永夜の過酷 ~2~
虎のような頭部を持つ獣の襲撃以来、襲い来る獰猛はなく、状況は静寂を保っていた。
だというのに、木洩日の瞳に、意識の疲弊による靄がかかり始めていた。
それは自らの思いがささくれ立った棘となる、自傷のような心労が理由の多くを占める原因であった。
心が前へ進むことを拒絶し始めたのだ。
きっと、ずっと感じていたことなのだろう。
焔ノ狐神の守護がもたらす心の平静のおかげでそれに対し鈍くなっていただけで、樹木が閉ざす深淵の奥へ奥へと進み続けることを拒否する思いは、元々強く思いの底に抱いていたのだろう。
深淵に晒され続けるほどに、その思いは自意識とは無関係に膨れ上がり胸の内に溜まり、前進への拒絶とは相反する木洩日の覚悟に細かな傷を作り続けていた。
ハアハアと浅く速い息を繰り返す木洩日の表情は暗い。時折、無意識に瞳の淵に涙が溢れ出していた。
「頑張れ、頑張るんだ木洩日」
コマは辛抱強く木洩日を励まし続けた。
「いざとなれば、私が君をおぶってこの森を突破しよう。しかし、この地よりも更に先に待つ過酷、【最果ての聖域】に辿り着くために越えなければならない苦難を耐え抜くには、君自身の強き胆力がどうしても必要だ。頑張って、自らの足でこの森を超えるんだ、木洩日」
「うん……」
木洩日は頷き、長く息を吐き出すと歯を食いしばり力強く地を踏みしめた。
「コマ、この森を……超えた先には、ふぅ……なにがあるの?」
「街がある。少し大きな街で、そこで十分に休息も取れるだろう」
「そっか。じゃあ……頑張らないと」
強く、また一歩を前に送る。
木洩日はふらつきながら、樹木群の背の高さを見上げた。それに対する恐怖は今や薄れている。しかしそれは慣れによる克服などではなく、もはや夜の森の畏怖さえ曖昧にしか感じなくなっているという事情だった。
(あと、どれほど)
霞みがかった意識で、朦朧と思う。
(あとどれほどの時間で、夜が明けるのだろう……)
もはや真夜中を超えた、夜明けまであと僅かの時間。
木洩日はそう思っていたのだが。
はたして実際は――。
「木洩日、見てごらん!」
闇を切り裂くが如くのコマの声が、木洩日を朦朧から掬い上げた。
顔を上げれば、少しだけ興奮を露わにした笑みを浮かべるコマの表情がそこにあった。
コマの指さす先を見る。そこには不自然に密集する樹木の集合があった。密集は円を描いて互いに身を寄せているように見える。
コマは木洩日の手を僅かに強く引き身を寄せ、樹木の密集を見やりながら明るい声を木洩日にかけた。
「木洩日、よく頑張った。あれは森の泉を取り囲む樹木の並びだ。あの中には泉があるんだよ。そこでは、よほどの混乱が訪れなければ、どんな獣も互いを襲わない。もちろん私たちのことも。森で生きとし生けるものの間にある唯一の規律だ。――あそこでなら十分に休息が取れるだろう。頑張ったね木洩日」
「…………」
木洩日の口から、大きな塊の息が吐き出された。
それが体から抜けると、ぐらりと体が傾いた。コマがしっかりとその身を受け止める。
どうやら、自身が思っていた以上に心身共に疲弊募っていたようだ。
木洩日は「ごめん……」と小さく呟くと、最後の気力を振り絞り、自身の力で地に足を立て、樹木の密集へと歩み出した。
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