【半月獣】

 枝葉に遮られることなく、広く夜空が見渡せるその地には、一つ目の泉とは異なる赴きの美しさがあった。


「うわぁ!」


 その光景の圧倒に、木洩日は感嘆の声を漏らした。

 木々が囲う領域、草花生い茂るその地はとても広い。しかしその地の面積と比べ泉の大きさはささやかなもので、前の泉と比べてもむしろ小さいくらいのそれが、真ん中にぽつんとあった。

 控えめな面積で輝く中央の黄緑。

 そして泉の外側から始まり領域全てを埋め尽くす、咲き誇るように輝く白。


「すごい……」

「ああ、綺麗だ」


 囲われた地いっぱいに広がって輝く光に、全力で生命を主張する力強さを感じる。時折それが瞬く度に、泉の地そのものが鼓動しているような錯覚を覚えた。

 その光景に見惚れる木洩日の手を、コマは優しく引いた。


「さあ、泉の傍へ。少しだけ休もう」

「うん!」


 二人は泉の畔に腰を降ろした。

 目を細め、短く安堵の息を吐き出したコマ。木洩日はそんな彼を少しの間ただ見つめてから、話を向けた。


「コマあのね、私がカナイでどんなことをコマとお喋りしたのか、それを聞いてもいい? ――今ならそのことを聞ける気がして」

「――うん、そうだね。今であれば問題ない。何を語ろうか? 木洩日は本当に色々なことを私に語ってくれたから」

「……あのね、私がコマに打ち明けていた、私の辛い思い。それがどういったものであったのかを知りたいの」

「…………。……分かった」


 コマは組み合わせた手に僅かだけ力を込めた。まるで、痛みを堪えるように。

 少しの間沈黙して考えを巡らせてから、彼は語り始めた。


「私が、私が一番に心を痛めたことを話そう。それは、木洩日がどれほどにそのことを辛く思っていたかが身を引き裂かれるような痛みをもって伝わってきた打ち明け事だった。――その日木洩日は、『自分の名前が嫌いだ』と私に語った。……泣きながらに」


 ――木洩日の瞳の瞳孔が開かれた。

 コマの言うその記憶を思い出した。

 



『木洩日。日陰女の木洩日』



「クラスメイトの女児に、木洩日という名を酷くに貶されたと。それも一度ではなく、とても長い期間、しつこく。木洩日は――」



『日陰女って……やめてって言っているのに……葉っぱが付いた木の枝で私の頭を叩いてきたり……外に出ると、なんで日陰にいないんだっていつも言ってくる……』

『――私、木洩日って名前、好きじゃないッ!』



 コマの語りと重なるように、頭の中で、かの日の泣きじゃくる自身の声が響き木霊した。

 コマは俯き、僅かに不吉な音が鳴るほどに組んだ手を強く握り締めた。


「――その数日後木洩日は、自分の名が嫌いだと口にしてしまったことを、とても後悔していることを私に打ち明けた。信頼する親御から貰った名を嫌うことが、とても嫌に感じたこと。貶されたから嫌いになるなんて、そんなことは馬鹿馬鹿しいからやめようと決意したこと、それを語ってくれた。木洩日はその頃からとても強い心を持っていた」

「そっか、そうだった……。強い心……。でも今考えれば、私は独りで抱え込みすぎていたのかも……」

「しかしね、木洩日は憎悪の念を燃やさず、その現実を真っ直ぐに見据えて向かい合っていた。その苦難に折れず、自身の負に気付き反省したんだよ。それはとても尊いことだ、とても。私はあの日、木洩日に輝かしい誠実を見た……」



「――――それをあの女児共は……ッ!」



 恐ろしい声が泉の地に轟いた。

 それはそのまま、神の怒りのような声だった。

 比較することすら叶わぬ、遥か強大な神格が目の前に顕現したかのような轟き。


 その声に、木洩日は神を見た。


 木洩日の底から湧き上がったその心持ち。自身がちっぽけなただ一人の人間であることをどうしようもなく思い知らされるそれは恐怖などではなく、理に対して抱くに近しい畏れ慄く畏怖であった。

