夜ノ獣 ~2~
「焔ノ狐神よ、どうか我らを闇より出でる様々からお守りくださりますよう祈り申し上げる」
コマと木洩日の周囲に青火が散った。
それは円を描き燃え上がると、木洩日の左手首の光と同じような文様を地に刻み付けた。
コマは眉を下げ、膝を抱えて座る木洩日を見つめた。
「木洩日、大丈夫かい?」
「……よく、わかんない。……ここはどこだっけ? 私はどこにいるんだっけ……」
一応落ち着きと正気を取り戻したとはいえ、未だ朦朧とした状態である木洩日はぼんやりとした声でそんなことを口にした。
コマは、はっきりと聞き取りやすい声で木洩日に言葉を向けた。
「ここはニライ、君は【煌めきの海】に打ち上げられここに辿り着いたんだ。君は優しい方々が住まう村に迎え入れられ、そこで幾日かを過ごした。私はコマ、君を守護する者。君は遥かなるカナイへと戻るため、私と共に【最果ての聖域】を目指す旅に出たんだ」
「……そうだった。そう、コマと……コマの本当の名前を思い出さなくちゃ……。それで私、思い出して……コマの名前じゃなくて……カナイで、私のいた場所で……。…………」
「さあ、落ち着いて。お茶をお飲み? 少し暖かくなるから」
「うん。…………」
恐怖とは別の理由で震える手で、お茶を受け取った。――ニライに渡ってからは一度もなかった震えの理由。
お茶を飲み終えると、それまで真っ青だった木洩日の頬に、僅かではあるが赤みが差した。
ようやっと木洩日はコマの顔を、瞳を見つめることができた。
「ありがとう、コマ。……ごめんなさい、突然記憶が蘇って、わけが分からなくなっちゃって……」
「無理もない。見てごらん、私たちの周囲に加護の結界を張ったんだ。ずっとは無理だがしばらくここで休息をとれる。ゆっくりおし。心配事は考えないで、心の気を充実させることだけを思いなさい」
「うん、ありがとう」
しばらく木洩日は、マグカップを握ったまま青火を見つめて黙り込んでいた。
やがて青火の揺らめきを瞳に映したままに、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
「思い出したのは、私がどうしていじめられてたのかってことで。……五年生の初めの時、私たち家族は北の地域から南の方へ引っ越してきた。お父さんの仕事の都合で。私はそこで馴染めるか心配だったけど、しばらくは学校の皆と上手くやれてた。特別に仲いい友達なんかはいなかったけど……。……でもある日突然、上級生の男の子に告白されて。その人は人気者で。お付き合いの申し出はお断りしたんだけど、次の日から、クラスの女の子たちからイヤミを言われるようになって、のけ者にされて……。そうしたら他の皆もよそよそしくなっていったの。時間が経つうちそれは酷くなって、イジメられるようになって……」
「…………」
「それはそんなに酷いものではなかったのかもしれない。暴力とか、私の持ち物が壊されるとかはなかったし……。陰口を叩かれたり、無視されてただけだったから……。でも私は辛かった……」
「酷くないわけがないよ、木洩日。君が心を痛めていたなら、それは酷いことだったんだ。己すら己を無視するような、心から目を逸らす納得はしてはいけないよ」
「うん……。……でも一度だけ、本当に怖かったことがあった。クラスの男の子たちに、体育倉庫に一人ぼっちで閉じ込められた時のこと。男の子たちは笑いながら私を閉じ込めたけれど、私は本当に怖かった。私はあの男の子たちに、なにも酷いことなんてしてないはずなんだけどな……」
「……うん」
「閉じ込められて、私はやめてよって大きな声で叫んだの。そしたら男の子たちは、やっぱり笑いながら、体育倉庫の扉をバンって強く叩いて。……それがたぶん、カナイの世界で私が一番に怖かった出来事。……襲い掛かってきたあの獣の瞳を見たら、まず真っ先にその記憶が私の底から溢れてきたの。……きっとあの獣の敵意が、薄暗い体育倉庫の扉を叩く音に似てたからだと思う。それから段々と、他の苦しかった思い出も、思い出して……」
「――そうか。……木洩日、辛かったね。きっと多く心を痛めたことだろう。ニライの世界にいる間だけではあるが、今は木洩日の隣に私がある。どうか頼っておくれ」
「うん、ありがとうコマ。……カナイの世界に帰ったら、もうコマとは会えないの?」
「いや、会えるさ。姿形は違うだろうけれどもね」
「そっか……! …………」
今もう一つ、木洩日は思い出したことがあった。
「ねえ、コマ。私、前にもこうしてコマに同じ悩み事を打ち明けていた気がするの。……私の気のせいじゃないよね?」
