第23話 2020年3月7日(土)

 さくらのリクエストはかなりの難問だった。一つ目のリクエスト―智草と会ってみたい―だけであれば日向と香澄を巻き込めば簡単だった。しかし二つ目のリクエストのせいでその手は使えなかった。どうしても智草と二人だけで病院へ行く必要があった。樹自身がもう退院しているのに病院へ智草が行く理由など何もなかった。軽く引き受けたものの、樹はどう実現するかに困っていた。

 ところがチャンスは思わぬ所から訪れた。何のアイデアも浮かばず、諦めて面会に間に合うようにマンションを出た所で智草と鉢合わせた。

「おはよう樹くん。出かけるの?」

「リハビリに病院へ」

「お疲れ様。大変だね」

「病院へ行くまでが既にリハビリな気がするよ」

「遠いの?」

「普通に歩ければ十五分の距離なんだけどね」

「結構な距離じゃない?」

「松葉杖だと若干キツいかな」

「途中で転ばないようにね」

 この時、樹の頭にアイデアが閃いた。

「じゃあ病院まで送ってくれる?」

 若干強引だが仕方なかった。

「ははは、いいの? 私じゃ倒れられても運べないよ」

 それはどうでも良かった。

「その時は自力で起き上がるよ」

 智草は少し考えてから言った。

「これ置いてくる間待っててくれる?」

 手に持っていたビニール袋を見せる。調味料の瓶が透けて見えた。

「サンキュ。ここにいるよ」


 智草はエレベータの下りボタンを押し、横の鏡で髪と服をチェックした。突然だったので着る物を慎重に選んでいる時間はなかった。同窓会へ行った時の白ニットに着替えた。適当だった髪は縛ってごまかした。エレベータで一階に降りると樹が待っていた。最後に別れてから二十分が経っていた。

「ごめーーん。お母さんに捕まっちゃった」

「いいよ、いいよ」

 樹は本当は待ちくたびれていたが社交辞令を返した。

「それ、同窓会の時に着ていたセーター?」

「うん」

 智草の声に少しハリがあった。

「どっち行くの?」

「浅草」

 樹が左を指す。

「手貸そうか?」

「いや、危ないからいいよ」

「ははは。私、エスコートになってないね」

「来てくれれば十分だから、それでいいんだよ」

 智草は心臓を直接摘まれたような感触を覚えた。


「その道」

 智草が小さな通りを指差す。この先に以前二人が通っていた小学校があり、この交差点は智草の思い出の場所だった。

 六年生の秋、智草はある男子生徒から執拗に嫌がらせをされていた。大人しい智草は報復が怖くて何も言えず、身を守る唯一の手段は一人で行動しない事だった。帰りも誰かと必ず一緒に下校していたが、月曜日と木曜日は委員の仕事があった。そのため月木は他の生徒より遅れて下校する事が多かった。その日は月曜日で、下駄箱に向かう智草の気分は沈んでいた。先週は下校中にノートを盗られた。そのノートは少し先のゴミ箱の中に丸めて捨てられているのを見つけた。たまたま稽古へ行く途中の樹が通りかかり、何とか元通りにするのを手伝ってくれた。破れたページもあったし、汚れも付いていたので完全に元通りにはならなかったが、惨めに一人で後始末せずに済んだ。最近は毎回なので今日も同じだろう。憂鬱な気分で靴を履き替え校門を出ようとした所で樹と会った。

「帰るのか?」

「うん」

「じゃ、帰ろう」

 樹はそれだけ言って智草と一緒に歩き始めた。二人の家は同じマンションだったので、校門から家まで同じルートだった。智草は信号待ちの時にさりげなく背後を確認した。やはりいた。慌てて自販機の影に隠れたが、間違いなくあの男子生徒だった。樹がいたので手出しがはばかられたのか、智草は久しぶりに何事もなく家まで帰る事ができた。樹は『じゃ、また明日』と言ってエレベーターから降りて行った。そのまま火曜日、水曜日は何事もなく過ぎた。そして木曜日の下校時間が来た。月曜日は思わぬ邪魔が入ったので、今日は普段よりも酷いかもしれない。いつも以上に憂鬱になりながら校舎を出たが、その瞬間に憂鬱が消えた。

