時間の感覚が正常に流れ始めたことに木洩日は気付いた。

 今は真夜中のただ中、夜明けはまだ先である。そのことを、恐れなくはっきりと認識できた。

 森の静けさは変わらず恐ろしい。正気を取り戻すと、まるで水底に沈静していた泥が巻き上がるように、再び様々の恐怖が湧き上がってきた。しかし木洩日は、先に待つ運命を受け入れる覚悟を備え始めていた。……僅かずつ、今はまだほんの少しだけではあったが。

 焔ノ狐神の加護、その焔の熱が今や、自身の心の熱と重なるようであった。


 木洩日はふと、失っていた感覚の一つが蘇っていることに気付いた。

 焼け付くよう、という心の情動である。本当の意味での『覚悟』を表す心の動き――。

 そして同時に、肌に生者の熱が宿っていることに気付いた。コマやあの村の者たちは持たぬ温もり。


 

 木洩日は初めて、それらが自身に宿っていることに気付いた。

 思い出したそのことを確かめるように胸を押えると、木洩日はコマに話を向けた。


「コマ。今ね、一つ思い出したことがあるの。カナイでの記憶、って言っていいのかな、これ……?」

「……? 何を思い出したんだい?」

「辛いときに勇気が湧くような誰かの祈りは、初めてだってことに気付いた」


 木洩日は表情を荒ぶらせることなく、淡々とした口調で話した。


「学校でイジメられてたとき、私にはどんな声も辛く聞こえた。『学校はどう?』って心配してくれたお母さんの声も、なぜだか私の心に刺さるばかりで。お父さんの優しさも、先生の気遣いも、近所のおばさんの声さえも、全てが痛かった。そこに悪意はなかったってはっきりと断言できる、でもなぜかその優しさが痛かった……」


 木洩日は少しだけ眉を下げた。――コマがぎゅっと拳を握り締めたことには気付かない。


「でも、『ふぁーめい』の祈りは苦しくなんてない。私の背を、その手の優しさそのままに押してくれる。どうしてだろうって思ったけど、簡単だった。私に近く寄り添ってくれた人だったからだ。……お父さんとお母さんは、私自身が拒絶しちゃった。『大丈夫だよ』って、嘘を答えて。だから優しさが痛かった。私馬鹿だな……」

「馬鹿なものか、木洩日はたった一人で戦っていた! たった一人で……」

「――そして」


 木洩日は足を止めた。

 コマも立ち止まり、二人はじっと見つめ合った。


「そして今、私はコマからもその祈りを受け取っている。それはカナイでは覚えのなかった、揺らめき燃ゆるようなあなたの温度。――だけど、この感覚には、私は確かに覚えがある」


 コマの瞳が見開かれた。

 木洩日は告げた。

 それは話している最中に、枝葉が広がるように蘇った記憶。……幸いの思い出。


「コマ。私、あなたがカナイでどういう姿であったのかを思い出した」


 こくりと、コマの喉が上下した。

 木洩日は瞳に涙を浮かべながら繰り返した。その救いであった思い出を手にした事実を。


「思い出したの……」


 ゆっくりとコマへ近づき、その両手をとった。

 木洩日とは違う、けれども確かな温もりを宿した手を。


「名前はまだ思い出せない。でも、どんなあなたに語りかけていたのかは……」

「…………」


 コマは。

 下を向き、表情に影を作り黙り込んでいた。


「……コマ?」

「木洩日。私は木洩日に伝えなければいけないことがある。謝り済むようなことではない、酷いことを」


 木洩日と視線を合わせぬまま、コマは言った。


「…………? どんなこと……?」

「木洩日は私に祈ってくれたというのに、私は木洩日を呪うことしかできなかったということだ」

「呪う――」

「そう。――木洩日、君が死に瀕する重傷を負ったのは、私が理由なんだよ」


 今度は、木洩日が瞳見開いた。

 コマは歯を食い縛り、怒りを滲ませた声色を吐き出した。


「木洩日は私に祈ってくれた。毎日、毎日、私に語りかけてくれた……。だが私は木洩日に何もしてやることはできなかった。そして――」



「木洩日。君はある日のこと、いつものように私に会いに来てくれる途中の車道で、車に撥ねられ重体を負ったんだ」



「――――なっ! そ、そんなの、コマは悪くない――!」

「私はッ!」


 怒声のような大声で、コマは木洩日の言葉を遮った。


「私は四肢のない石の体で、ただ木洩日の話を聞くことしかできなかった。なんの救いも与えられず、ただッ! ……木洩日のおかげで私は存在を存続させることができたのに、私が君に与えたのは呪いだった。社を構える神は、祈る者がいなければ消え失せる運命。――君は唯一の私へ祈る者だった」



『知っとるか? 神は己を頼り祈った者を決して忘れん。それが唯一であるたった一人であれば尚更……』

『あの若者は方々の神に頭を下げ、力を借りんと働いた。訳を聞けば、己に強く強くお百度も祈った一人の少女を助けるためじゃと――』



 木洩日は、焔ノ狐神が語ったことを思い出した。

 コマは震えながら続けた。


「元々あれは、ただの石像だった。だが唯一の参拝者である木洩日が私の社に祈り、そして熱心にあれに話しかけるうちに、私の神格の在処はあの石像に宿るようになった。それほどまでに君は私によく話しかけてくれたんだ。そして、その社に誠意を持ち祈ってくれた。だがその結果は――」

「コマ」


 木洩日はそれを遮り。

 繋いだ手を額の近くに持ち上げ、目を瞑った。


「なんで今この時、コマのことを思い出したと思う?」


 それは。

 体育倉庫に閉じ込められたこと、それがカナイでの最も恐怖した記憶なら。

 神社でコマに話しかけていたことは、あの辛い境遇の中、心に僅かばかりの安息を与える、最も幸いな思い出だったから。


「石像に語りかけることが唯一の救いだったなんて、変な子だよね。ちょっとおかしい子。――でも、私にとってそれは真実だった」

「…………」

「コマ、あなたは私にたくさんの救いをくれた。本当よ?」



「――あなたは、あの神社の隅に台座もなく立っていた、一対だけしかない狛犬の石像だったんだね」



 木洩日は困ったような笑みを浮かべて、明るい声で言った。


「正直、コマって名前を知らなければ、石像の姿までは思い出せなかったと思う。これって反則かな? でも、思い出せて本当によかった。……胸が温かい」


 子供の世界は想像が及ばぬほどに過酷だ。

 大人になれば、人はそれを忘れる。新たな過酷に身を投じる内に、過去の過酷は掠れて消えるからだ。よほど心に大きな傷を負っていない限り――。

 子供の孤独は、大人には分からない。

 その孤独を僅かながらに救った狛犬。……きっと大人には分からない、木洩日だけが知る真実。


「あなたがくれたものは呪いなんかじゃなかった。……幸いだった。他の誰が笑っても揺るがない、私の真実よ?」

「――――……」


 ――神も涙を流す。

 木洩日はそれを知った。

 木洩日は震えるコマの体を抱きしめ、ただ一言「ありがとう」と呟いた。


 

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