第26話 2020年3月10日(火)
ソラマチ四階にあるファーストフード店の窓からは
「だからそれは逆効果だからやめた方がいいよ。下手したら取り返しがつかなくなるよ」
智草は説教するとポテトを一つ口に放り込み、コーラを飲んだ。
「そうかな……良い手だと思ったんだけど」
香澄が弁解した。普段は良く食べる香澄だが、今日は目の前のトレイの食事にはあまり手が付いていなかった。
「いいの? 日向くんから樹と幸せにねって言われても」
「……それは嫌」
「でしょ。それに樹くんも迷惑がってるからやめた方がいいよ。友情にもヒビが入るよ」
樹とは示し合わせてやっているので問題はないが、本当の事を言える訳がなかった。まさかブーメランとなって自分に返って来るとは思っていなかった。
「しつこく誘ったり、顔ジロジロ見たり、あまつさえボディタッチとかやり過ぎだよ。そういう事は日向くんにすべき事でしょ? そんな思わせぶりな事したら相手がどう取るか考えなよ」
全く見に覚えのない事で智草から真剣にしかられていた。
「で、どんな事したの?」
「え?」
「じゃあ、まずどこへ誘ったの?」
智草は全部吐かせる気だ。香澄は樹を呪った。
「えーーと。
香澄は苦し紛れに知っている地名を答えた。
「ふーーん。どんな反応だった?」
テーブルの反対側から智草がじっと睨んでいる。
「浅草から船も出てるしいいんじゃないって」
そのコースはアリのようだ。智草は心の中でメモを取った。
「他には?」
「え?」
「一回限りでしつこいとは言わないでしょ」
「えっと…………ヒルズ?」
さらに適当に答えた。実際にはどんな所なのかも知らなかった。
「……私の学校の近くじゃない」
「そう言えばそうだね」
智草の顔を見てとっさに思い付いたとは言えなかった。
「それで何て言ってたの?」
「うーーん、行った事ないからいいかなって」
「そう。行ったことないんだ」
再び見えないメモを取った。土地勘はある。今度下見をしておこう。
「私等には縁の無い場所だから」
「それから?」
元々出歩いて遊ぶ事が殆どなかったので、香澄にはネタが無かった。必死にどこか思い出そうとして病院での会話を思い出した。
「横浜」
「何で?」
不快も顕に智草が聞いた。
「ええっと……あいつ高校が近いって自慢してたからイジってやろうと思って」
「ふうん」
不愉快だった。縄張りを侵されたような気分がした。場所のリサーチはもう充分だ、話題を変えよう。
「で、顔をジロジロ見たってのは何?」
「えっ?」
「言ってたよ。顔をジーっと見られたって」
香澄は急いで理由を作り出した。
「あ、あいつ額に傷があってさ。何かなって思って」
「失礼じゃない? 人の顔の傷ジロジロ見て」
智草はなじるように言った。あの傷は自分だけの大事な証だ。それを遊び半分に侵したのが許せなかった。
「そ、そうだね」
「で、触ったっていうのは?」
「ああ、本物かなって思って」
「触ったの?」
侵しただけでなく汚した。怒りの度合いが急増した事はテーブルの反対側からでも分かった。
「うん」
智草の切れポイントが理解できず、香澄は地雷を踏まないよう必要最低限の事だけ答えるようにした。
「顔に?」
「そう」
「傷に?」
「はい」
隙間から漏れ出していた物が今やバルブ全開に変わった事だけは分かった。
「香澄ちゃん」
声は平静だったが毒が空気中に漂っていた。
「はい……」
「それをやって日向くんとの関係は良くなったの?」
「いや、何も」
「全く目的に沿わないよね」
「はい、その通りです」
「でも友達関係は確実に悪くなってるよね」
「そう……だね」
誰との友達関係の事を言っているのだろうかと一瞬思ったが口には出せなかった。
「友達との関係は悪化する、なのに日向くんとの関係は何も改善しない。それに何の意味があるの?」
「何も無いです」
「でしょ。ダメだよそんな事しちゃ。それに、他の子使って気を引こうとか香澄ちゃんらしくない」
「そうだよね。らしくないよね」
香澄は心から言った。
「私、どうしたらいいんだろう?」
素直に反省した態度を見て智草の怒りが収まってきた。全くその気は無いみたいだし、この様子なら二度と手出しはしないだろう。
「まず自信持つところからじゃない?」
「持てないよ。日向の好みのタイプは違うって知ってるし、周りも私の事あまり女だと思っていないフシがあるし」
