第3話 2020年2月16日(日)
樹はいつのまにか寝ていたらしい。看護師が色々な物を自分の体から外す感触で目が覚めた。点滴、尿管、謎の機械、どれもできれば二度と装着したくない。窓の外に目をやると雨が降っていた。窓際のベッドのさくらと目が合うと、何事もなかったかのようにおはようと言われた。昨夜のさくらとの会話が本当に起こった事だったのか自信が持てなかった。朦朧とした頭が作り出した幻想だったのだろうか。
慌ただしい病院の朝は思索には向かない。車椅子に積み込まれリハビリ室へ連れて行かれた。リハビリでは担当医からまず目標を設定するよう言われる。どの状態まで戻したいかだ。樹は元通りの状態を希望した。その分リハビリはキツくなると言われたが構わなかった。『骨は折れても心は折れない』と自分に言い聞かせた。治せるという希望があれば、モチベーションも高まるし、痛みに耐えて前向きな努力もできる。大怪我から回復して試合で勝利する自分の姿を夢想した。
病室へ戻ると雨は上がっていた。今日は日曜日なので見舞客が普段よりも多かった。樹の両親も妹の
303号室と同じフロアに面談室があった。面談室とは言っても実際には休憩室のようなもので、机と自動販売機が並んでいるだけだった。日曜日なのでここも混雑していた。座る場所はなかった。
「あそこでいいんじゃない」
「私はお兄ちゃん。いたでしょ、足折った患者」
「いつから?」
「昨日」
「本当に最近なんだ」
距離が近すぎて
「骨折だからね。
「昔から。姉ちゃんは出たり入ったり」
「それは辛いね」
「それが普通だったから今更だけど、病院は退屈なんだよな」
「ふうん。私は初めてだから物珍しい所もあるけれど、やっぱり飽きるんだ」
「来て嬉しい事はないな」
「そりゃ、そうだよね」
「まあ、時々いい事もあるけどね」
「何があったの?」
「
「あっそ。チャラいのは見かけだけじゃなかったんだね」
柊司の整った顔を見ながら呆れた顔で答えた。この顔でそのセリフは逆効果だと気付かないのだろうか。
「運命ってやつ?」
「それ、あっちこっちで言ってるでしょ?」
「まさか」
「どの口が言う?」
「まあ、俺は言うだけキャラで何もしないから安心していいよ」
「それ、信じると思ってたら相当の馬鹿だよ」
樹の家族は一時間後に帰って行ったが、303号室の見舞客の大半は七時の面会終了時間まで残った。六時から配膳が始まり、患者と一緒に食事をしてから帰って行った。樹は一週間後には家で家族と食事できるが他の患者はそうは行かないのだ。昼間はずっと賑やかな病室だったが、見舞客が帰った後は妙に静かになる。沈んだ空気が耐えがたかったのか、向かいのベッドの小学生が話しかけて来た。沙耶案件の禊は終わったようだ。
「樹、いつ退院すんの?」
「まだ決まってないけど、一週間って言ってたから週の終わりくらいじゃないかな?」
「出たらどこ行くの?」
その隣のベッドから同じくらいの年齢の子が質問をして来る。ここの住人は病院を出て真っ直ぐ家に帰るという発想はしないらしい。
「家」
「病院から家の間は?」
「ないよ。リハビリに通うだけで、入院はここで終わり」
「帰って何する?」
「松葉杖でもいいから少し出歩きたいな」
「どこ行く?」
「まだ決めてない。本当は友達と春休みに色々したかったんだけど、この足じゃ厳しいかな」
「色々って?」
「一つはチャリで行ける所まで行く計画。夜明けに出発して、行ける所まで行って帰ってくる」
「俺も行く」
今度のは隣のベッドの子が会話に参加してきた。こちらはもっと小さい。まだ低学年のようだ。
「かなり自転車こぐから練習しとけよ」
樹は否定的な事は言わずに、当然に一緒に行くかのように応じた。
「ごはんは? 弁当持ってく?」
「持って行っても良いけど、荷物が増えるぞ。コンビニで良くね?」
「道分かる?」
「だいたいの方角があってれば大丈夫だろ。スマホのGPSがあるし」
計画性皆無の行き当たりばったりアドベンチャーだった。
「他の計画は?」
窓際から質問する声が来た。さくらの向かいのベッドの
「クラスの友達と舞浜」
「陸? 海?」
「シー」
「彼女と?」
さくらまでからかい始めた。
「いや。クラスのメンバーで」
「全員男子?」
「いや、両方」
「青春してるじゃない」
「どんな計画?」
「朝入り口から入って、夜出口から帰る」
これも計画性が全く無い。
「で、その間は?」
「シーで遊ぶ」
「何それ? 春休みなんてゲロ混みだよ。ちゃんと順番考えてパス手に入れないと悲惨だよ」
「熱いな……」
「ちゃんと計画建てないと間が持たなくて気まずい事になるんだよ。ほれ」
葉月が雑誌に挟まっていた紙片を折りたたんで投げると、樹は上手にキャッチした。
「何これ?」
「デートプラン。私には必要なくなったからあげる」
そう言う葉月の声に少し自嘲的な響きを樹は感じた。
「俺にも必要ないんだけど」
「いつか行く日のためにとっときな」
事情は分からないが、何かを託そうとしているのが分かったので投げ返しはしなかった。
「この計画、一体いつ日の目を見るんだ?」
樹は受け取った紙を広げてヒラヒラさせながらこぼした。
「折角だし、彼女が出来た時のために取っておきなよ」
さくらの声には意地の悪い響きがあった。
「世の中の中高生の多くは地味な生活送ってるんだぞ」
「まぁまぁ、高校生になれば樹にもきっと良いことあるよ」
「俺の高校、男子校なんだけど」
「青春終わったね。可愛そう」
嬉しそうに言う。
「やっぱり都内の共学校にしておけば良かったかな」
「え、東京の学校じゃないの?」
「
「毎日旅人じゃない。それ何の修行? 自分をイジめるのが趣味なの?」
「いやいや。附属校だから頑張って通えば受験せずに大学に上がれる」
「それって一般的なの?」
「大学は行きたいけど、もう受験したくない場合には。青春を受験勉強だけで使い果たしたくないしね」
「青春する気満々じゃないの、男子校」
「っせ」
「女の子と話したくなったらお姉さんが相手してあげるからね」
「院内ハラスメント」
「嬉しいくせに。無理しなくていいんだよ」
「#MeToo呟くよ」
「荒らすよ」
ここで会話が打ち切られた。
「はい、じゃあ寝るよ!」
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