはい。日向は一緒じゃないのか?」

「高校へ寄ってる。もうすぐ来るんじゃない」

「本当は合格者だけ招集かかってるんじゃないのか」

「いいかげん現実を認めなよ。やっしーは昨日書類もらって帰るの忘れたんで学校から連絡が来たんだよ。今、慌てて取りに行ってる」

「忘れたのは誰のせいだ?」

「何が?」

「いい映像だったな」

 この一言で香澄の顔色が変わった。

「これだろ?」

 樹がスマホで再生すると香澄がひったくろうとした。

「アップして全人類と幸せを共有するか?」

「消して!」

「ある意味、お宝映像だぞ」

「そうそう。一年分の思いの詰まった最高の映像だよ」

 葉月がやって来た。この手の話を見逃す訳がない。

「……記憶だけにして欲しかった」

「そりゃ嬉しかったよね。別々の学校になる覚悟で結果見に行ったのに、蓋を開けてみたらまた三年間一緒にいられるんだもんね。一年越しだったんでしょ。それとも、もっと前から?」

「へっ……」

「二年の終わりか? あの頃から急に日向の回りウロチョロし始めたもんな」

「何であんたまで!」

「あ、やっぱりそうだったんだ」

 香澄は俯いて黙り込んだ後、消え入るような声で言った。

「……言わないでよ」

「え?」

「やっしーに言わないでよ! 言ったら殺すからね」

「言わねえよ。そういう事は自分で言え」

「次の香澄マジックはそれだね。で、やっぱり一年前から?」

 葉月は興味津々だ。

「二年の終わり」

「きっかけは? その時初めて知り合った訳じゃないでしょ。何があったの?」

「本当にくだらない事だし」

「得てしてそういうモンだって。今まで気にも止めてなかった相手が急に気になりだすのって」

「期末テストのちょっと前に」

「うん、うん」

 さくらまで前のめりになって聞いている。

「あと一週間で期末なのに分からない所だらけで図書室で固まっている時に助けてくれた」

「それだけ?」

 樹が呆れた声で言った。

「私がずっと固まってるのに気付いて」

「ほう、ほう」

「全然分からないって言ったら教えてくれた」

「それで?」

「隣に座った時にすごく大きく感じたって言うか、存在を感じたって言うか」

「突然先生役になって感じちゃった? 女子は先生に弱いからね」

「そうなのか? ウチの担任メチャ嫌われてるぞ」

「昭和のオジサンでしょ。戦力外」

「前はヒョロ長いくらいにしか思ってなかったんだけど、隣に座ると意外に厚みがあるって気付いて。それで、横向いて顔見上げた時に何だか……」

「スイッチ入っちゃった?」

「いや、どう表現したらいいのか。雰囲気っていうか、余裕ある感じって言うか」

「はいはい、私達も会った事あるから分かるよ」

「でしょ、でしょ。分かるでしょ。安心感与えてくれるって言うの?その時まで結構追い詰められてたけど、何とかなりそうな気がして来るって感じ? えーと……」

興奮して香澄の表現が支離滅裂になって来た。

「癒やされちゃったんだね」

さくらが完結な言葉にまとめた。

「そうそう、そんな感じ!」

「優しそうだもんね。怒っている所とか想像できないよね」

「優しそうじゃなくて、本当に優しいんですよ。時間が足りなくて終わらなかったら、次の日もいいよって言ってくれて」

「毎日ずっと?」

 香澄が頷く。

「試験前日まで。自分の勉強だってあるはずなのに全然平気な顔して」

 葉月が聞く。

「それできちゃった?」

 香澄がまた頷く。

「可愛い〜〜。一週間つきっきりで教えてもらって、終わる頃には完落ち?」

「試験が終わって欲しくないなんて思ったの人生で初めて」

「いじらしいねえ、うんうん」

「それで急に勉強始めたのか? 清々しいくらい不純な動機だな」

 樹が呆れ顔で言った。

「清々しいくらい分かんない奴だね」

 葉月も呆れ顔で言った。

「男がやったらストーカなのに、こいつがやると何でいじらしくて可愛いになるんだよ?」

「だっていじらしくて可愛いじゃん」

「説明になってないし」

「で、香澄ちゃんは次どうするつもり。もう言っちゃう?」