「木洩日は沢山のことを私に語ってくれたから、こういったことも、私に語ってくれた様々に含まれていたよ。……すまないが、これ以上は……」
「そっか……わかった、ありがとう」
コマが真の力を取り戻すために、真の名を思い出す。
その理由は今や、さして重きを置く理由ではないように木洩日には感じられた。
もちろんその理由も重要であり重大ではあるのだが、しかしもっと別の理由でコマの真の名を思い出したいと今は願っていた。
もう一度、コマの姿を隅々まで見つめた。
美しい白の巻き毛も、姿勢正しい佇まいも、器量良い凛とした容姿にも、澄んだ青色の両眼にも、――やはり見覚えはない。彼に対するふんわりとした心情すらも、底に沈んだ思い出の断片のどこにも存在しないように思えた。
だというのに、木洩日はコマにたくさんの様々を語ったことを覚えている。
また彼と接するときには、戸惑いとは無縁の不思議な親しみを感じるというのに。
一見すると、訳の分からない矛盾――。
(神に語りかける人間の多くは、それが神と分からぬままに話しかけているもの……)
おそらく、それが答えなのだろう。
しかしそれがヒントに成り得るとは思えなかった。あまりにも漠然とした示唆であるから。
(神社の名前さえ思い出せれば……)
胸の内で独り言ちた。
そして気付く。そのようなことに思い馳せることができるほどに、自身の心が落ち着きを取り戻していることに。胸の内の思いを真摯に受け止めてくれる誰かに思いを残らず明かしたことで、だいぶに気の穏やかを取り戻せたようだ。
「……コマ」
「うん?」
「ありがとう」
「…………? ああ、私が何かしらの力になれたのなら幸いだ」
「うん」
コマは青火を見つめながら、穏やかな微笑みを浮かべていた。
温かな表情であった。
――青火が揺らめいた。樹木に遮られ風は基本凪いでいるとはいえ、時折寒々しい微風が木々の間を抜けた。木洩日はその寒気にぶるりと震えた。
感じたのは寒気だけではなかった。風に運ばれてきた森のずしりと重たい香りが、それまでよりも強く感じ取れたのだ。その匂いは鼻を抜け頭の奥底まで届き、樹木の古くも瑞々しい生気が体の隅々まで行き渡るような感覚を覚えた。
「コマあのね、記憶と一緒に、生前私の中にあったいくつかの感覚が蘇ってるみたいなの……」
「――やはりそうか」
コマは表情を険しくして頷いた。
「木洩日のニライへの渡り方はとても特殊だ。でも前例がまったくないわけではない。過去幾人か、肉体生けるままに精神のみでこの地へ辿り着く者はあった。訪ね回り得た話によれば、その者たちの中には、カナイでの記憶を思い出す度に生前の感覚を取り戻す者があったそうだ。どうやら木洩日もその一人のようだ」
「……これ、あんまりいいことじゃないよね? ただの直感だけど、でも強くそう感じるの……」
「確かに、生前の感覚をもってこのニライの景色を目に映すことは、場合によっては毒にもなり得る。人は、自身の感覚の許容を超える異常に晒され続けると、心にヒビが生じてしまうものから……」
カナイから見れば、ニライは超常異常の結晶世界だろう。
それ故に生前の感覚は毒にもなり得る。コマはそう言った。
「でも、必ずしも悪いことばかりじゃないよ。純粋な精神体の感覚に慣れきってしまうと、今度はカナイの世界に帰ったときに心不安定になってしまう。――木洩日はカナイへ帰るのだから、悪いことばかりというわけではないさ。そうだろう?」
「…………! う、うんっ!」
木洩日は勢い込んで何度も頷いた。
コマも微笑み頷いた。木洩日は、胸に灯った温かな熱がふわりと全身に広がるような心地を感じた。
(頑張ろう……)
また再び強く、そう思えた。
「コマ、もう大丈夫。私もう歩けるよ!」
「ふふ、もうちょっとゆっくりおし。今は、今だけは青火の神様が私たちを守ってくれるから」
「う、うん。じゃあ……あの、お茶をおかわりしたいな……」
「ああ、いいとも。お湯を温め直そう、すぐに温かなお茶を入れるから」
「ありがとう!」
束の間の休息。
今だけは安息の時。木洩日の表情は自然と綻んでいる。
しかしコマは、木洩日を心配する表情を、彼女に気付かれぬうちに一瞬だけ浮かべていた。
コマは、木洩日が己の感覚の狂いに気付いていないことを心配したのだ。それに気付いていれば、花咲くような微笑みなど浮かべられるはずもなかった。
木洩日はもう夜が訪れてから何時間も経ったような気になっていたが、――実際はまだ一刻半ほどの時しか経っていなかった。
夜の闇は時間の感覚を狂わせる。
闇夜はまだ始まったばかりであった。苦難はまだ、これから。
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