 コマの表情は憤怒に染まり、恐ろしいものへ変貌している。

 目は血走り見開かれている。剥き出しにして食い縛った鋭い歯の奥からは、人のものではない低い唸り声が洩れている。額には、幾本も浮いた青筋――。


「――――コ、コ……マ……?」


 木洩日は震える手で彼の腕を強く掴み、名を呼んだ。


「――――!」


 途端にコマは茫然を浮かべ我に返り、一瞬にして苛烈の表情を消した。


「――――……。す、すまない木洩日……」


 頬に玉汗を浮かべ呼吸を荒げながら、コマはくぐもった声を上げた。


「我を忘れてしまった……すまない……」

「う、ううん……」


 木洩日は何を言っていいのか分からず黙り込んでしまった。コマも俯き顔を反らし、沈黙した。

 しばらく続いた無言だったが、やがてその沈黙を破ったのは木洩日のほうだった。


「……コマ。あ、あの、ごめんなさい……」

「木洩日? どうして?」

「私がコマに辛い思いを打ち明けることで、コマにも辛い思いをさせてしまった。コマの神格はあの石像に宿ってたって。ただ黙って話を聞いてくれるだけの存在じゃなかったのに、私……」

「それは違う、それは違うんだ木洩日! 神とはそういう存在なんだよ、私が未熟だっただけなんだ。……未熟を見せてこんなことを言うのは情けないが、木洩日、どうかそんなふうには思わないでおくれ……」