「そういう自信の事じゃないよ。日向くんに一番気に入られているっていう自信」
「何を根拠に?」
「一年間毎日のように付き合ってくれて、今も毎日家に通ってるんでしょ? どう見たって普通の関係じゃないよ」
「そうかな?」
「そうだよ。異常さに気付きなよ」
智草はコーラを一口すすった。
「その事実だけ切り出したら彼女以外の何物でもないよ」
香澄の顔が少し熱くなった。
「でも全然そんな感じじゃなくて。本当に何も無いんだよ、私どう思われてるんだろう?」
「好きにきまってるじゃない」
智草は当然の事実のようにあっさりと断言した。正面で香澄が固まっている。
「香澄ちゃんは嫌いな相手と毎日会える?」
「学校では普通に毎日会ってたよ。本当は大嫌いなのに、さも仲良さそうに茶番演じて」
「そういう女子コミュニティーな話じゃないよ。その手の面倒なら女子校には溢れているから幾らでも聞かせてあげるよ。そうじゃなくて、会わない自由があるのに毎日ワザワザ会うかって事。もう卒業なんだから嫌な相手とは会わなくても大丈夫でしょ。休み中ならなおさらじゃない。なのに日向くんとは毎日会ってる訳でしょ」
「私が無理やり押しかけてるだけだけどね」
「そんな理由だけで延々と一緒にいる訳ないじゃない。本当は嬉しいんだよ」
「そうなの?」
香澄の顔が少し明るくなった。
「当たり前じゃない」
智草はまた一口ストローを吸った。
「でも今のままじゃ友達のまんまだよ」
「大丈夫だと思うよ。他の子が日向くんの彼女になりたかったら、まず少なくとも香澄ちゃん以上の友達にならないと無理だと思うよ」
「その二つって違うポジションじゃない?」
「いきなり好きになる。そんな事あり得る? どんな相手なのかも分からないのに」
「う……ん」
「家族以外で日向くんと過ごした時間が一番多いのは香澄ちゃんじゃない?」
「この一年で水野を追い抜いたかも」
「だったら彼の事を一番良く知ってるんだよね?」
「本当に分かっているか自信が無いけど」
「じゃあ自分より日向くんの事を理解していると思う女の子の名前を挙げて」
「それは……いないと思う」
「じゃあやっぱり一番なんじゃない」
「だといいけど」
「一緒に過ごした時間の重みを軽く見ちゃダメだよ。そこをひっくり返すのはもの凄く難しいんだから」
「そうなの?」
「今せっかく一番の座にいるんだから、誰も追いつけない不動の一位にならないとね」
店を出ると、香澄と智草は先週カフェ帰りに四人で通った階段を降りて東武線の駅前に出た。ガードをくぐると同窓会の会場に使ったカラオケボックスが見えた。智草はあの日の出来事は隅々まで覚えている。
同窓会の日、智草は時間通りに七時に会場へ行った。何人かK小学校出身の生徒がいたので旧交を温めたが、会ってすぐに智草と分かった者は一人もいなかった。自分ではそれ程変わったつもりは無かったのだが、口を揃えて変わったと言われた。三年の月日がそれ程までに自分を変えているとは思っていなかった。香澄から樹が遅れると聞かされ、タイミングを逃さないようにさりげなく入口近くのテーブルに陣取った。樹に気付いてもらえるか不安だった。三年ぶりに引出から出したハンカチが自分に勇気を与えてくれる事を祈って強く握りしめた。
一時間程経ってから突然、松葉杖の男が部屋に入って来た。智草は見た瞬間に樹と分かった。かなり成長して変わっていたが、面影があった。樹が部屋の中を見回わすと智草と目が合った。智草は一瞬ドキッとしたが笑顔で手を振った。樹に気付いた香澄もニヤニヤしながら手招きすると、樹がやってきて座った。智草のすぐ横、五十センチの場所に樹が座ってこちらを見ていた。
「樹くん、お久しぶり。私、分かる?」
樹は数秒間顔を見ただけであっさりと答えた。
「智草か?」
「あーー、覚えててくれた」
「ようやく正解一人目。誰も思い出してくれなくて智草寂しかったんだよね。水野、良く分かったね?」
「同じマンションで登校班一緒だったからな」
樹が自分の事を覚えていただけでなく、一瞬で気付いてくれた事が嬉しかった。
「美人になったな。これじゃみんな分からないって」
「ははは……」
突然の発言にかろうじて笑って答えたが、かなり動揺していた。
「どこだっけ? 確か白金の方の学校だったよな」
「麻布だよ」