「お、帰りか?」

 また樹と会った。

「樹くんも?」

「丁度帰るところ」

「私も。一緒に帰ろう」

 智草はニコニコして言った。今週はついている、一度も嫌な思いをすること無く家に帰る事ができる。帰りに背後を確認すると、やはりつけられていた。諦める気はないようだ。

 翌週の月曜日は休みを挟んだ分だけ憂鬱の度合いが増した。先週は偶然樹と会って無事に済んだが、そうそう運に恵まれるはずもない。一週間分のフラストレーションを一気に爆発させてやって来る事は容易に想像できる。今週は地獄だろう。しかし、それは起こらなかった。今日も校舎を出た所に樹がいた。

「帰るか」

 樹は当然のように言うと一緒に歩き始めたが、智草は薄々感づいていた。帰宅部の樹が遅い時間に下校する事も時にはあるだろう。校舎を出た所でたまたま智草と遭遇する事も無いとは言えない。しかし三連続は有り得ない。智草は気分が高揚するのを感じた。しかし、その気分も信号待ちの時に萎んだ。やはりいた。物陰から獣じみた目がこちらを見ている事に気付き、智草は目を逸した。背中に刺すような殺意のある視線を感じて居心地が悪くなった。横をチラッと見ると樹は気付いていないようだった。

 その週の木曜日、智草は学校で一日中ドキドキして過ごした。また樹は待っていてくれるだろうか? それともただの勘違いで本当に偶然だったのだろうか? あるいは今日は何か用事があって早く帰らなければならないとか? 様々な不安が心をよぎる。あの殺意に満ちた目が忘れられなかった。人はあんなにも憎しみを抱くことができるのかと驚いた。そもそも智草にはそこまで恨まれる理由が分からなかった。

 理由はあった。智草は矛先を勘違いしていただけだった。その男子生徒は好きな子―智草―の気を引きたくて嫌がらせをしているだけだった。子供なので自分の感情にうまく対処できていなかった。今、彼が猛烈に殺意をたぎらせているのは樹に対してであった。猛烈な嫉妬である。本人に自覚がなく、愛情を適切に処理できないのだから、嫉妬に対処できるはずもなかった。理由なく湧き上がる樹への憎悪が抑えられなかった。


 その日も樹は機械室の裏の壁に寄りかかっていた。そこからは校門と下駄箱の様子を同時に観察出来るが、壁の一部に出っ張りがあるせいで、むこうからは気付かれ難いというメリットがあった。例の男子生徒は校門近くに隠れて智草をやり過ごしてから後をつけているようだったので、校門と校舎の出入り口を同時に見張る事ができるこの場所は都合が良かった。これまでの経験で智草が靴を履き替えに下駄箱へ来た時に反対側から回れば、校門近くに隠れている相手から見られる事無く合流できた。これまでは上手くいっていたので、今日もそうする予定だった。智草は樹が気付いていないと思っていたが、樹はつけられている事にも気付いていた。しかし、この日は二つ誤算があった。一つ目の誤算は背後に足音を聞いた時に気付いた。二つ目の誤算は振り返った瞬間に気付いた。額に熱を感じた直後、痛みを感じた。生暖かい物が左眉に流れ落ちて来る。見ると、相手の手にはカッターナイフが握られていた。


 智草は結果を知るのが怖かった。自分の下駄箱に着くと、靴を出す前に回りを見回した。その出口を出た所に樹はいてくれるだろうか? それだけが気になっていた。靴を履き、上履を自分の下駄箱にしまった時に智草は気付いた。機械室の横の出っ張りの上に僅かに樹の顔が見えた。智草は安堵と高揚感を同時に感じた。だが樹は突然振り向くと機械室の影に消えてしまった。智草は機械室の方へ歩いて行った。