「ん、ん……」


 木洩日は自身の気持ちを整理しきれなくなって、再び口を閉じてしまった。

 謝ること自体が間違っているような気がして――自身のために謝っているような気がして。でも謝りたくて。でも、コマはそれは違うと――。

 木洩日はくしゃくしゃになった思考に悩まされながら、夜空に視線をやろうとした。

 何気なく、ただ何となくな気持ちで。



 見間違いかと思った。

 いや、きっとそうに違いない、意識の片隅がそんな納得を下した。だから、ただぼうっと何の気なしにそれを見上げ続けた。



 それは牛の頭のように思えた。

 山のようにそこに聳える巨躯。

 先程出会った、滑らかな体躯持つ獅子のような獣を見て木洩日はそう思ったが、目の前のそれこそが真実本当のであった。

 なにせそれは、空を覆い隠すほどの巨体だったのだから。


 夜空の代わりにあったそれをしばしぼんやりと眺め、やがてその頭から下に目をやった。

 それは腰を降ろしている。岩を押し固めたような、如き膨れ上がった肉体がそこにあることは分かるのだが、なぜだかそれをはっきりと認識できない。


 もう一度上を見上げた。

 そこに、白銀の瞳があった。

 それが最後だった。



「【半月獣】……」


 隣にいるはずのコマの声が、遥か遠くから聞こえた気がした。

 木洩日はそれがそこに在ると分かっても、なにも感じなかった。ただ、自分はここで死ぬという事実だけが、ぼんやりとしたままの意識で理解できた。

 それが立ち上がろうとしていた。ただでさえ大きかった躯体がさらに上へとせり上がっていく。


「――――木洩日、後ろに下がって逃げるんだ」


 コマのこれ以上ない緊迫の声が、右から左にただ突き抜けた。

 木洩日は動かない。口を小さく開けたまま、何の色も持たない瞳でそれを見上げ続けていた。


「木洩日、――木洩日ッ!」


 木洩日は動かない。


「頼む逃げてくれ木洩日ッ!」


 木洩日は動けない。

 僅かも。

 ただ、膝を抱えてそれを見つめるだけ。

 意気地がなかった、危機感が足りなかった、油断していた、立ち向かう度胸が足りていなかった――そのどれもが木洩日の完全なる放心の理由にはならない。

 要因は欠如ではなかった。目の前のそれは、人が持ち合わせる精神力では到底受け止めきれぬ畏怖であったというだけの話。コマの叫び、それは彼の無茶だった。


 それが目前に在ることに気付けなかった訳。

 それは、自らとはあまりに掛け離れた高位の存在故に認識すらできなかったという理由なのだから。




「×××××××××――――――――」




 それが叫び声を上げた――ような気がした。やはりそれも、木洩日には上手く認識することができなかった。音は鼓膜を震わせているはずなのに――。

 コマが尚も何かを叫んでいる。――しかしもはやコマの声さえ木洩日には届かなかった。目の前の景色が薄ぼんやりと曇り始める。

 うつらうつらと光っては消える意識の中、木洩日は今更に、左手首に灼熱の痛みがあることに気付いた。その痛みは随分前からあったようだが、激痛が他人事のようにしか感じられず今まで気付けなかった。


 身を焼くその感覚に気付いた途端に。

 霧が晴れたように目の前の景色が開けた。

 強く吹き荒れる風の音が一番に聞こえてきた。

 そして、コマの声よりも先に、それの姿をはっきりと瞳に映してしまった。


 ――木洩日は粗相してしまった。ニライの地に渡ってから排泄物の一切がなくなったはずであったが、そのときそれは服を地を濡らした。



 頑強な頭部が、遥か遠くの空にある月を半分隠している。

 その白銀の瞳に宿る情念を言い表す言葉は一つしかない。人や獣が宿す直情とは明らかに種の異なる、包み込まれるような理解を超えた情念――神聖。それが恐ろしく木洩日たちに向けられている。

 隆々と言う言葉では表現しきれぬ、世界の中心、暴風の発生点が如き存在を放つ巨大。月夜も、暗がりの森も、吹き荒れる風もなにもかもがそれを飾り立てる一要素として世界に存在しているかのように今は感じられる。


『ミノタウロス』。

 二足で超然と立つそれによく似た空想の怪物の名が浮かび上がった。

 しかしそれと比したことで木洩日の中に浮かんだ思いは、人間が持つ想像力の限界だった。人が空想するその程度がそのまま目の前に出現してくれればどれだけよかったか……。


 それは身の丈三メートルを超える。

 それは人や獣が有する情念とは異なる高位の意思を宿している。

 それは理外である。

 それは不滅の聖性を纏っている。


 空想上の怪物『ミノタウロス』のように、斧で攻撃を行うような有情はそれには期待できないだろう。

 それの拳そのものが、神の顕現である。



 木洩日は震えながら立ち上り、よたよたと数歩後ろに下がった。

【半月獣】は、千鳥足で後退する木洩日には目もくれなかった。構えを取るコマだけを見据えている。唸り声すら上げず、ただ純粋な意思のみで敵対していることが堪らなく恐ろしかった。

 コマは失態を激しく悔やむような、歪め食い縛った表情を浮かべている。

 木洩日はやっと、先程コマが放った恐ろしい威圧に触発され【半月獣】がこちらを認識したことに気付いた。存在の程度が違う――あちらもこちらと同じ理由で、こちらに気付いていなかったのだ……。



『砂漠の神獣は目の前に立った者には容赦ないが、自ら破壊対象を探しまわるような真似はしない――』



 コマの言葉が思い返された。

 もはやここに至っては、この神獣から逃げられはしない――。


「――若火焔火」


 コマの両手が青色に燃え盛った。

【半月獣】を見開いた瞳で見据えたまま、コマは木洩日に、妙に静かな声を向けた。


「木洩日、聞いておくれ。私が【半月獣】と戦っている間に、ここから離れて走り続けるんだ。来た道を戻ってはいけない、前へ。森を、朝と昼の平原を抜ければ大きな街に出る。そこで【緑の館】を訪ねておくれ。人に聞けば場所は分かるだろう。――木洩日、先へ進むんだ。いいね?」

