無垢の祈り子

 幾数年も放置された社の場所が、その程度の荒れ具合で済んでいた奇妙には、幼子は気付かなかったようだ。

 腐っても不滅と思われた縁の神の領域である。しかしそんな事情は知らぬまま、幼子はそれからも熱心に境内とその周辺をせっせと綺麗にし続けた。


 少女は転がされた狛犬の石像がいたく気に入ったらしく、それに年相応らしい無垢で度々語りかけていた。

 新しい土地での生活の不安、学校のこと、両親のこと、数年前に亡くなった祖母のこと……。

 もちろん返事を期待するような語り掛けではない。ただ、ここが自分の場所のように思えている故に気が楽になるのだろう、それは独り言と割り切っている呟きであった。

 だか彼女は今や、この神社唯一の参拝者である。どころか、今やここを知っている唯一の者ですらある。故に、彼女がこの葉弥栄の領域である一つの世界の在り方を僅かながらに変えることもあった。

 独り言のせめてもの相手として熱心に磨いていた狛犬の像。賽銭を投げ祈ることはあったが、しかし情も湧いたのか、幼子は社殿よりむしろその狛犬の像に祈ることのほうが多くなった。


 在り方としてどうなのかという問題はあったが、しかしもちろん葉弥栄はそれに不満など現さない。幼子のすることである、優しく苦笑いを浮かべるのみであり、むしろ祈りを捧げてくれるその参拝を嬉しく思った。

 そうするうち、葉弥栄ノ×××××神の居場所は本殿から狛犬の像の上に移された。狛犬の像が事実上の本殿となってしまった形である。

 だがしかし、それすらも葉弥栄にとっては嬉しむ事情であった。

 幼子の話をしっかりと聞くことができるから。


(……少しばかり神格の螺子が緩んでいるのかな?)


 本来はあまりよろしくない情の入れ方である。

 人の子がどれだけ愛しくとも、それを堪え、神としての神格を恥ずるところなく示すことこそ神の理性。つまり神格である。それを欠けばどうなるか?

 人で言えば、著しく理性を欠いた者を見ればどう思うか? そういった話である。


(だがなぁ……)


 この子は特別である。

 ……その事情にはさすがに、他の神々も多かれ少なかれ理解を示すのではないだろうか?


 幼子の名は、早坂はやさか 木洩日こもれびといった。己の姓と同じ音を持った葉弥栄の神社の名をどこぞの文献で見つけ、この地へ訪れたらしい。

 木洩日は本当に熱心にその社を綺麗にした。真心と祈り――その無垢なる信仰により、葉弥栄の姿はもはや醜いそれではなくなっていた。

 くすんだ灰色の髪は一点のけがれもない白へと変わり、身が縮んだとはいえ、その体には両手足があった。身が縮んだ――かつての美しい青年の象りは今や少年の象りとなり、短くなった髪は月より淡く輝いてもいない。唯一その瞳だけが、かつてのそのままであった。

 しかし葉弥栄は今のその姿が、過去のどんな姿よりも誇らしかった。

 人を信じた証であるその姿が、そして人のまことと信じたそれの証明であるその姿が。

 少女の真心の証明である、その象りが。


「……それでね、また言われちゃった。日陰女の木洩日なんだから、目立たず端のほうにいろーだなんて。…………。……………………」


 何度か危うい場面もあった。

 少女が涙を落とす度、塗炭の苦しみと表すことすら生ぬるい、あの無間の常闇の中ですら抱かなかった邪気が己の中で生まれ、鎌首を上げようとする予感を感じるときがあった。


(怒りはいい。怒りはいいが、は神格の在り方以前の問題だ……)


 己に呆れながらも――それは止めることのできない衝動であるとも感じていた。

 木洩日が、ぽつぽつと語りかけながら磨いていた狛犬の像の上に、静かに涙を落したあの日のことを思い出す。――あの衝動は、堕落しなかったのが不思議なくらいの激情であった。


(……まったく。しっかりせねばなるまい)


 邪に堕ちれば、恥をかくのは葉弥栄の神を信じ無垢に祈ってくれた木洩日のほうである。

 鎮められるような神に祈りに来たというのならば話は別だが、彼女はきっと、憎しみに満ちた思い、祈りを吐露しないだろう。

 人の心の内、表裏ひょうりと陳腐には言い表せぬ、あまりに複雑な愛憎、それらどちらをも孕んだまことの情念はずっと見てきたものである。

 優しくも、心の奥内から漏れ出た真実の呟きが憎でないとも限らない――むしろそれのなんと多かったことか。

 しかし木洩日の語りかけを聞くに、この子は違うなと、葉弥栄は情ではなく感覚でそう思っていた。

 幾数幾万年、人を見つめ続けた瞳で見抜いた心の内。


(きっとこの子は、自身を犠牲にしてでも、自身のみと敵対する誰をも恨みに思わないだろう。……それは清く正しい在り方という意味でも、一概に良い事とは言えぬのだが……神が人にそれを伝えるすべはない)

(このままでは危うい。信頼する者を得られればよいが……)


 そんな心配をかける他、葉弥栄にできることはなかった。

 ――四肢が復活したとはいえ、今の彼が備えた神格は、以前と比べれば僅かながらなものだった。力を差し伸べられるほどの力量は、今は無い。


 口惜しさに歯噛みする日が続いた。

 木洩日の悲しみに耳を傾ける度に、その情念は強くなる。

 だが今の彼に、彼女にしてやれることはない。拳を握り締める日が続く。


 ――そして。

 彼が十全なる力を取り戻すきっかけとなったは、あまりにも皮肉な事情であり――事故であった。


  

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