『いつでも祈ってる。』

 もはや、恐怖故の緊迫に心が抗うのをやめた。

 木洩日は何も感じることなく、ただただ歩を前へ進めていた。


 唐突に姿を見せた【銀灰の砂漠】。それと共に現れたという絶対の脅威は、今は闇に紛れ森の中を彷徨っている。いつ邂逅してもおかしくない。

 常時途切れぬ極限の緊迫、想定すら及ばぬ未知に対する恐怖に晒され続け、木洩日の心はもう限界まで擦り減っていた。焔ノ狐神の加護のおかげで、辛うじて狂っていないだけの状態……。

 今や恐怖を含む全ての感情は意識の底に沈み、表層に浮かび上がることはなかった。


(私は木洩日……早坂 木洩日……)


 木洩日は心の中で自身の名を思い浮かべ続けた。誰に言われたわけでもなく、いつからか自然とそうしていた。


(私は早坂 木洩日……私は……)


 瞳には、幕が下りたような闇が。

 蒼白を超えた青白い頬。

 汗は一滴も垂れていないが、常に半開きである口からは荒い呼吸が奇妙な音を立てて吐き出されている。

 限界の、本当に一歩手前。

 コマは木洩日の様子を一秒も経たぬ間で何度も何度も苦し気な表情で窺い……。

 そしてついに。


「――木洩日。木洩日は【広大な森の平原】を自身の足で突破すべく、ここまで本当によく頑張った。原初の森という慣れぬ地にも、初めて迎えた真の夜にも負けずに。不測の事態が訪れなければ、君はきっと最後までそうしてここを踏破していただろう。――しかし、この度の異変は最初の一歩としてはあまりに過酷が過ぎる。ここまでだ、ここから先は私が背負って進もう」


 コマは、木洩日の立ち向かう果敢にストップをかけた。

 木洩日はぼうっと、その声が意識に届いているかも定かでない様子でそれを聞いている。


「――もう一度言うが木洩日、木洩日は本当に頑張った。次はこの一歩を超える、その思いを胸に、先へ挑んでおくれ。そうすれば、人は地に大きく根を張る若木のように成長できる。そうする内、君の中に確固たる強さが宿るだろう。今は、森と夜、その苦難に立ち向かったことをただ誇り……そして、少しだけ悔しみなさい」


 言い終えると、コマはしゃがみ、木洩日に背を見せた。

 木洩日は。

 不格好な笑みを浮かべていた。心から安堵し、朦朧としたまま口元を緩ませている。

 木洩日の心には、ただ安心だけがあった。心の奥に、気分を悪くさせる熱された棘のような思いがあり、それに身を引かれるような感覚はあったが……それの存在を否定していた。

 ふらりと、コマの背へと向かう。そこへ倒れ込むイメージが何度も頭の中で繰り返される。

 あと僅かで触れるコマの背、その安心感はどこかで覚えがあった。


 それは。

 あの村、あの家で。

『ふぁーめい』と寄り添って眠ったとき。

 微睡みに揺蕩う私の手を、ただ優しく握ってもらったときの心持ち――。



『木洩日』



 頭の中に響いた声があった。

 それは彼女の、毅然とした優しい声色。

 木洩日が今一番欲しかった言葉とは違う、彼女が送ってくれた言葉。彼女の、精一杯。



『――――いつでも祈ってる」



「――木洩日?」


 コマは目を見開き木洩日を見つめた。

 木洩日は。

 拳を震えるほど強く握り締め、涙をぼろぼろと流しながらそこに立ち尽くしていた。


(――――ナサケナイ)


 口元をぎゅっと引き結び、木洩日はただ佇みながら涙を流し続けた。

 コマの背に身を預ける直前になり、心のどこかから響く自身への叱咤の声が届いたわけではなかった。それは最後まで木洩日の表層に届くことはなかった。

 木洩日は、木洩日の内に在る『ふぁーめい』の魂に触れて涙したのだ。


(『ふぁーめい』は私を送り出してくれた。私のために祈ってくれると言った。なのに、強き心持つ人の祈りを受けた私は、こんなところで心を折ろうとしている。最愛を注ぐ女性の祈りを私は無下にしようとした……!)


 それが、木洩日の涙した理由であった。



 出会い、真心のままに受け入れ。

 幸福を気前よく分け与え、共に過ごしてくれた。

 寄り添い、悲しみを受け止め。共に悲しみ、慰め。

 愛もって抱きしめて、微笑みかけてくれた。

 家族のように接してくれた、他人。

 幸いをくれた人。幸いそのものであった人。



 そんな彼女の祈りを無為にしようとしたことが情けなくて堪らなかったのだ。

 辛く心挫けそうなときも、いつだって突き進めるよう。実際『ふぁーめい』がそのようなことを祈っているかは分からない。だが木洩日は、心折れかけ安楽の誘惑に負けたことが彼女の祈りを思うと心底に情けなくなり、申し訳ない気持ちになった。

『ふぁーめい』はきっと、木洩日の先に待つどんな困難を知っても、祈ることを諦めないのだから。


 愛する者の祈りが、過酷に挑む者の背を押す。時に脅迫的に。

 だがその衝動に押される情感はしかし、いつだって温かである。


「コマ、ごめん」


 木洩日は涙を拭って、震えながらも、芯強き凛とした声ではっきりと言った。


「私、自分で歩く」


 夢から覚めたように、今や木洩日のどこにも朦朧はなかった。


「――――――――……。……分かった」


 コマは茫然に近い表情で木洩日を見上げ続けた。

 やがて立ち上がると、苦笑のような笑みを浮かべて木洩日の手を取った。


「木洩日、すまない。私は君の持つ強さを大きく見誤っていた。そのことを君に謝りたい」


 真摯な表情でそう告げたコマに、木洩日は少しだけ歪んだ、しかし決して醜くはない晴れ晴れとした微笑みを向けた。


 

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