永夜の過酷 ~1~

 森の道は、酷い心労で心を蝕む。

 先を見通せず、狭まった景色は前に進めど代わり映えせず。それが前進している感覚を曖昧にし、心の調子を狂わせる。

 地には行き先を遮るように太い樹木の根がそこかしこに張っており、それが踏み出す足を迷わせた。根を恐る恐るに踏むたびに、辺りの木々という木々が一斉にこちらを見下ろしてくるような錯覚を覚えるのだ。そのため、木洩日はできるだけ湿った若草の上を歩いた。

 足を前へ送る、それだけのことで心削れる鬱蒼の森。平原での進行と比べれば、まるでカタツムリの速度で進んでいるように思えた。


「頑張って、木洩日。あと一回だけだが加護の結界が使える。好きな時に安全に休息がとれるから」

「あと一回……」

「うん。実はこの青火は、他の神から借り受けたものなんだ。あまり使いすぎると次第に力が弱まってしまう。【守りの青火】は強力な神力だから、この先も必ず必要になる。ここであまり使いすぎるわけにはいかない」

「そっか。うん、わかった。頑張る」


 フウフウと細く息を荒げながらも、木洩日は強く頷いた。

 姿見えぬ鳥の鳴き声はいつの間にか消えていた。森は重苦しい静寂に包まれている。

 木洩日は辺りにきょろきょろと視線をやり不穏の予兆を探ろうとしたが、獣の気配はどこにも感じられない。――その仮初の平穏が、堪らなく恐ろしい。


「ねえコマ。森の獣たちはどこから来たの?」

「森と共に姿を現したんだ。彼等は別に悪魔というわけではないよ。人を殺すことだけを考える悪鬼のように見えたかもしれないが、森と共に在るただの獣たちだ。私たちにとっては恐ろしいが、だからといって彼等が悪というわけではない」

「そ、そうなの……」

「これは大切なことだ。相手の姿を真に見定めることができなければ、それと対峙したとき思わぬ形で不覚をとることになる。真に見定めること、それは中々に難しい苦難かもしれないが、それの必要は絶対だ」


(そっか)

(あの獣たちも、生きてるんだ。私たちと同じように……)


 それを思うと、木洩日はとても不思議な気持ちになった。彼等の体温を感じたような心持ちを覚えたのだ。……だからといって、彼等に対する恐怖心が和らいだわけでは微塵もなかったが。

 ――不意に、青火に身を焼かれ悶える獣の姿が思い返された。

 木洩日は少しの間視線を伏せ眉を下げたが、やがて一度目をぎゅっと瞑ると、静かな表情を浮かべた。


(ごめんなさい。成仏してください――)


「木洩日?」

「あ、ごめんなさい。なんでもないの」


 心配の表情で振り向いたコマに、木洩日は首を振り答えると再び前を向いた。


(それにしても、コマはとても強かったな。あの恐ろしい獣を五体も追い払っちゃうなんて)

(【渡し神】……なんだよね? それがどういうものなのか、まだいまいち分からないけれど、もしかしたらコマは凄い神様なのかもしれない)

(でも、カナイで私と会っている……。たぶん、どうしても名を思い出せないあの神社で)


 それを思ったそのとき。

 ふと、気付いたことがあった。


(……私はなんであの神社によく通っていたんだっけ?)


 木洩日は自分のその閃きにハッとした。

 それこそ、神社の名を思い出す最重要の鍵のように思えた。


(そうだ! それを考えればよかったんだ! ええと……)

(…………)

(…………)


 自身の閃きの冴えに興奮を覚えながら、必死に記憶を掬い出そうと思いを巡らせた。


(――なにかを。なにかを、話しに行っていたような気がする。いつもそれが目的で参拝していたような気がする……)

(誰に? ――一人しかいない)

(コマに。私は神社の向拝所で、神様に向かって色々をお話していたの?)


 向拝所。

 賽銭箱と鈴が設けられた、拝殿の主要。そんな言葉を何故知っていたのか、その理由はすぐに思い出せた。木洩日が母にそれを尋ね教えてもらったのだ。


(やっぱり私は、その神社でお参りと一緒に、神様に向かって色々なお話を……)

(…………)

(……なんだか、違う気がする)

(もっと細かい事情があったような気がする……)


 その先はどうにも思い出すことはできなかった。

 木洩日はぎゅっと拳を握り、懸命に頭のあちこちに意識を配り記憶を探った。


(思い出したそれは、コマが語った私との関係と、完全に合致する。途中までは絶対に間違ってない。あと少しな気がする、あと少しで、コマのことを思い出せる予感が……)


