第21話 2020年3月5日(木)
ドアのチャイムを鳴らすのには少し勇気が必要だった。香澄が日向の家を訪れるのは初めてだった。昨日連絡したら予想通り日向は快諾してくれた。朝九時集合だったが、香澄は六時には起きて準備していた。とは言っても勉強に関する準備は最後の十五分だけで、残りの時間はそれ以外の準備に費やした。今朝はシャワーを浴びている所を妹に見つかった。
「どうしたの? 朝からお風呂なんか入って」
姉が朝風呂に入る姿など見たことがなかった。いつもは朝練ですぐに汗をかくから入る意味がない。
「結構寝汗かいちゃったんで」
「髪まで洗ったの?」
「ん、まぁ。たまにはね」
以前は大して気にしていなかったが、今日は特に自分の匂いに敏感になっていた。普段は適当に済ませている身支度もしっかりとした。全ての準備が整って時計を見ると八時半だった。日向の家までは十分もかからないが、落ち着かないので家を出た。早く着いてしまったので周囲をぶらぶらと歩いて時間を潰し、約束の三分前に日向の家のチャイムを鳴らした。しばらく誰も出てこなかった。家の中から音もしなかった。時間を間違えた? 忘れられた? 色々な失敗パターンが頭の中を駆け巡り始めた時に突然ドアが開いた。
「おはよう」
日向がいた。起きてからあまり時間が経っていないらしい。頭に寝癖がついていた。
「おはよう」
「どうぞ。入って、入って」
「お邪魔します」
香澄は恐る恐る玄関に足を踏み入れた。
「今日は
日向の弟しか家にいないと聞いて香澄は少しほっとした。
『今日もリハビリ行くの?』
樹は着信で智草からのメッセージに気付いた。簡潔に返信した。
『午後から』
『ちょっと相談したい事があるんだけど、行ってもいい?』
突然の相談だったが、家族が在宅中で二人きりになる訳ではないから問題ないだろうと考えた。
『いいよ』
『今から行くね』
「日向。俺、外行こうか?」
ソファーに寝転んでゲームをやっていた弟の
「いや別に。っていうか出歩いちゃダメだろ」
「ああ、そうか。じゃあ誰かの家に行ってくるか」
「外に出たくてしょうがないのか?」
「いや、彼女を連れ込んでるから気を使ってるんだけど」
香澄は顔が少し熱くなったような気がした。
「違うって。気の使い方間違ってるから」
香澄は思った。違うは何に対する物なのだろう?
「勉強を口実に家に連れ込んでるんだろ?」
「ウチの学年で同じ高校行くのは山田だけなんだよ」
ようやく
「いらっしゃい」
「久しぶり。何年生になった?」
香澄が満面の笑みで挨拶する。下級生の扱いは得意だ。
「こんど二年」
「ウチの妹と一緒だね。何組?」
「3組」
「スーと同じ組だね」
部活の後輩のあだ名だ。
「あいつ、噂メチャメチャ広めてたけど」
「何の噂?」
「どんな不可能も可能にするって」
「ああ、県大会優勝校との試合? あの時はスーもかなりがんばったんだよ」
「いや、そっちじゃなくて」
「え、何?」
「偏差値十以上足りてなかったのに、」
「ああ、そっち」
香澄は振り向いて日向と目を合うとニッと笑ったが、
「彼氏を追っかけて無茶な試験に挑戦して合格したって」
香澄はまた顔が熱くなって来るのを感じ、慌てて日向に背中を向けた。
「その彼氏がお前の兄貴だって言われたけど」
香澄は顔に続いて耳まで熱くなって来た。
「多分、一緒に勉強している所を見られたんだな。皆すぐそういう話に持って行こうとするからな」
日向は無責任な噂を広められた事に腹を立てているようだ。