「どうしていいか分からない」

 困り顔だった。

「逆に近くなり過ぎて言えない。怖くて」

「らしくないチキンぶりだな。強豪相手でもビビらなかったクセに」

「私だって驚いてるよ! 自分がこんなに臆病になるなんて」

「そうだよね。何も言わなければこのままずっと先生やってもらえるけど、言っちゃったら元には戻れなくなる。そう思うと怖くなるよね」

「うん……そうだな。それは確かに勇気いるな」

 突然樹の声のトーンが変わった。

「何でそこだけ共感するの?」

「それはいいんだよ」

 香澄は怪訝な顔をしていた。葉月はニヤニヤし、さくらは下を向いていた。二人とも口元が緩んでいた。

「鬼畜水野のくせに」

「鬼畜って何だよ?」

「ミーコの件。忘れたの?」

 二年生の時のクラスメイトの名だ。横顔にきつい視線を感じた。さくらが睨んでいる事は見なくても分かった。虫眼鏡で集光した日光で炙られる黒い紙のように片頬が熱かった。

「坂口? 俺、何もしてないぞ」

 顔の片面から煙が出そうだった。

「あんたに友達になって欲しいって言ったら、男子だらけのやっしーの家に連れてかれたって聞いたよ」

「ああ、スマブラ大会に混ざった時の事か。あいつが好きだって言うから招待したけど一回しか来なかったんだよな」

「当たり前だ、馬鹿!」

 香澄が怒鳴った。

「あり得ない。引くわーー」

 葉月も呆れた声で非難した。

「しかも、あんた今井とくっつけようとしたでしょ」

 香澄がさらに糾弾した。

「だってあいつ坂口の事好きだったんだぜ。そりゃ友達として当然サポートしてやるだろ」

「本物の鬼畜だね。勇気振り絞ったその子の気持ちを踏みにじって心傷まないの?」

 葉月の呆れ度合いが増した。

「本当に違うって。スマブラ好きだから一緒にやりたいって言われただけだって」

「それ、二人でやりたいって意味だよ。分かってあげなよ」

「そんな感じじゃないって、本当に。めっちゃ軽い感じで」

「遊びに誘うんだから当然じゃない」

「だろ? だから招待したんだって。今井もメンバーだったし丁度いいじゃん」

 さらに墓穴を掘る。

「この鬼畜。クズ」

「違うって。楽しかったって本人も言ってたし」

「それで二度と来なかったんでしょ? それくらい気付け。小学生か」

「散々ボコられて嫌になったんだろ。あいつ好きとか言う割には激弱だったし」

「……その子、殆どプレイした事なかったんだと思うよ。ガキはこれだから」

「仕方ないだろ、そんなの分かるかよ」

 四面楚歌の病室で刺々しい視線が痛かった。


「卒業してないのに同窓会ってのはどうなんだろうか?」

 香澄が帰った後の病室で樹がさくらに言った。窓の外は既に暗かった。

「必ずしも全員が希望通りだった訳じゃないから祝勝会にはしにくかったんでしょ。口実は何だっていいんだよ」

「先週まで普通に学校で会ってたから久しぶり感が全くないけどね」

「行くのはいいけどミーコは禁止ね」

 その名前を口にするさくらは不機嫌になっていた。こんな気持になるのは初めてだった。

「クラス違うから来てないよ。それにもう一年近く話してない」

 元々異性として意識した事がなかった上に既に疎遠になっていたので、樹は意に介していなかった。気にするさくらと瑣末事としか思っていない樹の間には温度差があった。

「そう」

 どうでも良さそうな声と態度を見て少し安心した。いないなら大いに結構だ。そのまま樹の前から永遠にフェードアウトしてくれれば良い。

「時間は何時から?」

「七時」

 さくらは時計に目を走らせた。

「もうすぐ始まるよ」

「面会時間が終わったら遅れて行くよ」

「行ってもいいんだよ」

 蝿が来ないと知って寛大な気分になっていた。

「ここに居たいんだよ」

 樹はそう言った後に付け加えた。

「小学生じゃないんだから、それくらい気付け」

「とっくに気付いているよ。お馬鹿」

 樹がベッドテーブルの下で繋いだ手を軽く握ると、さくらも握り返して来た。立っている人間からは見えないが、向かいのベッドからは握った手が丸見えのはずだ。葉月がニヤニヤしていた。