 樹はアドレナリンの放出とそれに伴う興奮を感じていた。試合前にはいつもこんな感じだった。但し今日はスポーツの試合ではない。地面をにじるように足裏でこすり、足場とスタンスを無意識に確認した。続く相手の攻撃は大振りでしかも遅く、余裕で躱す事が出来た。相手が素手なら二、三発は打ち返していただろう。たいした相手ではないと分かると冷静さが戻ってきた。次で終わりにしてやると決めた。ドス黒い復讐心が腹の底から湧いてきた。


 智草はあわよくば後ろから樹を驚かせてやろうと思っていた。そっと機械室の角から裏を覗いた。そこで目に飛び込んで来たのは予想外の凄惨な現場だった。例の男子生徒と樹が殺意むき出しで向かい合っていた。手には刃物が握られ、樹の顔の左半分は血で覆われている。智草は足がすくみ体が固まった。恐怖で声が出なかった。


 顔めがけて斜めに切り降ろして来た右腕に向かって、樹は自分の左前腕を内側から叩きつけた。予想外の痛みと衝撃でカッターが手から飛んで行く。直後に半歩前にステップインした樹は既に相手の懐に潜り込んでいた。脇を締め、相手のみぞおち目掛けて右拳を体ごと突き上げた。


 智草の目の前をカッターが転がっていった。智草の目にはそれが恐ろしい暴力の象徴に見えた。目を離したらそれ自体が意思を持って襲ってきそうな気がして、視線を離せなかった。角の反対側からは殴打の音と呻き声が聞こえて来る。ようやくカッターから目を離し恐る恐るそちらを見ると、樹が相手を壁際に追い詰め腹に膝蹴りを入れた所だった。相手の足から力が抜け、壁を背にずり落ちて行く。智草はこれ以上見ていられず、首を引っ込め耳を覆った。


 樹は膝蹴りを喰らって倒れかかった相手の肝臓に最後の一撃を入れた所でようやく復讐心が満たされた。相手は地面で悶絶している。顔は一発も殴っていないのできれいなままだ。勝者が血まみれで敗者が無傷に見えるという妙な光景だった。樹は獣の欲求が満たされると、感情の高ぶりが収まって来るのを感じ、次にどうするか考えた。中途半端にはしておけない。またいきなり後ろから切り付けられるのはごめんだ。かと言って教師に知れたら大事になる。今、この場でカタを付けなければならない。樹はカッターナイフを拾うと仰向けに倒れた相手の腹の上に座った。相手は苦しそうだが構わず左手で顎を掴むと目の前にカッターを突き付けた。

「人を刺そうって以上は自分が刺される覚悟も出来てるよな?」

 冷たい声を聞いて目が開き、樹を見上げた。目の奥に恐怖があった。それを見て樹は確信した。二度と手出しはしてこないだろう。樹の目は相手の目を見据えたままだったが、少し声の調子を変えた。妥協の余地を見せる。

「どうする? もう一回やるか?」

 カッターの刃の背で頬を撫でた。相手の全身の毛穴から恐怖が漂った。必死で首を左右に振った。

「二度と俺に近づくな。その代わり俺もお前を放っておいてやる。この喧嘩もなかった事にする」

 相手が首を縦に何度も振る。それを見て樹は続けた。

「智草もだ。二度と手出すな」

 相手は渋々首を縦に振った。さっきより首の動きが小さい。

「返事は?」

 相手は組み敷かれた状態でしばらく迷った後、樹の目を見て諦めた。

「……はい」

 樹は相手の上から立ち上がり、カッターナイフを平屋になっている機械室の屋根の上に投げ込んだ。はしごでも無い限り回収は出来ない。終わりだった。


 樹が自分の隠れている方へ歩いて来る事に気付き、智草は我に返った。声が出ないように両手で口を抑えたまま反対側の角を回って隠れた。何故隠れたのか分からなかったが、見てはいけない物を見てしまった事は分かっていた。隠れた智草には気付かず、樹は校庭の隅にある水飲み場へ向かった。見つかって騒ぎになるのを恐れたのか、急いで顔の血を洗い流していた。

