3月のフェルマー
たづれい
第1話 2004年3月31日(水)
まだ夜は開けていない。コンビニの目の前にある
深夜に始まった出産は無事終わった。落ち着いたところで空腹を覚えて食料の買い出しに来たところだった。父親になってからまだ数時間しか経っていない。予定日は一週間先だったので名前をまだ決めていなかった。コンビニの店内では季節を反映して桜をタイトルにした歌が流れていた。これは確か去年のヒット曲だ。最近は毎年桜という名前の曲がリリースされている。去年、今年と続いたので、来年も恐らくそうなるのだろうとぼんやり思いつつ会計をすませて店を出た。
通りの向いにある公園の桜が気になって通りを渡った。園内に入ると桜吹雪が雪のように周囲に降って来る。黒い空一面を覆い尽くす桜の宴に魂が吸い取られ、呆然と宙を見上げ続けた。夜明けの黄色い光に目を刺されて我に返る。徹夜明けの目にはきつい刺激だった。目を細めながら散り行く桜を再び眺めた。あの子はこの桜の宴に間に合うように一週間早くこの世界に来たのだろう。
妻は病室の中でぐったりとベッドに横たわっていた。母親になってからまだ数時間だった。心配していた初産がようやく終わってほっとしていた。胸の上には先程生まれたばかりの娘が乗せられている。カンガルーケアと呼ばれている。新生児はまだ小さく震えている。母の口元が緩んだ。夜明けの光に気付き窓の外を見ると、四角い窓枠の中の世界一面に桜が舞っていた。
「ただいま」
コンビニの袋を持って夫が部屋に入って来た。手にしているビニール袋に桜の花弁が着いている。来ていたジャケットを脱ぐと、その背中にも花弁が着いていた。全身に纏わりつく桜の花弁は子供が纏わりついているようだった。父親はいそいそとベッド脇の椅子に座ると、まだ目も開かない新生児の頬を人差し指の背で優しく撫でた。
「名前どうする?」
出産で大わらわだった時はそれどころではなかったが、無事生まれてきた今となっては重大な関心事だった。妻の答えを聞いて夫は偶然に驚いた。
「驚いた。全く同じ事を考えてた」
「じゃあ決まりね」
「決まりだね」
二人同時に窓の外を見た。外では桜の祝宴が続いていた。
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