「コ、コマは!?」

「……私は愚かだった。さあ、木洩日……」

「コマーーーッ!」


【半月獣】が一歩を踏み出した。

 コマも、青の炎を揺らめかせながら。


「どうか我が神格の残り火が此処に在らんことを……」


 そう呟くと、地を蹴り【半月獣】へと、その圧倒的脅威の懐へと猛然と駆けた。



 ――ここで、傷付きながらも火花を交え戦い続けたとあれば、どれほどにいいか。

 しかし現実は、そう在るようにただ当然の、夢も期待も削いだ混じり気のない乾いた結果だけがあった。



 前方と後方で同時に轟いた凄まじい破壊音が何を表しているのか、木洩日には理解できなかった。


 目の前には。

 目にしただけで意識が掻き消えそうになる聖性を宿した拳を振り切った、【半月獣】の姿が。


 呼吸を荒げながら、木洩日は恐る恐る後方を窺った。

 そこには、真っ二つに折れた幾本かの樹木が。

 そしてそれに衝突し無残に倒れ伏した、血塗れのコマが。


 ――木洩日はへたりとその場に崩れ落ちてしまった。


【半月獣】はそれでも止まらない。倒れ伏すコマの元へ、猛威そのままに悠々と歩み寄る。――折れた樹木はその断面から幾本もの木の根のような蔦を伸ばしすでに再生しつつあったが、コマはピクリとも動かない。

 木洩日はなんとか【半月獣】とコマの間に立ち塞がろうとした。しかし足腰が一向に言うことを聞かない。指先すら動かない……。


【半月獣】はついに立ち止まり。

 慈悲の無い全力を込め、拳を振り上げ。

 それを、振り下ろし――。


(――――――――)


 ――僅かばかりの時間を稼ぐ奇跡が起こった。

【半月獣】の拳は、コマを破壊する寸でのところで止まった。

 何故。絶望渦巻き混迷する木洩日の耳にも、その答えが聞こえ始めた。

 バキリ、バキリと。樹木を次々と薙ぎ倒す恐ろしい音が響いてきた。それはこちらに向かっている。

【半月獣】は顔を上げ、そちらを見据えた。――破壊の音は大きくなる一方だ。


 目の前にある神聖の威圧をそちらからも感じ取るに至って、木洩日にもようやっと今何が起ころうとしているのかが分かった。

 最後に雷のような轟きを響かせ泉の地を囲う樹木を薙ぎ倒し現れたのは、もう一体の【半月獣】であった。

【半月獣】同士の睨み合いは一瞬で終わった。両者一度だけ、世界を震わせるような雄叫びを轟かせ、その拳を振るった。


「……コマ」


 神話の戦いが如くのその凄まじさには目もくれず。

 木洩日は震える両手足で這うようにして、必死でコマの元へと向かった。


「コマ……コマ……っ!」


 倒れ伏す彼の元へ辿り着く。


「コ……――――」


 血塗れの表情は暗い。

 彼は息をしていなかった。


 そもそも彼は元々息をしていたか? そんな無意味な考えが一瞬だけ脳裏に浮かんだが、すぐにその現実だけが目に映り、真実をはぐらかすような思考の一切は消えた。

 彼の色のない表情、その瞳を見れば。

 彼がどういった状態にあるのかは理解できた。


「コマ……お願いコマ死なないで……」


 木洩日は彼に縋り付きながら必死に祈った。


「コマ……――神様お願いします、私はもうどうなってもいいです……コマ、コマを…………こんなことはなかったことにして……お願い……」


 ――木洩日の左手首に刻まれた印が、青く青く輝き出した。


「お願い……私が悪かったです……私は……――お願いだから……ッ!」


 煌々と輝く文様が、溶けるように崩れて消えた。

 意識が焔となり燃え上がるような感覚と共に、木洩日の目の前の景色全てが消え失せた。


 

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