 智草は樹が顔を洗った後、校舎に入って行く後ろ姿を確認してから隠れ場所を出た。早くこの場から離れたい一心で一直線に校門へ走った。正面玄関の前を通る時に校舎内の様子が見えた。智草の下駄箱に上履しか残っていない事を確認する樹の姿が見えた。走る足が遅くなり、やがて止まった。


 下駄箱を覗き込んでいた樹はこめかみに温かい物を感じた。まだ出血が止まっていなかった。水飲み場へ戻りもう一度水道で傷口を洗ったが、血が止まらない限りは同じだった。血を洗い落としても、次々と新しい血が傷口から流れ落ちて来る。これでは帰れない。

「こっち向いて」

 樹が振り返ると下校したはずの智草がいた。

「そこに座って」

 樹を座らせると水道で濡らしたハンカチを傷口に強く押し当てて来た。

「痛い、痛い」

「我慢して。しばらく押し付けておけば止まるから」

 智草の言う通り、十分程で血は止まった。切り口がきれいだったので皮膚同士がくっついた。そっと傷口から離したハンカチを智草は水道でゆすぐと樹の顔に残った血を拭き、もう一度水道でゆすいで絞った。白いハンカチは洗っても血の跡だらけだった。

「帰りはこれで傷口を抑えて」

「ありがとう」

 左額にハンカチを当てた樹と智草は一緒に校門を出て帰路に着いた。突き当りにある横断歩道の赤信号で並んで青に変わるのを待った。もう背中を気にする必要はなかった。


「俺達がランドセル背負って学校行ってたなんて嘘みたいだ」

 樹の声で智草は過去から引き戻された。

「もう高校生だもんね」

 結局あの日、何故怪我をしたのか智草は聞かなかった。樹も何も言わなかった。時間が経つにつれて記憶は曖昧になり、やがてそれが現実の物だったのか自信が持てなくなった。智草は樹の顔をじっと見上げた。左眉の上にうっすらと傷跡が見えた。あれは白昼夢などではない。記憶の彼方に置き忘れてきた気持が蘇ってきた。


