心熱の涙

「う、うわぁ……」


 あまりに久しい人の声に、葉弥栄にはそれが何を意味する音なのか分からなかった。


「こ、ここが、葉弥栄神社、なの、かな……?」


 幼子の声。

 それを認識した瞬間、表情一つ動かせなかったはずの彼は思わず、苦笑いを浮かべていた。


(…………神が幻を聞くとは……)

(神格が根から朽ちたか。いよいよ、私も……)

(…………)

(――だが)



 最後まで、私は人を愛せていたのだな。



 そんなことが、葉弥栄にはなぜだか嬉しかった。

 他の神が聞けば理解を失い笑うであろうそれが、なぜだかとても……。


 さすがに、走馬灯のようなものは回らない。そのようなものを見ても不思議ではないと、らしくもなく自身を卑下しながら、葉弥栄ノ×××××神は最後の時を待った。

 そして、ほどなくして異変は訪れた。

 しかしそれは、葉弥栄が覚悟した事情とはまるでるいの異なる現象であった。



 リン。



 自身の中に、清らかな鈴の音の音が響いたのだ。


(…………?)


 それが何を意味するのか。

 遠い昔、幾度もその鈴の音を聞いたような気はしたが……。

 常闇の中に、一筋の光が差した気がしたが、それがはたして幻であったのか、そうでなかったのか……葉弥栄には分からない。

 今更なにかが起こっているとは思えない。だが奇妙なことに、待てども、滅びは訪れなかった。


(……何が)

(いったい何が起こったのだ……?)


 困惑するうちに。

 それは射し込んだ。



 大声で笑い合う人々。

「葉弥栄様は」と謳う若い衆。

 静かに祈る、若き娘。

 膝を付き、己に祈る年長の

 毎年欠かさずにふつふつと私に話しかけてくれる歳のいった男子。

 そういった者たちに触れる度に見ていた、あの光景――。



 木々に生い茂る木の葉を揺らすようなザアッという音と共に、常闇の景色が切り裂かれた。

 そこから射し込んだのは、強く眩い光。まるで木漏れ日の如く射し込んだそれは、あっという間に無間の常闇を跡形もなく屠り、葉弥栄の目を焼いた。


(――――……!?)



「よおし、できたっ!」



 ……目が慣れれば、そこには鮮明に映し出される景色があった。

 彼の瞳に映ったもの。それは、清掃のための用具を握り締め、満足気な表情で荒れた境内に立つ幼子の姿だった。

 顔は土埃に塗れ、服も汚れ塗れで、どうしてそうなのかと考えればその答えは一つしかなく、しかし葉弥栄にはそれが長いこと理解できず――。


(嗚呼――)


 そして、葉弥栄は思い出した。


(そうだ)

(人とは――人の何を私は信じたのか――)


 見開いた双眼には、もはや一点の濁りもなく。


(良くも、しかし悪くも奔放なれど、それはいつの時代も……)

(私はそれが愛しく、だから、それでも此処に――)


 彼を縛り付けていた行き場のない縁の根はほどけ、くすんだ灰色の髪が、彼方から吹く大きな風に靡く。


(私は……私は――)

(それでも、人が持つ真心を、信じたのだ……)


 いつかこの日が来たる。

 そう、神格朽ち始めたあの日の神が思っていたことを、葉弥栄は思い出した。


 清涼な風に水滴がさらわれる。

 ――の神が流したその涙は、世のどんなものよりも熱い一滴であった。

 幼子には知る由もないだろうが――その一滴の涙の熱は、幼子が尽くした真心の温度そのものであったのだ。

 その涙は神々の間を流れ――縁の神の前に現れた幼子に大いなる関心と、そして感心を向けさせた。


(私がいっとうに愛しいと信じたもの……)


 縁の神として地上を見下ろすうちに愛しさと共に思い、己の中で謳ったそれを、葉弥栄は今、思い出していた。




 嗚呼。

 人の子のなんと不可思議なれど、いつの世も変わらぬその人の子よ。 




(そうだ……)

(それが、人の子なのだ……)


 一生懸命に、境内に転がされた狛犬の石像を磨く少女を見つめながら、葉弥栄はようやく、あの頃と同じ、穏やかな微笑みを見せた。

 ――そして。

 葉弥栄ノ×××××神の神格は、再び眩く輝き始めた。


  

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