第2話 2020年2月15日(土)
窓の外は寒々とした冬の曇り空だが、道場内にはスパーリングの熱気がこもっていた。『ゴツッ』という音と共に左の蹴りが顎に入った。相手の高校生は床に膝をつき、そのまま立ち上がれなかった。軽い脳震盪を起こしている。口の中を切ったらしく白い道着の襟に新しい小さな赤い点が見えた。
「そこまで。下がって」
「押忍!」
「はい回って」
次のラウンドの合図だ。
「押忍、お願いします!」
再び両手で十字を切って構えた。眼の前の相手の腰には黒帯が巻かれている。道着の上からでも分かる分厚い筋肉が無言の威圧感を放っていた。ちょっとした隙も見逃してはくれない。少しでも手が下ると顔面に蹴りが飛んで来るのを承知していたので
「始め」
合図と同時にストップウォッチのピッという音が聞こえたが、その時には既に外の世界は意識から消えていた。目の前の相手に全集中力を注ぐ。注意をそらす余裕はなかった。鍛え上げた大人と未成年との体格差は絶望的で、キャリアの差がもたらす技術差はそれ以上だった。そもそも歯が立つような相手ではない事は承知していたが、格上の相手だからと腰が引けていては意味がない。
足を使って距離を取り円を描くように移動した。捕まってはいけない、素早く入って打撃を入れ反撃が来る前に距離を取るヒット・アンド・アウェイを繰り返すしかない。左構えのオーソドックスから右構えのサウスポーにスイッチした瞬間に右ストレートが飛んできた。予想通りだ。相手のスイッチに合わせて突いてくるのがいつものパターンなので、承知の上で誘ったのだ。再度スイッチして相手の腕の外側に回り込むようにパンチを躱すと、下段回し蹴りから左右のパンチを入れ、最期に上段へ回し蹴りを放った。蹴りは軽々とブロックされたが、こうなる事は予想していた。離れ際の一撃を喰らわないように左のパンチで牽制して距離を取ると、再び円を描くように相手の周りを回った。動く度に
打撃は全く効いていない。防弾チョッキのような筋肉を叩いたところで効果は知れている。ピンポイントで弱い場所に当てなければならない。次の狙いを右脇にある肝臓に定めた。ここを叩かれると激しい痛みと呼吸困難に襲われる。いわゆるレバーブローだ。コツは脇腹ではなく脇下の肋骨の辺りを狙う事だが、相手の腕が邪魔になるので入れるのは難しい。脇を空けさせる必要がある。
蹴りが入った瞬間に乾いた大きな音が響き、その後は周囲の音が急に遠ざかって行った。脚に痛みを感る。全力で叩き込んだ回し蹴りは膝でブロックされていた。目論見は最初から全て見抜かれていたのだ。後ろへ倒れそうになった瞬間に襟を掴まれ、そのまま床の上に仰向けに寝かされた。相変わらず周囲の音が遠くで聞こえる。気分が悪くなり、吐き気がして来た。脚から徐々に上へと痛みが広がって来る。自分の体に何かが起こった事だけは理解できた。
「この場所で脛骨と腓骨が折れています。手術ですね」
医者は事もなげに言った。その指はモニター画面に映し出された二枚のレントゲン写真を指差している。拡大された黒い枠の中に白い骨が二本写っているが、どちらも中央の辺りに黒い線がくっきりと見える。医者にとって骨折は珍しい物ではないし、折れているのは常に他人の骨だ。しかし診察台に真っ青な顔で座る患者にとってはそうではない。折れているのは自分の足だ。これまで病院の世話になった事のない
「この部分を開いて折れた骨を金属ボルトで繋ぎ合わせます」
今度は画面ではなく、折れた左足の脛を指差して言った。
「手術後一週間程度で退院はできますが、継続的にリハビリが必要になります。問題がなければ一年後に再手術をしてボルトを外しましょう」
不注意な蹴りの代償は思っていたよりも大きかった。近くの病院に担ぎ込まれて三十分が経っていた。
「運動はいつから出来ますか?」
気になっていた質問だ。
「リハビリの状況次第です。若いから回復は早いとは思いますが、個人差があるので今は何とも言えません。通常は松葉杖なしで歩けるようになるまで一〜二ヶ月、軽いジョギングが出来るようになるまでは半年くらいかかります」
失望するには充分な回答だった。この先一年近くはまともに動けないだろう。間もなく高校生になる
「手術ですが、今日の夕方を逃すと再来週まで空きがありません。それで良いですね?」
可否を問う質問ではなかった。同席している
「今日でいいね?」
こちらも有無を言わせない口調だ。命に別状がない上に原因が原因なので、さっさと終わらせろと言わんばかりだ。患者本人が応える前に手術が決まった。