「お、いらっしゃーーい。今日のゲストは誰?」

 葉月がしらばっくれて言う。さくらから聞いていないはずがない。

「こんにちは。佐藤智草です。樹くんとは小学校が一緒でした」

 両手を揃えて挨拶する所が智草らしい。

「葉月です。よろしく!」

「私はさくらです。よろしく」

 満面の笑みでさくらも挨拶する。内心を想像するとその笑顔が恐ろしかった。

「智草ちゃんは樹の近所なんだ?」

「同じマンションなんです」

「今も?」

「はい」

「へ〜〜え」

 葉月が樹をジロジロと見る。知ってるくせにと思うと腹が立ったが、素知らぬ顔をした。

「一つ屋根の下なんだ」

「表現!」

「ははは」

 樹はさくらの視線を感じた。

「香澄ちゃんや日向君は知り合い?」

 これまた知っているくせに聞く。

「あの二人を御存知なんですか?」

「二人ともここの常連だよ。智草ちゃんもどぉ? 遊びに来てよ」

「お誘いありがとうございます。今度は皆で来ますね」

「ぜひぜひ。お礼にこの世で一番美しい映像を見せてあげるよ。樹!」

「はいはい、これだろ」

 樹は香澄のお宝映像を再生して智草に見せた。樹には何となく葉月の目的が見えた。

「え〜〜。香澄ちゃん、こんな泣き方するんですね」

「そりゃ一年分の思いがこもってるからね」

「一年?」

「追い掛けた時間。不純な動機だろ?」

「ははは、愛の力は偉大だね」

「あれ、あんまり驚かないね?」

「何となくそんな気がしてたんで」

「やっぱり分かってたんだ」

「分かりやすい子ですから」

「本当に分りやすくて可愛いんだよね」

「一途なんですよね」

 葉月の声が微妙に変わった。

「そうそう。だから石を投げ込んだりせずに生暖かい目で見守ってあげないと」

 樹は智草が僅かに反応したような気がした。

「そうですよね」

 智草はいつもの笑顔で返した。

「成就するといいですね」

「やっぱりそう思う?」

「もちろん」

 今度は貼り付けたような笑顔だった。

「あら、そろそろ時間じゃないの?」

 さくらからのサインだった。

「おっと」

 送られたサインに葉月が答えた。

「俺もだ」

 樹も同様に答える。

「え?」

 智草は理解していない。

「智草ちゃん、ごめんね。私、検査なんだ」

「俺もリハビリの時間だ」

「じゃあ私はこれで……」

「まあまあ、折角来たんだし。二、三十分で終わるからもうちょっとだけいてよ。終わったらすぐ戻って来るから」

 葉月が引き止める

「ぜひ。お菓子でも食べましょ。お見舞いにもらった物が沢山あるから遠慮しないで」

 さくらがたたみかけたところへ樹がトドメを刺した。

「帰りは一人で帰れって?」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「ぜひぜひ」


 葉月と樹はそろって303号室を出て左へ向かい、突き当りを右へ曲がり姿を消した。唯一のデートスポット、喫煙所跡だ。

「さて、どうなるかね」

 葉月が腕を組んで言った。

「他人事だな」

「そうだよ。だから面白いし、冷静にもなれるんじゃない」

 葉月は当然のように言った。検査もリハビリも嘘だった。さくらからの二つ目のリクエストは智草と二人きりで話したいだった。

「今頃はバチバチかな?」

 葉月が樹の胸が悪くなるような事を言う。

「この後一緒に家まで帰らなきゃならないんだから、険悪なのは勘弁してくれ」

「表面上は笑顔だけど、テーブルの下では刺し合いとか」

「やめてくれ。怖すぎる」

「種を撒いたのは誰だっけ?」


 喫煙所跡で二十分ほど時間を潰した樹と葉月が戻ると、部屋の中から楽しげな声が聞こえて来た。

「ただいま」

「お帰り」

「あれま、すっかり仲良くなっちゃって」

 葉月が言った。

「そうですよ。すっかり意気投合です」

 智草が笑顔で答えた。

「こんなに波長が合うのは初めてかも」

 さくらも同意する。

「ふーん。似た者同士だったのかね」

 続けて葉月は樹にしか聞こえないようにボソっと言った。

「男の趣味一緒だしね」

 樹は葉月を睨みつけたが、葉月は意に介さず付け加えた。

「気を付けな、お馬鹿君」


 意気投合した二人の話は止まること無く続いたが、夕方になった事に智草が気付いた。

「あっ、もうこんな時間。そろそろ帰らなきゃ」

「あら、残念。気を付けてね」

「樹くんと一緒だから大丈夫ですよ」

「だから気を付けないと」

 葉月がボソッと言った。

「この怪我でも言うのかよ」

「そうやって弱ったフリして近付こうとする奴が危ないんだよ」

「まあまあ、人通りも多いし大丈夫ですよ」

「大丈夫な理由はそれ?」

「ははは、今なら私が全力で走れば絶対に追いつけないよね」

「俺って欠片も信用されてない?」

「よっぽど過去に何かやらかしたんじゃない?」

 今後はさくらがボソッと言った。

「何もしてないって」

「野獣の匂いが漂ってるんじゃない?」

