名 ~4~

「――もはや倒れ伏すことは許されん」


 立ち上がったコマは。

 木洩日の視線を背に受けながら、【半月獣】の前へ凛と立ち塞がった。

 轟々と燃ゆる炎をその瞳に宿して。


「……コ、コマ……コマお願い、無茶しないで……」


 木洩日の震える声に。

 コマは視線だけで振り返り、穏やかな微笑みの表情を返した。


 再び、ゆるりと正面を見据える。

 コマが放つ神気は今や、周囲の景色を歪めて見せるほどだった。

 しかしその強大に億尾も怯みを見せずに、【半月獣】は轟きを上げ。

 地を蹴り、拳を振り下ろした。

 その猛威は風を生み、周囲を唸らせた。


「コ――」


 木洩日の叫びにならない絶叫は途切れた。

 辺りに、大地を粉砕するが如きの轟音が轟く。



 ――切り裂く風が唸り声となり襲い来る【半月獣】の豪撃ごうげきを、名を呼ばれた神、葉弥栄ノ狛犬は、柳のようなしなやかを持ってそれを受け止めた。

 片手を添えるようにしてその拳に触れ、刹那、ゆらりと彼自身が揺れるようにして衝撃をいなす。

 そして岩よりも固く、鉄よりも重い拳が手のひらにめり込もうとした瞬間、しなやかから一転、全身に万力が込められた。

 見える部位全てに浮き出た青筋。振り下ろされた拳が轟音を轟かせ、おびただしい土煙を巻き上げる。

 ――視界一杯に広がったそれが晴れたとき、見えたものは。

 押し潰さんと震える巨大な拳を握り取り、射るような眼光をもって【半月獣】を睨み据えるコマの姿だった。


 葉弥栄ノ狛犬は、片腕だけで神獣の一撃を受けた。



「二度も、二度も私は彼女に救われた……。たとえそれが腐り果てようが、私の内に眠る神格は必ず彼女の祈りに応えるだろう――」


 どこまでも澄んだ瞳の青色が輝く。

 腕を払う。【半月獣】の拳が跳ね上がる。

【半月獣】はその聖性を全身に漲らせ、再び拳を振り上げようとしていた。

 コマは右手を額に寄せ、その手首を左手の万力で掴むと、静かに、しかしどこまでも力強くに、祈り願った。


「嗚呼神よ、私は祈り申し上げる。どうかこの無垢なる少女の為、崇め奉られるその神格を今此処に――!」



「【若焔大帝】ッッ!!」



 純白の髪が逆巻き――祈り願う彼の全身から、青の炎が迸った。

 渦巻く炎は、一つの形を持ってそこに顕現した。


 それは、扇を持った女性だった。


 長髪を靡かせる彼女の背には、幾本もの尻尾が。

 それはコマと【半月獣】の間に立ち、揺らめいている。


 ――【半月獣】が拳を振り下ろした。

 その象りはゆるりと、水平にして持ち上げた扇を【半月獣】へ向け、色気良く艶やかに首を伸ばすと、ふうっと一つ息を吐き出した。

 そして生み出された炎は波としか表現しようのない猛威だった。怒涛の勢いで奔る恐ろしい量の炎熱が、【半月獣】の拳を大きく反らす。

 渾身を外され、体勢を崩した【半月獣】。

 象りは急くことなく、まるで何者もなく一人踊るかのように、およそ戦いの最中とは思えぬ妖艶な舞いを見せた。見る者を魅了するその流麗な動きは次第に鋭きものとなり――。


 扇から、引き絞られた炎が一閃した。

 鞭のようでもあり刀剣のようでもあるそれが宙に軌跡を描き――。

 ――そして、後には静寂だけが残った。

 何者も、声も上げず静止している。

 やがて、動くものがあった。


【半月獣】の首だった。


 胴体からずり落ち、ドサリと地に落ち、辺りに輝く白の血だまりをつくった。

 大きく地を揺らし、残りの巨体も遅れて倒れた。それらはピクリとも動かず景色の一部となり――やがてさらさらと全身が崩れ始め、そこには白銀の灰の溜まりだけが残った。


 炎の象りが、木洩日のほうを向いた。

 木洩日は炎の象りが一瞬、微笑んだように見えた。



『どうじゃ? 私もやるものだろう?』



 そんな焔ノ狐神の声が、木洩日の耳元で囁かれたような気がした。

 そして象りは風に弄られるように揺らめき――一瞬で消えた。


「…………コマ。コマ」

「木洩日……」


 振り返ったコマは、言い難い微笑みの表情を浮かべていた。

 ニコリと笑うでもない、穏やかに笑むのでもない。

 たった一つの思いだけが浮かんだ表情。



「ありがとう」



 それは、純粋な感謝だけが表れた微笑みだった。


「…………ぅ、うぅう、うううう…………っ――――!」


 コマは泣き出してしまった木洩日に近寄ると、数瞬悩んだ末、ただ優しく木洩日の頭をぽんぽんと撫でた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る