「木洩日」


 コマの鋭い呼びかけにより、その懸命は中断された。

 見れば。

 暗がりに、赤銅に光る瞳が四つ。


「私の後ろに隠れなさい」


 姿を現したのは、黒い毛が不揃いに生える四足獣だった。

 細い胴体に似合わぬ隆々とした太い足。鞭のような長い尻尾。虎に近い形の頭部。牙は大きく、鋭きそれが月明かりを反射し輝いている。

 その獣の姿を見ると、コマは表情を酷く顰めた。


「コ、コマ、大丈夫?」

「ああ、問題ない。問題ないのだが……」


 得心いかぬというふうに眉を寄せながらも、コマは大股に足を開き構えをとった。

 獣は低く唸りながら身じろぎもせずコマを見据えている。



『――彼等は別に悪魔というわけではないよ。人を殺すことだけを考える悪鬼のように見えたかもしれないが、森と共に在るただの獣たちだ』



 現れた当初は、獣は悪意の塊の如くの悪魔にしか見えなかったが。

 コマが告げたその真実が、次第に木洩日に、獣の在りのままの姿を見せた。

 獣は敵意を剥き出しにしてこちらを見据えている。しかしその瞳を真っ直ぐに見据え、よく見てみれば、赤銅の瞳には害意とは別の戸惑いの情念が見て取れた。


(……なんだか、焦ってる? なにかを恐れている?)


 獣の唸り声に、どこか怯えの色が混じっていることにも気付いた。


「木洩日、伏せていて」


 威圧の均衡は、それから間もなくして崩れた。

 腹の底に響く重音を轟かせ、獣たちはその隆々の四つ脚で地を蹴り怒涛の勢いで二人へと駆けた。

 森が揺れるほどの怒涛。

 そして。

 刀剣のような牙を煌めかせ、二体の獣は大きく跳躍した。


「っひ――」

「シッ!」


 コマは素早く掌底を繰り出したが――胴体を穿たんとした打突は、まるで厚いゴムを殴打したかのように虚しく弾かれた。


「ぐッ――!」


 獣が僅かにのけ反った隙を見て、コマは木洩日を抱き抱え、素早く斜め後ろ方向に大きく飛んだ。

 獣は僅かも怯まず、口をだらりと大きく開け、次の衝突の機を窺っている。


「強いな。――来い」


 コマは木洩日をそっと地に降ろすと、再び構えを取り急襲に備えた。

 獣は再び飛んだ。地を遮二無二に駆け撹乱することもせずに、大口を開きただ真っ直ぐにコマの元へと。

 コマは獣の距離感を狂わせるように僅かに身を引くと、地を強く踏み締め一体に向かって振り上げるような蹴りを放った。

 振り抜いた足先は獣の牙へ当たり、獣は小さな叫びを上げ空中で体勢を崩した。


 しかしその隙を突き、もう一体の獣がコマの肩口に向かってその牙を煌めかせ――。


「コマ――!」


 コマは。

 コマの体勢は、僅かも揺れることなかった。


「うそ……」


 木洩日は思わず呆けた声を漏らした。

 信じがたいことに、コマは破壊の象徴のように思える恐ろしい獣の牙を素手で掴み、腕一本でその猛威を食い止めていた。

 上顎の牙を素手で掴み、肘で下顎を食い止めている。つっかえ棒のようにした腕は細かに震えてはいたが、獣の顎の力を上回っていることは一目瞭然であった。

 絶対の自信、確信を食い止められた獣は、信じがたいという念を赤銅の瞳に宿し、放心したように硬直している。


「若火焔火」


 ――獣の牙に青火が燃え上がった。

 それは口内を焼き、頭部全体に燃え広がった。

 獣はふらりとよろめき後ずさりし、蹴り飛ばしたもう一体の所まで千鳥足で下がると、それでもコマを見据え唸り声を上げた。


「もう勝敗は決した、去れ」


 コマは静かな威圧を獣に向け宣告した。

 しかし、驚いたことにそれでも獣たちは引かず、微塵も敵意失わぬままに唸り声を上げ続けた。


「何故、そこまで……」


(やっぱり、何かに怯えてるんだ)


 木洩日は傷付きながらも唸る獣たちの瞳の光に、今度ははっきりと、怯え、恐れの情念を見た。目の前のコマに向けられたわけではない恐怖心――。


「――【若焔大帝】」


 獣が引かぬのを見て、コマは腕を振るい大火の青火を放った。

 狐の尻尾の形で獣の目前へ疾走したそれは、匂玉の形を取り散って、地を跳ね一帯を焼いた。

 獣たちは青火から逃れるようにそこかしこを駆け跳ね回ると、やがて森の暗がりの奥底へと姿を消した。


「なぜ、最深部に潜む獣がここに……?」


 獣が姿くらました闇の先を見つめながら、コマがぽつりと呟いた。

 木洩日は身を起こし、コマの背中の裾を掴んで不安の表情を向けた。


「コマ、あの獣たち……」

「ああ。……何かの不測がこの森で起こっているのかもしれない」


 凶兆の証のような獣の騒然に、木洩日は恐ろしくなり震えた。

 コマは振り向くと、木洩日を真っ直ぐ見つめて木洩日の両手を握った。


「大丈夫、私が付いているから」

「……うん」


 コマの力強い励ましを受け、木洩日はふと思った。


(どうして、私のためにそこまで思ってくれるのだろう……)


 それは今更の思いではあったが、しかしこの少年の姿をした神から多くの優しさを受け取った今は、より一層に思える不思議であった。

 コマの手から伝わる温かさ。彼の温度。

 やはりそれにも、木洩日には覚えがなかった。


 

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