 この言葉で智草は暴力的な樹の姿を思い出して身震いし、それを振り払うように言った。

「樹くんは優しいから大丈夫ですよ」

「そういう奴ほど危ないんだよ。優しい顔して安心させといて……」

「ははは。優しいアピールでつけ込もうとする人は信用できないけど、樹くんは逆に何かしてもそれを言わない人だから大丈夫ですよ」

「へえ、樹のくせにずいぶん信用されてるんだね」

「くせにって何だよ?」

「ふ〜〜ん」

 とだけさくらが言った。樹としてはこのまま七時の面会終了までいたかったが、帰り途を口実に智草を引き止めた手前それはできなかった。一旦帰る事にした。

「さて、じゃ帰るか」

「おじゃましました。今日は楽しかったです」

「また来てね。お茶しましょ」

「喜んで! 私も休校で暇になっちゃったし」

「本当に? 来て来て!」

「じゃあ明日も来ていい?」

「もちろん」

 智草はさくらと葉月にハグして別れた。何故こうなったのか樹にはさっぱり理解できなかった。


「随分気が合ったんだな」

「ははは、何でだろう? さくらちゃんは他人な感じがしないんだよね。学校の友達でもここまで合う感じは無かったな」

 樹は葉月の言葉を思い出していた。

「似た者同士ってやつ?」

「そうかな。私とさくらちゃんに何か共通点ってある?」

 葉月の忠告を思い出し、樹はごまかした。

「うーーん。女の子っぽい所とか?」

「誰だってそうだよ」

「いや、脳筋とは全然違うなって」

「香澄ちゃんを見慣れ過ぎて基準がおかしくなってるよ。あれは一般的女子とは違うから、私達みたいな普通の子と比較しちゃダメだよ」

「普通ねぇ」

 樹の目にはむしろ香澄の方が普通に思えた。話をしているうちに二人はマンションへ着いた。エレベーターを上がり、樹が降りる。

「今日はありがとう」

「お大事にね。私こそありがとう。今日は楽しかったよ」

 智草は笑顔で手を振って別れた。エレベーターのドアが閉まると同時に樹は下りボタンを押した。自分の家のある階でエレベーターを降りた智草は、エレベーターホールの鏡で髪を整えた。額に一つだけあるにきびが気になった。鏡を見ていると、どこかのフロアでエレベーターが止まりドアが開く音が聞こえた。ふとエレベーターのパネルを見ると樹が降りた階だった。ゴツッという音が聞こえてきた。この音には聞き覚えがあった。松葉杖をエレベーターの床に着いた時の音だ。パネルを見ているとエレベータは一階まで降りて行った。廊下の窓から外を見ると、今来たばかりの道を戻ってゆく松葉杖の後ろ姿が見えた。忘れ物でもしたのだろうか。後を追って行こうかと思ったが、もう帰らなければならないので智草は踵を返して家に戻った。


「おかえり。今日は二往復? タフだね」

「この足じゃマジしんどいって」

「おかえりなさい。ありがとう」

「これで約束は果たしたよな?」

「ええ。ありがとう」

「随分と意気投合してたみたいだけど」

「まさかあんな子だとは思わなかった」

「さくらちゃんは何が知りたかったの?」

 葉月が聞いた。

「どんな子なのか」

「情報戦? だとしたら圧倒的に優位だよね。向こうは何も知らない」

「それともちょっと違う。もうちょっとあざとくて嫌な子だったら良かったのに」

「あざといはあざといと思うけどな」

「普通でしょ」

「自分と同じ位って事?」

「ええ、まぁ」

「やっぱり似た者同士なんじゃない?」

「そうかもね……でもあの子を見ていると自分が嫌になる」

 さくらは曖昧に答えると樹を見た。

「ところで樹」

「ん?」

「ちょっと気になったんだけど、優しいのに言わないって何?」

「いや、俺にも何の事やら」

「また何かやった?」

 さくらと葉月が疑いの眼差しを浴びせてくる。

「やってない。マジで心当たりが無い」

 必死で否定した。

「本当に? また自覚のないまま何かやったんじゃないの?」

「それは無い。智草と久しぶりに会ってからの話は全部知ってるだろ?」

「まだ言ってない事が何かあるんじゃないの?」

「濡れ衣だ。全部話した」

「異議あり! 裁判長、被告人は宣誓下にある事をお忘れではないでしょうか?」

 葉月が法廷ドラマを真似して言った。

「真実を、真実のみを、真実の全てを」

「何? この魔女狩り裁判」

「確か縛って池に放り込んで、沈んだら人間、浮かんだら魔女だっけ?」

「それ、やってみようか」

 さくらまで言い出した。

「ちょい待ち、ちょい待ち。本当に何も心当たりが無いんだって」

「ふーーん?」

 さくらと葉月は同時に言った。

「このクズとぼけてるでしょ」

「むしろ心当たりがあり過ぎでどれだか分からないんじゃない?」

「いや、本当に。マジで分からない」

「じゃあ仕方ないわね」

 さくらは納得していない様子だ。

「明日、本人に聞いてみましょう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る