「垢抜けるはずだわ。山田に少し仕込んでやってくれよ」
今度は垢抜けたと言われさらに動揺した。初っ端からペースを大きく乱されてしまった。
「言いたい事は直接言ってくれる?」
「散々言ったけど、効果一つでもあったか? 智草に脳筋卒業させてもらって来い」
「いやややや、私が香澄ちゃんに教えてもらう方だから」
これ以上樹に何か言われたら計画が崩壊してしまいそうなので、思わず全力で否定した。
「こいつ最近図に乗りっぱなしだから甘やかさない方がいいって。自分で天才美少女とかイタすぎだろ」
「イタい奴にしか言ってないから大丈夫だよ」
突然ツボに入って笑いそうになってしまったが何とか耐えた。会話のペースと間合が普段自分がしている物とは全然違っていた。
「凄いじゃない、さすが香澄ちゃんだよね。高い目標を設定して、それに向けて努力して結果を出すなんて普通じゃないよ。カッコ良過ぎ」
とりあえずはお約束で返した。
「動機はアレだけどな」
「え?」
「何でもない」
謎の回答だったが、それ以上説明する雰囲気はなかった。その時に日向が戻って来た。
「樹、松葉杖で大丈夫だった?」
「思ったより時間かかった」
「樹くん。さっきから気になってたんだけど、その足どうしたの?」
改めて話題を振りなおした。
「勲章でしょ」
「脳筋の仲間にしないでくれ。稽古中に折った」
「空手、続けてたんだね」
自分もちゃんと樹の事を覚えていると匂わせた。
「受験でサボって久しぶりにやったら自爆した」
「大丈夫? 治るまでどれくらいかかるの」
怪我はチャンスだ。大いに気遣う様子を見せた。
「全治一年」
「学校は?」
「普通に通うつもりだけど」
「どこなの?」
樹がどこの高校へ行くのかは一番聞きたかった事の一つだったが、本人が答える前に香澄が割って入った。話の腰を折られて少しイラッと来た。
「水野だけ田舎送りだよな。私達が港区で青春をエンジョイしている間、田舎の男子校でモブってな」
男子校という重要単語は聞き逃さなかった。男女別学がどういう環境なのかは良く知っている。樹の周囲を飛び回るハエはいない。これは良い兆候だ。
「ははは、私も女子校だからモブだね」
すかさず自分も同じだとアピールした。
「智草も別学か。それじゃ高校行ったら私が学校の男子集めて持ってくから好きなの選びなよ」
香澄が再び割って入って来た。普通であればありがたい話かもしれないが、今は迷惑でしかない。
「ありがとう。でもそれはちょっと怖い感じが……」
「智草なら選び放題だよ。な、水野」
「大丈夫、それだけ可愛いければ断る奴はいない。安心して行って来い」
自分の心臓の音が他人に聞こえるのではないかと思う程に大きく聞こえた。社交辞令でも面と向かって言われると免疫のない心身には効いた。
「ははは、ありがとう。流石にちょっと赤面するよ」
表には出さなかったが内心は既に真っ赤だった。
「そう? 事実じゃん」
既に限界だった。
「ははは……随分言うようになったんだね」
それだけ言うと、智草は席を立ちトイレへ向かった。個室の中に隠れて落ち着きを取り戻そうとした。三年前に言えなかった事を言うために来たはずだったのだが、このままではまた何も言えないまま終わってしまう。智草はハンカチを手に取って祈った。聖書を信じた事はない。礼拝でも心から祈った事はなかった。
「それでも今日この瞬間だけで良いから私に勇気を与えて下さい」
「じゃあ、智草またね」
「香澄ちゃんも。今日は誘ってくれてありがとう」
「智草、水野に気を付けて帰るんだよ」
「日向、山田に気を付けて帰れよ」
「っさい、さっさと帰れ!」
交差点で香澄達と別れると智草は松葉杖の樹のペースよりもゆっくりと歩いた。
「こうやって一緒に帰るのも久しぶりだね。覚えてる?」
「ああ、この先の道が通学路だったよな」
「あの頃、私嫌がらせされてたでしょ」
樹は考えるように黙った。智草は完全に忘れられているのではないかと不安になった。
「学校帰りにノート捨てられて泣いてたっけ」
ほっとした。闇に葬ったとはいえ事件を忘れてはいない。
「その後しばらく一緒に帰ってくれたでしょ」
「そんな事もあったかな」
曖昧な言い方だった。当時でさえ何も言わなかった樹だ。今更言う訳がなかった。胸の奥が締め付けられるような感触を覚え、発しようとしている言葉が喉に引っかかった。ハンカチを握り締め、喉に引っかかっている言葉を強引に口まで送り込んだ。