智草はエレベーターを降りた。同じマンション内の移動は簡単だ。エレベーターホールの鏡を見ながら手で髪を整えた。家を出る前に整えたばかりだったので意味は無かった。ベルを鳴らすと女の子がドアを開けた。樹が出るものと思い込んでいた智草は一瞬戸惑ったが、すぐに思い出した。樹の妹だ、昔の面影が残っている。
「こんにちは、葵ちゃん。お久しぶり」
智草が満面の笑みで挨拶をした。
「はぁ、こんにちは」
葵は誰なのか分からず戸惑っていた。見覚えはあったが誰なのか思い出せなかった。
「智草だよ。登校班の」
「ちぐちゃん?」
葵は不思議そうな顔で言った。最後に会ってからかなり時間が経っていたので記憶が曖昧だった。
「そうそう。思い出してくれた?」
「悪い、悪い。入って」
樹が片足で飛び跳ねながら奥から出て来た。
「こんにちは。ごめんね、突然」
「いいよ。午前中は暇だったんだ」
「おじゃまします」
智草にとっては数年ぶりの水野家だった。樹が片足ジャンプで奥へと案内した。
「お茶でいい?」
キッチンから樹が聞いた。
「お構いなく」
キッチンを見ると樹がペットボトルの麦茶を乱雑にグラスに注いでいた。
「その足で運ぶのは危ないよ。貸して」
智草はキッチンに入って樹からペットボトルを取り上げ上品な所作でグラスに注いだ。見つけたお盆でグラスをリビングへ運ぶと、テーブルの上にグラスを置いてから樹の向かいに座った。
「そう言えばウチに来るの久しぶりじゃない?」
「一回だけ。葵ちゃんもまだ低学年の頃だったかな」
「そうか、そんな昔か」
樹はグラスから一口あおった。
「で、相談って?」
香澄は誤算だった事に気付いた。いくら階下に
「じゃ、まずは軽く記憶さらっておこうか。解の公式は流石に忘れてないでしょ?」
「まさか」
香澄は自分がこんなに舞い上がっているのに、日向が全く平気な顔をしている事に若干ムッとした。先程の
「三平方、等積変形は?」
「大体は」
「図形は?」
「あまり得意じゃないの知ってるでしょ」
「三角関数ってのがあるらしいよ」
「また三角形?」
「離れられないみたいだね」
「今日は数学染め?」
「それでも一日じゃ終わらないよ」
「休み中だけど、付き合ってくれる?」
香澄は口にしてから言った事に気付いて、自分の発言にドキドキした。
「もちろん」
「いいの? 朝からで」
「明日の午前中は予定があるから午後からにして欲しいけど、適当で大丈夫だよ。休校で暇だし」
「ありがとう……付き合ってくれて」
また言ってみた。
「いえいえ、どういたしまして」
日向のいつも通りが恨めしかった。
「で、相談って?」
「樹くんって日向くんと仲良かったよね?」
「小学校からの付き合いだよ」
「どんな人なの?」
智草はストレートに聞いた。樹は何かが良くない方向へ進んでいるのではないかと心配になって来た。
「どうって聞かれても表現が難しいな。それにあいつの事は知ってるだろ?」
「面識はあるよ。でも、樹くんほど詳しくは知らないなと思って」
「どうした急に。日向に興味持ち始めて」
「明日誘われてて」
「なぬっ!」
樹は動揺を隠せなかった。心の中で香澄に毒づいた。
「あ、誘われてるって言っても、ちょっとお茶するだけだよ」
「マジか……あいつ!」
樹は頭の中をフル回転させるが、何も浮かばなかった。自分が何とかするしかない。葉月に相談したいが、明日と言っていた。今日の午後に相談したとして間に合うだろうか?
