第6話 2020年2月19日(水)

「あのさぁ、樹って馬鹿でしょ?」

 葉月に突然言われて樹は回答に困った。さくらは午前中は検査でいなかった。

「何で? 賢いとは言わないけど、低知能でもないぞ」

 カチンと来たが、昨夜の喧嘩の事を思うと強く反論はできなかった。二人の怒鳴り合う声が部屋中に響いたのだ。

「昨日はちょっと馬鹿っぽい喧嘩したけど、お互い様というか」

「やっぱり馬鹿だ」

「あぁ?」

 樹は苛立ちを顕にしたが、葉月は意に介さず続けた。

「何でさくらちゃん怒ったか分かる?」

「出た、面倒くさいやつ」

「真面目に聞きなよ。自分が原因なんだから」

「はいはい。何で私が怒ってるか分かるってやつね」

「言ってたじゃん。そんなに退院するのが嬉しいのって」

「当たり前だろ。で?」

 即答した樹に葉月は呆れた口調で続けた。

「じゃあ言い方変えるよ。さくらちゃんと離れるの嬉しい?」

 この質問には少し考え込んだ。

「……いや」

「だったらそう言ってあげなよ。折角友達になっても樹は一週間で出ていっちゃう。元々外の人だから戻れば沢山友達がいる。退院したら楽しくなって自分の事なんか忘れてしまうって不安なんだよ」

「ん……」

「さくらちゃんは中学通ってないし、病院暮らしが長いから同世代の友達が少ないんだよ。樹が来た時すごく喜んでいたでしょ?」

 ぐうの音も出なかった。


 樹は午後のリハビリに向かいながら考えた。明日の午前中に診療がある。恐らくそのタイミングで退院の話が出るだろう。即日退院かもしれない。今日しかないと腹を決めた。リハビリでは監視されていないのを良い事に止められるまでトレーニングのようなハイペースを続けた。リハビリ後は院内の普通階段を使って昇降を繰り返した。オーバーワークに疲れ切ってベッドへ戻ったのは六時過ぎだった。

「楽しかった?」

 相変わらず冷たい声だった。しかし既に仕込みを終えた樹は上機嫌な笑顔で応えた。

「今日はまぁまぁかな」

「そう、良かったね。そろそろ退院じゃない?」

「今週中は無いと思うよ」

 さくらは怪訝な顔をしたが、それ以上は聞かなかった。向かいのベッドの葉月と樹の目が合った。葉月は馬鹿を睨みつけていた。結局さくらとはよそよそしい空気のまま九時を迎えた。その頃には樹は実感していた。上手く行くかもしれない。体を這い上がってくる痛みに少し吐気を感じていた。

「はい、じゃあ寝るよ!」

 カーテンが引かれる頃にはかなり耐え難い事になっていた。何とか消灯までは耐えたが、十時になる頃には痛みが酷くて声が出てしまっていた。今回も音はしなかった。入院して最初の夜と同じだった。突然額にヒヤリとした物を感じた。

「また痛いの? 折角良くなって来たのに」

 さくらの声は入院初日の夜の時と変わらない。喧嘩とこれは別の問題のようだ。

「今日は普段の五倍以上やったから」

「そんなに?」

「目を盗んで」

「そんなに早く出たいの? やり過ぎで悪化したら退院が遅れるよ」

「遅らせたかったんだよ」

 目をそらした。何故かさくらの目を直視して言えなかった。

「どうして? 退院嬉しいんでしょ?」

「治るのはね。でも、」

 続く言葉がスムーズに出て来ない。喉が張り付いて声がかすれる。

「もう少し一緒にいたかったから」

 さくらは樹の足の一点から目を離さなかった。折れた足は二倍に腫れ上がっていた。

「……それでこんな無茶したの?」

 そう言う声も少しかすれていたような気がしたが、足の方を向いているさくらの顔は見えなかった。

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