 七時を過ぎてから樹は病院を出た。会場は東武線駅近くのカラオケボックスだった。学校にバレないように誰かが兄弟のバイト先のツテを使って場所を確保したと聞いた。普通に歩けば病院からは二十分程度だが、慣れない松葉杖ではそうはいかなかった。樹はかなり遅れて会場の部屋に入った。グループ用の大部屋に二十人弱がいた。この状況でこれだけの人数が集まった事に驚いた。始まってから一時間近く経っていたので、既に小さなグループに分かれて話し込んでいた。

 樹は室内を見回したが、日向の姿は無かった。入り口近くのテーブルを見ると、半袖の黒Tシャツから日焼けした腕をさらしている香澄が陣取っていた。隣に見た事のない女子が座っている。白いニットセーターを着ていて垢抜けた雰囲気が漂う。膝の上で品良く揃えた手に白いハンカチを持っている。白いニットの柔らかな印象がさくらのニット帽を思い出させた。香澄とは全てが対象的だった。黒と白、直線と曲線、硬と柔。二人並んだ第一印象はカラスと白鳥だ。目が合うと白鳥が樹に笑顔で手を振った。樹に気付いた香澄がニヤニヤしながら手招きする。樹はそのテーブルへ座った。

「樹くん、お久しぶり。私、分かる?」

 おっとりとした雰囲気と話し方だった。何故か自分の名前を知っている。樹は一瞬香澄の罠を疑った。こいつならやりかねない。しかしこの笑顔には見覚えがあった。知っている誰かだ。樹は顔を見つめながら頭の中で過去の記憶を検索した。

智草ちぐさか?」

「あーー、覚えててくれた」

「ようやく正解一人目。誰も思い出してくれなくて寂しかったんだよね。水野、良く分かったね?」

「同じマンションで登校班一緒だったからな」

 佐藤智草さとうちぐさは小学校の同級生だったが、小学校を卒業すると地元の中学へは行かずに中高一貫校へ進学したため、すっかり疎遠になっていた。会うのは三年ぶりだった。