初めての手術なので大手術を想像していたが、夕方から始まった手術は六時過ぎには終わった。麻酔のお陰で痛みもなかった。正直なところ手術そのものよりも麻酔注射を打たれる時が一番痛かった。手術が終わり手短に説明を受けると、車椅子で三階まで運ばれた。エレベーターを降りて廊下を進んだ先にナースステーションが見える。看護師は車椅子をステーション横に止めると奥にある部屋へ入って行った。
「ええ、それしかないですね。まあ短期ですから」
どうやら自分の事のようだ。看護師は受話器を置くと戻って来て、申し訳なさそうに言った。
「ごめんね。予定していたベッドがさっき急患で埋まっちゃって。他に一つだけ空いているベッドがあるから、そっちに泊まってもらえる?」
予定されていたベッドを見た事も無いので、何が違うのかも分からない。全く意味が理解できなかった。
「303号室だよ」
そのまま車椅子で連れて行かれた部屋でようやく意味が分かった。303号室は小児病棟だった。六台のベッドが置かれた部屋は病室というよりは幼稚園みたいだった。保護者と思しき大人が何人かいる。
「本来小児科は0歳から十五歳だけど、高校生が入院する事もあるんだよ」
看護師は取り繕うように言った。老人ばかりの病室に入院したかった訳でもないので文句は言わなかった。
「こんばんわ! 今日から仲間になる
幼稚園のような紹介の仕方だった。
「よろしく。
『仲間』という表現に違和感を感じたが、何も言わず自己紹介した。
「
付添中の親達が近所のママ友のように迎えてくれた。小児病棟と言うと病気を抱えた子供達が難病に苦しみながら耐える場所というイメージがあるが、雰囲気は意外に明るかった。子供達は小学生以下が殆どのようだ。初対面の相手を警戒しているせいなのか、樹は子供達から無言の視線を浴びせられた。ベッドの配置は通路を挟んで左右に三つずつ並んでいる。左側中央のベッドが空いていたので、そこが自分の場所だと分かった。看護師に支えてもらい、車椅子からそのベッドへと移動する。
「私さくら、宜しくね」
ベッドに落ち着いた所でと隣の窓側のベッドから白いニット帽を被った女の子が話しかけてきた。二歳下の妹と同じくらいの年齢のようだ。
「ね、
初対面にしてはずいぶんくだけた挨拶だった。前半は質問に聞こえなかったので後半だけ答えた。
「三年。春から高一」
「へえ、近い歳の子が入って来るのは久しぶり」
さくらの笑顔は印象的だった。華が突然開花して満開になったように瞬時に明るくなる。
「さくらは?」
「私は去年卒業」
去年卒業したと言うことは春から二年生、やはり妹と同じ歳だ。子供相手に目を逸らしてしまった事が気恥ずかしかった。
「どこ中?」
取り繕うように聞いた。
「一度も行った事ないから、この学校の生徒って言えるような学校はないかな。中学は卒業式も出てないし」
この回答は予想していなかった。去年卒業したのが中学という事は春から高校二年生、妹どころか年上だ。
「結構前から入院してるんだ」
動揺をさとられないように取り繕った。
「小四の時から。だから小学校も半分くらいしか行ってないんだよね」
「だから
また華が咲いた。今度はさくらの笑顔から目が離せなくなっていた。
「一週間だけど宜しく」
「一週間なんだ」
少し失望した声だった。
「医者はそう言ってた」
「退院したら家に帰るんでしょ? 近いの?」
「
「近いじゃない。ずっと
「いや、ウチはマンション族だから。昔からの住人じゃない」
「いつから住んでるの?」
「小学校の時に転校して来た。さくらは?」
「私は
「完全な地元民だな」
「そう言えるのは小四までだけどね」
そう言うさくらの顔は少しシニカルになっていた。
「何の病気?」
「リンパ系」
「って何?」
「私も良く分からない」
あまり言いたくないという雰囲気を感じて
「で、小四からずっと病院?」
「六年生の終わりに半年だけ学校に戻ったけど」
一瞬だけさくらの表情を盗み見た。淋しさと諦めが微妙に混ざりあった横顔だった。同級生達はこういう顔はしない。
「中学に上がる直前の三月に再発してまた入院。それからは色んな病院を転々としてる」
転院という物を知らず、ずっとこの病院にいたと思い込んでいた
「ここにはどれくらい、さくらパイセン?」
「去年の九月から。ところで何で先輩?」
「新入の後輩には優しくでしょ」
「それが目的? ウチの弟だってもう少し頭使うよ」
「やっぱダメか」
始めから期待していなかったので大人しく引き下がった。
「で、何でそんなに病院引っ越すの。しんどくない?」
「色々な治療法を試すためだよ。病院によって出来る治療や得意分野が違うんだよ」
「病院なんて全部同じだと思ってた」
健康の塊の樹にとって病院は最も縁の無い場所の一つだった。
「こらこら、病院はコンビニじゃないの。どこでも同じものが並んでいる訳じゃないよ」
「病院巡りして治療はうまくいった?」
「大学病院は嫌い。嫌な記憶しかない。痛くて、いつも気分が悪くて。あの建物を見ただけで吐きそう」