「本当は凄く嬉しかったんだよ。ずっと言えなかったけど、ありがとう」
ようやく言えた。かすれた声には気付かれなかったようだ。樹の顔を真っ直ぐ見られなかったが、横目で見上げると額の傷が見えた。胸が少し熱くなった。
「しかし、同じマンションに住んでるのに全然会わないな」
「生活時間がズレてるんだよ。私は朝八時に予鈴だから七時頃には家を出てるんだよ。地元中学は徒歩通学だからもっと遅いでしょ?」
「最悪八時に起きても何とかなる」
「それ私の予鈴の時間! 不公平過ぎる」
「智草は何時起き?」
「六時前」
「早起きだな」
「最初は本当に辛かったよ。寝る時間も小学生並」
「夜更しは肌に良くないって言うし、丁度良いかもよ」
「そんなに肌荒れてる……?」
自分がどう見えているのか気になった。
「いやいや、綺麗な肌だよ」
「本当に?」
綺麗と言われて悪い気はしなかったが、手で一つだけあるニキビを隠した。
「俺もそういう生活になるのか」
「高校始まったら電車通学になるから早起きだよ。大丈夫?」
「う……始業八時二十分。七時九分の浅草線でギリギリ」
「どうやって行くの?」
「浅草線で三田まで行って、そこから三田線乗り換え」
智草は苦労して表情を保った。突然の事に心臓がやかましく鳴り始めた。自分の通学ルートの大半が樹のそれと重なっている。
「私は一つ手前の大門で乗り換え。そこから二駅」
「近くていいなあ」
智草は毎朝七時十七分の電車に乗っている。八分早めれば樹と同じ電車だ。もう一度ハンカチを握りしめて言った。
「学校始まったら朝一緒に行こうよ。七時九分の電車に間に合うように本所吾妻橋駅集合で」
断られたらと思うと答えが怖かった。
「同じ建物なんだから、下でよくね?」
想像以上の回答があっさりと返ってきた。毎朝家の前で待ち合わせるという状況に高揚感が抑えられなかった。
「じゃあ、六時五十分に下で。二十分あれば松葉杖でも大丈夫でしょ?」
「登校班集合なんて小学生に戻ったみたいだな」
「ははは、懐かしいね」
智草はまた平静を装うのが難しくなっていた。
「いつ私があんたに触った!」
夜、日向の家から帰った香澄から早速オンライン苦情が来た。
「何を興奮してるんだよ?」
「まあまあ、香澄ちゃん落ち着いて。まずは状況を整理しようよ」
葉月が仕切り始めた。とりあえず諌めて香澄から何があったのかを聞き出した。
「どんだけ妄想してんのよ」
「そういう作戦なんだから仕方ないだろ」
「何で私があんたを三回もデートに誘わなきゃいけないの?」
「それは言ってないぞ」
「おまけに見たとか触ったとか」
「それは言ったかな」
「智草に散々説教されたんだけど」
「ほお、そうか。冤罪はお互い様だよな」
樹はソラマチの一件を忘れていなかった。
「まぁ日向にヘタな事する前に気付けて良かったじゃないか」
「うん。それは確かに良い指摘だったね」
「やれって言っといてそれ?」
「うーーん、普通の男子ならこれでいけるんだけどな」
「私、怒られ損?」
「まあまあ。樹と幸せにねって危なく言われる所だったんだから、その前に分かって良かったじゃない」
「まぁ、そこは」
「一緒に重ねた時間に価値があるなんていい事言うわね。間違いなく一番ね」
これまで黙って聞いていたさくらがしみじみと言った。
「一番の友達?」
「それ以上でしょ」
「でも何も無いんだけど」
「友達以上、恋人未満ってやつ?」
「そんな感じが全然しない」
「友達以上、端数切捨て」
樹が言った。
「ちょっと!」
「どうしたら端数を切り上げれられるんだろうね」
「何てもどかしい奴らだ」
「らしいよね。二人とも」
さくらと樹は消灯時間後に二人だけで話していた。
「もう一生このままなんじゃねぇの?」
「それでも羨ましいな」
「そんなんで良いの?」
「一緒に時間を重ねて、それに価値があるって素敵じゃない?」
「そうだね……」
さくらとは時間を積み重ねる事は出来ない。今となっては会う事すらままならない。残された僅かな時間が失われて行くのを虚しく眺めているだけだった。時間が無尽蔵にあり、それを信じて疑わない香澄達が羨ましかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます