過ち

(私が……)


 注意深く辺りに気を張り巡らせ歩きながら、木洩日はそれに思い巡らせていた。


(私が、コマに祈った理由。どんな事情があって、私はコマのおわす神社にいつも赴いていたの?)


 カナイでの過酷――孤独、それを僅かばかりに慰める話し相手――コマの正体。その様々を思い出した今、コマの頼み事、その核心は限りなく近くにあるはずである。


(なにかお願い事をしていた? そうだとするのなら、たくさんある神社の中でその神社を選んだ理由は? 家から近いから? ――違う、思い出した神社までの道のりの景色からして、家の近くにあったわけではなかった。……縁を司る神様がおわす神社だから?)

(……そのどれもが違う気がする、見落としがあるような……。ちゃんと、論理立てて考えてみよう……初めの初めから思い出すように……)


 手を繋ぎながらも半歩先を歩くコマを見やる。

 緊迫は瞳の内だけに宿り、その表情には毅然とした強い意思だけが表れている。恐怖の色がどこにもないその表情、そして迷いのない足取りはとても頼もしい。

 繋いだ手から伝わる体温は温かだ。……木洩日を思いやっていることが伝わってくる。


(コマは、私が唯一の参拝者だと言っていた。その神社が縁を司っていることを知っている誰かがいたとは考えにくい。それに参拝者が誰もいない神社だというのなら、きっとその神社はとても行きづらい場所にあったはず。見つけることすら大変だったはずなのに、そもそも私が最初にその神社に赴いた訳は? 偶然たまたまそこを見つけた? どうして……)


 そこまで思い至ったそのとき。

 木洩日は、もう一度思い出した。

 それは『ふぁーた』に語って聞かせたカナイの情景。



 川が流れていた。橋があり、その先には車道がある……。

 脳裏に、その情景がはっきりと浮かび上がる。『ふぁーた』に語って聞かせたときよりもはっきりと、色も匂いすらも伴って。

 まるでその地を歩いているかのような視点で、そこから先の風景も瞳の裏側に映し出される。


 車道の先には小さな山がある。雑草が隙間からびっしりと生えた石段が、分かりにくくあった。

 その先は酷いものだった。誰も手を入れていない乱雑に生えた緑草が、行く手を塞ぐように生い茂っている。誰もその神社に赴かないわけだ……。


 ほとんど機能していない石段を上った先には、草があちこちで気ままに背を伸ばす境内。決して小さくはない、朽ち果てたような社がある。向拝所へ赴くための木の階段もぼろぼろで、賽銭箱は黴が生えたように苔生している。くたびれた紐が垂れ下がった鈴は黒ずんでみずぼらしい……。


 ――いつしか脳裏に浮かんだその光景は意識と溶け合い、そのときの記憶の中にいるような想像へと在り方を変えていた。


 荒れ放題な社の地を目にした木洩日はぽかんとその景色を眺め。

 向拝所へ赴き、おずおずと賽銭箱に硬貨を投げ込み、お祈りした。

 なにかを願ったのち、境内をぐるりと散策した。そしてその隅にあった、台座もなく立つ狛犬の石像――。

 木洩日はその狛犬があまりに苔だらけなのが憐れで、まずその石像を一生懸命に磨いた。


 そしてそれからその神社に赴く度に、しばらく木洩日は何かしらの手入れをした。

 石段を覆い隠す雑草を刈り、境内に生える雑草も抜き取り、向拝所もできる範囲で綺麗にした。

 満足気な木洩日の表情が第三者視点で映し出されたのを最後に、色鮮やかな記憶は徐々に掠れ、そして消えた。



 ハッと意識を取り戻す。

 掠れて消えた記憶の情景に変わり、目の前に闇の森が出現した。今現在、現実の光景。

 コマと繋いだ木洩日の手に力が籠った。


「木洩日? どうかしたかい?」

「ん、ううん。なんでもないの」

「そうかい……?」

「うん」


 木洩日がはっきりと頷くと、コマは「そうか」と言って微笑み、再び前を向いた。

 そんなコマをしばらく見つめてから、木洩日は今思い出した記憶を強く胸高鳴らせながら思い返した。


(――偶然ではなかった。私は、はっきりとその神社を目指してそこに辿り着いていた。そして私にはその神社に強い思い入れがあった。初めから。それを思い出した……)


 真実に近づいている確かな予感があった。木洩日は出もしない唾を飲み込み考え続けた。


(どうして? 行ったこともない場所に強い思い入れを感じていただなんて。それに私は引っ越してきたのだから、周辺の地理にはあまり詳しくなかったはず。なのに、あんなに分かりにくい場所にあった神社を知っていた。……探し出した? どうしてその神社に魅かれたの……?)

(縁を司る神様がおわす神社。でもさっきも考えた通り、そのことを知ってその神社に赴いたとは思いにくい。あそこは忘れられた場所だったから、そのことを知る方法がなかったはず。――それとも、それすらどうにか調べた? 縋るようにして? そこまで私はどうにもならなくなっていたの? ……でも記憶の中の私は、神社を綺麗にしていた私は、心から微笑んでいた。そこまで追い詰められていたのならそんな表情……それともあれは私がそう思いたかっただけの、捏造の記憶……?)

(……うぅ、なんだか頭が痛くなってきた……)


「おわっ!」


 木洩日は行く手を横断する木の根に足を取られ、体勢を崩してしまった。

 軽い偏頭痛を気にして左側頭部に手を当てていたため、繋いだ手を、コマを引っ張る形で前のめりに倒れた。


「木洩日ッ! ――大丈夫かい?」

「ご、ごめん! か、考え事してて、ぼーっとしてた……」

「とても疲れているだろう。もう少し歩いたところで少し休憩をとろう」

「ううん、私平気! もう最初ほど森が怖く感じないもの、全然いけるよ!」


 ――と言ったものの、言われて木洩日は自身が酷く疲労していることに気付いた。

 気持ちの上では前に歩き続ける活力に満ちていたが、しかし身体のほうがそれに追随していないことを今更に自覚する。

 呼吸が激しく、不規則に乱れていることに驚いた。

 足が痺れていた。膝の辺りが自然とガクガク震えている。

 肌が熱いのに冷たい。発熱しているというのに、とても冷えた感覚も同時にある。

 木洩日はそれらを自覚し、どうしようもなく焦った気持ちになったが、頭を一つ振ると繋いだまま近くに寄せられたコマの手を引いて立ち上がった。


「――だ、大丈夫、大丈夫っ! ん、行こう、コマ」

「……無理が来たら、言っておくれね」

「うん!」


 木洩日は大きく息を吸い込み、吐き出し、再びぎゅっと湿った若草を踏みしめ歩き出そうとしたが。

 そのとき、それに気付いた。


「……ん?」


 何かが視界の端をよぎったのだ。

 森の獣でもない、砂漠の神獣のものとも思えない、見覚えのある光。

 優しい白の光――。


「コマ、あれ……あっち……!」

「うん? ――――!」


 木洩日の指さす遠く先。コマもそれを視界に捉えた。

 途切れ途切れに見える、僅かな白の光。本当によくよく見なければ気付かない、集合した黒い影。それは――。


「安息の泉! ――すごいよ木洩日、私でも気付けなかったのに!」

「え、えへへ。やっぱり私、心の底では休みたかったのかな? それで無意識に必死になって、休める場所を探してたのかも……」

「大したものだよ、よく見つけたね! さあ、あそこで少しばかり休もう」

「だ、大丈夫かな……?」

「大丈夫、先程出会った獣たちが通った道からは逸れている。少しばかりなら問題ないよ」

「そ、そっか! へへ、よかった。……実は、足が震えてきちゃってて……」

「さあ行こう。木洩日、繋いだ手を支えにして……」

「うん、ありがとう!」



 ――コマは気付くべきだったろう。

 自分が気付かず、木洩日がそこに気付いた訳に。

 危機察知の力は、時に無意識へ働きかけ、その者を危険から遠ざける。黒の森の中、地で輝くただ唯一の光を意識外に追い出した、コマの予知にも近い危機察知。

 常であれば、コマはその違和感に気付いたはずだ。


 しかし木洩日に心配を注ぐあまり、無意識で違和感を意識から押し出してしまった。

 木洩日が休めるのなら。己の唯一の信者、遠くニライまで渡って助けになろうとするほどに愛してやまぬ者が今、息も絶え絶えに弱っている。そんな彼女が少しでも休まるのなら。――甘い誘惑。

 木洩日に苛烈を強いることに負けた、精神の敗北。この森でただ唯一、はっきりと間違ったコマの過ちであった。



 白の光を放つ虫が、木々の囲いの僅か外にまで溢れている。

 木々が囲う円は相当に大きい。これであれば、空も枝葉に遮られることなく見上げることができそうだ。


「わあっ」


 円から漏れ出た発光虫を見つめ、木洩日は明るい声を上げた。

 コマも微笑み、木洩日の手を優しく引いて、そのときだけは半歩先を行くのではなく木洩日と並んで、木々の囲いの内へと足を踏み入れた。





【広大な森の平原】。

 夜は危険極まる獣たちが徘徊する地だが、しかしそれ以外の脅威らしい脅威はない。夜をその腹に飲み込む原初の森は、そこを行く者の精神を削り取るが、大自然の暴威が行く手を阻むわけでもない。

 定められた危険度は平穏な村、街、そして一部の例外的な領域の危険を示す数値である零の、次の数値、一。

 安息が約束された場所すら存在する。夜が来るごとに場所が変わるそこには、森の獣が持つ唯一の規律が敷かれている。


 その泉には二種の発光虫が飛び交う。

 一つは、明るい黄緑の光を放つ『キユミカゲロウ』。弓のように曲がった小さな体躯を光らせるこの虫は、水の上でしか生きられない。夜の訪れで泉と共に現れ、明け方には泉に沈んで森と共に姿を消す。


 もう一種は『シロマリヒカリ』。毬のように丸い体躯を持つこの虫は、泉の周囲に生い茂る青草の花、その蜜を吸って生きる。

 こちらの虫は、昼の平原にも存在している。昼は若草の根本にじっと張り付き過ごし、森の出現と共に揺蕩うように飛び立つ。

 平原を歩む際、若草の根元をよくよく見ながら進めば、『シロマリヒカリ』の群生が見つかるかもしれない。そこで夜を待てば、平原が森の姿をとったとき、そこは安息の泉である。夜ごとに変わる泉の場所を察知する方法を、『シロマリヒカリ』だけは知っているのだ。


『シロマリヒカリ』は決して泉の領域、その外に出ない。

 例外があるとすれば、泉の安息が乱されたときだけである。

 そのとき『シロマリヒカリ』はワッと外に広がり、騒ぎが収まるとやがて徐々に泉の領域の内へと戻り始める。

 獣たちはその『シロマリヒカリ』の動きで、泉で争いが起きていることを知る。それを知った獣は悉く泉へと駆け、その地で争った獣そのどちらをも皆で殺す。それが安息の泉の掟。


『シロマリヒカリ』は。

 その地が平静であるとき、例え僅かも泉の領域の外に出ることはない。



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