「美人になったな。これじゃみんな分からないって」

「ははは……」

 智草ちぐさは笑い方もおっとりとしていた。

「どこだっけ? 確か白金しろがねの方の学校だったよな」

麻布あざぶだよ」

「垢抜けるはずだわ。山田に少し仕込んでやってくれよ」

「言いたい事は直接言ってくれる?」

 カラスが文句をつけた。

「散々言ったけど、効果一つでもあったか? 智草ちぐさに脳筋卒業させてもらって来い」

「いやややや、私が香澄ちゃんに教えてもらう方だから」

「こいつ最近図に乗りっぱなしだから甘やかさない方がいいって。自分で天才美少女とかイタすぎだろ」

「イタい奴にしか言わないから大丈夫だよ」

 香澄が憮然と言い返した。

「凄いじゃない、さすが香澄ちゃんだよね。高い目標を設定して、それに向けて努力して結果を出すなんて普通じゃないよ。カッコ良過ぎ」

「動機はアレだけどな」

「え?」

「何でもない」

 その動機が戻ってきた。トイレに行っていたらしい。

「樹、松葉杖で大丈夫だった?」

「思ったより時間かかった」

「樹くん。さっきから気になってたんだけど、その足どうしたの?」

 智草が樹の脚を指差して聞いた。

「勲章だよな」

「脳筋の仲間にしないでくれ。稽古中に折った」

「空手、続けてたんだね」

「受験でサボって久しぶりにやったら自爆した」

「大丈夫? 治るまでどれくらいかかるの」

 優しく気遣う言い方だった。脳筋カラスならば全く違う言い方をしただろう。

「全治一年」

「学校は?」

「普通に通うつもりだけど」

「どこなの?」

 この場で智草ちぐさだけがそれを知らない事に気付いて樹が答えようとした瞬間に横から声が飛んできた。

「水野だけ田舎送りだよな」

 香澄は嬉しそうだった。

「私達が港区で青春をエンジョイしている間、田舎の男子校でモブってな」

 これが言いたかったようだ。

「ははは、私も女子校だからモブだね」

 智草ちぐさがそう言うと、香澄は考え込むように自分の顎を触りながら言った。

智草ちぐさも別学か。それじゃ高校行ったら私が学校の男子集めて持ってくから好きなの選びなよ」

「ありがとう。でもそれはちょっと怖い感じが……」

智草ちぐさなら選び放題だよ。な、水野」

 香澄が突然樹に話を振った。

「大丈夫、それだけ可愛いければ断る奴はいない。安心して行って来い」

 樹もプッシュした。

「ははは、ありがとう。流石にちょっと赤面するよ」

「そう? 事実じゃん」

「ははは……随分言うようになったんだね」

 智草ちぐさはそう言うと中座した。


 会は九時に終わった。会場に使ったカラオケボックスからぞろぞろと歩き、小梅こうめ通り西の交差点で樹と智草ちぐさは皆と別れた。

「じゃあ、智草ちぐさまたね」

「香澄ちゃんも。今日は誘ってくれてありがとう」

この時初めて智草ちぐさを誘ったのが香澄だった事を樹は知った。何とも意外だった。

智草ちぐさ、水野に気を付けて帰るんだよ」

「日向、山田に気を付けて帰れよ」

「さっさと帰れ!」

 交差点を渡って香澄と日向が手を振りながら離れて行く。樹と智草ちぐさは道なりに歩き始めた。智草ちぐさは樹の松葉杖ペースに合わせてゆっくりと歩いた。

「まさか智草ちぐさを呼んだのが山田だとは思わなかった」

「香澄ちゃんとは卒業後も続いてたんだよ」

「何か意外だな。共通点が見えない」

「そうだね。香澄ちゃんは運動得意で勉強も凄い。誰にだって物怖じせずにハッキリ言うし、自分が正しいと思う時は絶対引かない。何かする時は自分が先頭に立つ」

「褒めすぎ」

「本当の事だよ。香澄ちゃんは私みたいにトロくないし、頭もいいし、ズルくもない」

「意外な事言うな」

「憧れるの。私も香澄ちゃんみたいになりたいって」

「大人気だな、あいつ」

「樹くんはよく平気で香澄ちゃんイジれるね。ある意味凄いよ」

 少し進むと遠くに首都高速が見えた。かつて二人の通学路の近くだ。

「こうやって一緒に帰るのも久しぶりだね。覚えてる?」

「ああ、この先の道だろ、通学路。」

「あの頃私嫌がらせされてたでしょ」

「学校帰りにノート捨てられて泣いてたっけ」

「その後しばらく一緒に帰ってくれたでしょ」

「そんな事もあったけ」

「本当は凄く嬉しかったんだよ」

 少し間を置いてから智草が言った。

「ずっと言えなかったけど、ありがとう」

 智草は横を歩く樹の額をじっと見た。左眉の上にうっすらと三センチ程の傷跡が見えた。

「しかし、同じマンションに住んでるのに全然会わないな」

「生活時間がズレてるんだよ。私、朝八時に予鈴だから家を出るのは七時過ぎ。地元中学は徒歩通学だからもっと遅いでしょ?」

「八時に起きても余裕」

「それ私の予鈴の時間! 不公平過ぎる」

智草ちぐさは何時起き?」

「六時前」

「早起きだな」

「最初は本当に辛かったよ。布団に入る時間も小学生並」

「夜更しは肌に良くないって言うし、丁度良いかもよ」

「そんなに肌荒れてる……?」

 智草ちぐさが不安げに言うので、樹は慌てて言った。

「いやいや、綺麗な肌だよ」

「本当に?」

 智草ちぐさが片手で額を隠した。そこに一つにきびがある事には樹も気付いていた。

「俺もそういう生活になるのか……」

「高校始まったら電車通学になるから早起きだよ。大丈夫?」

「う……始業八時二十分。七時九分の浅草線でギリギリ」

「どうやって行くの?」

「浅草線で三田みたまで行って、そこから三田線乗り換え」

「私は一つ手前の大門だいもんで乗り換え。そこから二駅」

「近くていいなあ」

「学校始まったら朝一緒に行こうよ。七時九分の電車に間に合うように本所吾妻橋ほんじょあずまばし駅集合で」

「同じ建物なんだから、下でよくね?」

「じゃあ、六時五十分に下で。二十分あれば松葉杖でも大丈夫でしょ?」

「登校班集合なんて小学生に戻ったみたいだな」

「ははは、懐かしいね」

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