さくらが質問に答えなかった事に気付いたが何も言わなかった。
「その治療ってここでもまだやってんの? あまり気分悪そうに見えないけど」
「今はもう続けてないから大丈夫」
「良かったじゃん」
「そうだね…………」
その時、看護師が部屋に入ってきて大声で宣言した。
「はい、じゃあ寝るよ!」
そう言うなり次々とベッド周りのカーテンを引いて行く。さくらとの会話もそこで中断された。明かりも消されたが、病室は完全に暗くはならない。
「……うぅ」
「痛い?」
「少しだけ」
「夜は辛いよね、分かるよ。夜中に一人でいると、誰もいない世界に一人だけ取り残されたような気がしてくるよね」
「悪い、起こしちゃった?」
「いいよ、慣れてるから」
「大学病院の時ってこんな感じだった?」
「骨折の痛みは分からない、私は薬が原因だったから。でも夜中に目が覚めると辛いのは一緒だよ」
さくらは淡々と続けた。
「一人なのが一番辛かった。朝が来たから痛みが無くなる訳でもないのに、夜明けが待ち遠しかった」
「ありがとう、もう大丈夫」
額に置かれたさくらの手は心地良く、本当はもっといて欲しかったが、そうは言わなかった。
「無理しなくていいよ。寝落ちするまでいてあげるよ」
「今夜は寝られないかもしれないよ」
無理に理由をこじつけた。
「いいよ。ここは夜中に泣き出す子がいるから慣れてるの。痛かったり、家が恋しかったり、理由は色々だけど」
「子供扱い?」
「我慢しないでっていうだけ。一人で我慢しているといつか辛くて心が折れるんだよ」
骨折で心が折れるような人間だと思われるのは心外だった。痛みに対する耐性は人よりも遥かにあるつもりだ。口を開こうとした所をさくらが遮った。
「だから気にしないで。小さい子達と比べると私くらいの年齢の患者って人数が少ないからお姉さん役には慣れてるんだ」
立ち去る気配はない。本心では少し嬉しかった。
「俺はその子供達には怖がられたっぽいけどね」
「悪く取らないで。
「他に何があんの?」
「
突然知らない名前が出てきた。
「誰?」
「一昨日までこのベッドにいた子」
言われてみれば当たり前の事だ。今寝ているこのベッドには前の住人がいて当然だ。
「その子は?」
「他の病室」
その回答に
「って事になっている」
「なっている?」
「普通はもう少し前に個室に移るんだけど、たまにあるんだよ。夜中に大騒ぎになるの。大勢が出入りして、機械が鳴りたててうるさくてしょうがないの。そんな時は邪魔にならないように私達は一生懸命寝てるフリするの。朝になって目が覚めたら全部夢だった事を期待して」
言葉が出なかった。
「でもそれは起こらない。朝になるとスタッフの人がやって来て言うんだ。あの子は昨夜部屋を移った、挨拶できなくてごめんねって言ってたって」
さくらは静かに続けた。
「もちろん全部嘘。そうやっていなくなった子が戻って来た事なんて一度も無い」
またしばらく沈黙した後、さくらは続けた。
「私達はある日突然消えるの」
樹は自分が死人の靴を履いている事を強く意識した。
「ある程度大きい子は分かっているけれど、それでも認めたくないの。次が自分の番かもしれないって思いたくない。だから、また戻ってくるって思いたいの。でも、
「そういう事だったんだ」
「私は偶然翌日に
「泣いてた?」
「ううん、その時はもう涙は出ない。もっと前に出尽くしているから」
「それでも分かるんだ?」
「ひと目で分かるよ、心が死んだ無表情な顔は。大切な人が死ぬとその人の一部も一緒に死ぬの」
「想像つかないな」
「
「物語?」
「人間は本人しか知らない、自分だけの物語を生きてるんだって」
「へえ?」
文学少年ではない樹は突然の話について行けなかった。
「人間は自分の主観を通してしか世界を認識できない。だから、みんな一人一人が自分だけの物語を生きてるんだって」
「孤独だね」
「孤独じゃないよ。物語は他の物語と交わったり、途中から一緒になったりするんだよ。そうやって他の人が自分の物語に登場したり、逆に自分が他の人の物語に登場したりするの」
「ああ、そういう事」
分かったフリをした。
「でも一つの物語が終わったとしても、他の物語は終わらない。
「じゃあ一部が一緒に死ぬってのは? 登場人物が消えるだけなのに」
「物語同士がくっついて一つになっていたって言えばいいのかな? 一つの物語から一部を無理に引き剥がしたせいで、終わっていない物語なのに先へ進めなくなっちゃう。物語の一部はそこで終わり。一緒に死ぬの」
「終わらなかった部分は?」
「分からない。立ち直ったと信じたいけど、そうは思えない」
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