「どうしたの?」
「いや、あいつにしては意外だと思ってね」
「そうなの?」
「そんな誘うタイプじゃないんで」
「そうなんだ。気軽に女の子誘うような人じゃないんだね」
発言を誤った。慌ててリカバリーを狙う。
「でも結構野獣な所もあるからから二人で会うのは危険かも」
日向を良く知っているだけに、樹は自分が言っている事に無理があると思った。
「ははは。ソラマチの喫茶店で野獣? 通報されるよ」
失敗だ。樹は攻め方を変えた。
「そう言えば山田の勉強見るって言ってた件はいいのかな?」
「それは午後からだから、午前中にお茶しようって」
牽制球はあっさりかわされた。
「そ、そうか」
「休みになっちゃったし丁度良かったよね」
笑顔で答える智草の前で、再び樹は心の中で香澄を罵倒した。必死で考える樹をよそに智草は話題を変えた。
「樹くんは普段休みの日はどうしてるの?」
樹はギブアップした。話題を変えられてしまった。智草は樹の内心は露知らず髪をいじっている。
「最近まで受験生だったからね。どんな休日か分かるだろ?」
「私も六年生の時は塾ばっかりだったな。最近はどうしてるの?」
「受験が終わった翌日に骨折して入院。退院してからはリハビリに行くか家でゲームしてるか。本当は色々遊びに行くつもりだったのに予定が全部飛んだ」
「どこ行くつもりだったの?」
「ん〜〜、チャリで何も考えずに行ける所まで行くとか」
「ははは、何それ? 面白そう」
「TDL行こうって話もあったんだけど、この脚だし」
「いいな、私も久しぶりに行きたいな」
智草は髪をいじりながら樹の顔を真っ直ぐに見ていた。
「休園中だってさ」
「ははは、どっちにしてもダメだね。他の場所探さないとね」
「どっか開いてる所あるのかな?」
会話の誘導は上手くいった。智草は髪をいじりながらあらかじめ用意しておいた答えを言った。
「ハンマーヘッド」
「何それ?」
「
「ふーん。知らなかった」
実は智草も良く知らなかった。樹の高校の場所と路線図を頼りにネットで調べただけだった。
「高校、神奈川でしょ?」
知ってて聞いた。
「横浜市港北区。先に言っておくと海はない」
「横浜近いの?」
これも承知の上で聞いた。
「急行に乗れば十分」
「いいな。学校の帰りに遊びに行けるじゃない」
「放課後に男同士で行く所じゃないだろ、どう考えても」
そう言うだろうと思っていた。
「じゃあ女の子と行く?」
思い切って言った智草は知らなかった。それを聞いて樹が想像したのは智草ではなかった。
「いいね」
勘違いに気付かず、智草は針に魚がかかった時の興奮に背筋が震えた。
「ランドマークタワーの展望台も久しぶりに行きたい」
「眺めいいのかな?」
「私が行ったのはかなり前だけど、天気が良いと本当に綺麗だよ」
展望台から眺める真っ青な空と海。樹の夢想が膨らむ。
「近くに観覧車もあるし、赤レンガ倉庫や山下公園もいいよね。元町や中華街もあるし」
「詳しいな。俺は行ったことないから分からないけど、そんなに色々あるんだ?」
「一日じゃ回り切れないよ」
「遠いから考えたこともなかった」
「品川からなら二十分もかからないよ」
「そんな近いんだ? 一時間くらいかかると思ってたよ」
「いつの時代?」
「生麦で外人が切られてた頃かな」
「はは、さすが現役。すっかり忘れてたよ」
「三年後には大学受験するつもりなんだろ? むしろ智草の方が現役じゃないか」
「まだ三年も先だよ。勉強だけに青春使い果たしたくないよ。それに……」
少し口ごもった。
「行きたい所も沢山あるんだから」
「そうだな……いつか行きたいな」
樹はそれが叶わぬ夢だと承知していたので心の底から言った。
「騒ぎが落ち着けばいつでも行けるよ」
その時間がさくらには残されていない。品川からわずか二十分、そんな場所すら一緒に行く事は叶わない。樹は浮かない顔で生返事をした。
「そうだね」
「あらら〜〜、先手打たれちゃった」
葉月が言った。
「山田、あいつ何やってやがった。どうすりゃいいんだ、これ?」
「日向君からは何も聞いてないんだ?」
「何も」
「秘密にしたって事は、やっぱり二人きりで会いたかったのかな?」
「入学式前に終わったな、山田」
「ちょっと、ちょっと。勝手に蛍の光流さないでよ」
「でもここから先はもう二人の問題だから俺にはどうしようもできないぜ?」
「そんな事ないよ」
「何で?」
「二人きりにさせなきゃいいんだよ」
「どういう事?」
「その場に乱入したら? 友達が集まる和気あいあいティータイムに変えちゃえばいいんだよ」
「どうやったら乱入して和気あいあいになれるんだよ? どう考えてもタダの迷惑系だろ」
「一人ならね。でも香澄ちゃんと二人で乱入しちゃえばいつも通りの仲良し展開になるんじゃない?」
「いいけど、俺達はそこにどういう理由でいるんだよ? 俺と山田が午前中のソラマチに偶然居合わせるってかなり不自然だぞ。しかも見つかると色々とマズいんだけど」
「それは君達の事情が何か必要だから、適当な理由を作ってもらうしかないね」
「丸投げかよ」
「まあ、ちょっと気になる点もあるけれど、とりあえずぶち壊しに行ってみようか」
樹は葉月のコメントに若干引っかかる物を感じつつ、スマホを取り出し香澄にメッセージを送った。
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