『安息の泉』
そこは、その一帯全てが蠢く一つの異形のように思える森の腹の中にあるとは信じられぬ美しい場所だった。
木々の壁に取り囲まれたその内には、一本の樹木も生えていない。その代わりに若草と、今まで森のどこにも見なかった小さな花弁をつけた青草が風に揺れている。
開けたその場の中央には、内に外に自由な曲線を描く円形の深い凹みがあり、そこに影を落とすように暗い水が溜まっている。
その上を、明るい黄緑の光を放つ小さな虫がたくさん、音もなく飛んでいる。水面近くを揺らめき、漆黒の水にいくつもの黄緑を映し出していた。
泉の外側には、優しい白の光を放つ虫が幾匹も気ままに揺蕩っている。それら二種の虫は泉の内と外とで完全に分かたれており、そのコントラストの美しいこと――それは幻想的な光景であった。
「わあ……」
思わず感嘆の声を上げた木洩日だったが、コマはその情景を見ると、木洩日とは対称に険しく眉を寄せた。
「……おかしい。安息の泉に、獣の一匹もいないなんて」
「え? ……普通なら、何匹かの獣がいつもいるものなの?」
「ああ。なにせこの森で唯一の安息が約束された場所だからね。森に点在する泉の数はそんなに多くないはずだ。何ものもいないのはおかしい」
「…………」
コマの緊迫に当てられ身を縮ませた木洩日を見て、彼は慌てて明るい表情を作った。
「いやすまない、今こんな脅かすようなことを言うべきではなかった。さあお休み。泉の近くで体を休めなさい、それがここの決まりだから」
「うん……」
不安の表情を浮かべながらも、木洩日はよろよろと泉の畔へと足を運んだ。
ふと、空の輝きが気になり木洩日は上を見上げた。
囲まれた円内は空を閉ざす枝葉が薄く、そこからは星々輝く夜空が窺えた。
――木洩日はそこで、信じがたいものを目にした。
「う、そ……」
木洩日が見開いた瞳に映したものは――僅かに欠けながらも煌々と輝く、空に浮かぶ月であった。
銀の月は、空の頂点に差しかかるかどうかという位置で輝いていた。
つまり。
木洩日は、もうあと僅かで夜明けが近づく時刻だとばかり思っていたのだが。
真実は、未だ日付を跨ぐ時刻を超えるか超えないかという真夜中の真っ只中であった。
木洩日は瞳に月の輝きを映したまま、膝から崩れ落ちてしまった。
「木洩日ッ! …………」
駆け寄り木洩日の背にそっと触れると、木洩日の見つめる先をコマも見上げた。
木洩日の心中を悟ると、コマは木洩日の肩に手をかけ、強い意思込めた言葉をかけた。
「木洩日、私たちは確実に前進している。この安息の泉にも、君の足で辿り着いたんだ。ここで心折ってはいけないよ。――私たちは共にある。どうか、それを強くに思っておくれ」
「……うん。……コマ、夜が明けるまでこの泉にずっと居続けることはできないの?」
「安息の泉には、長くとも半刻の時間しか滞在することができない。それを超える時間ここに留まり続ければ、争いを嫌う泉の地であるとはいえ、他の獣から敵意を買ってしまうから。より多くの獣たちが泉の恩恵に授かれるよう定められた、泉の地を安息の場たらしめるためのルールだ。……だが、今は」
コマは目を細め辺りを見渡した。
「今は、なぜか他の獣が一体もない。もしかすると今の状況では、この泉に留まることは良策なのかもしれない……」
「じゃあ……!」
「しかし、泉に獣が一体もないことには必ず理由がある。この場所に何かしらの危機が迫っている可能性は捨てきれない。私はここに留まらず、歩き続けたほうが良いように思う」
「…………そっか。うん、コマがそう考えるなら、きっとそうしたほうがいいんだ。分かった……」
「すまない、木洩日。しかしそれが最善のように思う」
「ううん、コマは何も悪くない……。うん、私頑張れるから」
「半刻休み、ここを立とう。また呪いをかけて、君の心身に祈りの安息を灯そう。だから今はゆっくりお休み」
「うん。…………」
それ以上の言葉は発さず、木洩日はこてりと力なくコマのほうへ体を傾けると、気絶するように眠ってしまった。
コマは平原でそうしたように、二本指で木洩日の額にそっと触れ、何事かを唱え木洩日に安息の呪いをかけた。
若草を刈り青火を灯すと、木洩日の頭を自身の膝の上に乗せた。
青の瞳を静かに輝かせながら、表情なく眠る木洩日の頭をそっと撫でる。
「……やっと、四肢あるこの体で君の助けになれるんだ。例え私の神格が滅ぼうとも、この子だけは守ってみせる」
コマと名乗る彼は意思を吐き出すようにそう呟き、樹木の先の闇に目をやり、その虚空を強く鋭く睨み据えた。
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