夜ノ獣 ~1~

 森は異形のように思えた。

 悪意込められた想像の産物のような光景。


 樹木群は狂人の如き威圧を放ち二人を見下ろしていた。どろどろに意思朽ち果てた正気無き人間が、ただじっとこちらを見つめているような感覚がずっと続いている。

 人が立ち入ってはいけない領域であることを、暗がりの森の万象から告げられている気がして、二人の存在だけがこの森から浮いているように思えた。その思いは時が経つほどに、前へ進むほどに肥大していく。


 樹木が視界を狭める。平原の時とはまるで違う歩みの調子、先の見えぬ暗がりへ足を踏み出すその感覚は、まるで目を瞑ったまま歩いているよう。一歩を積み重ねる度、精神が不安定になり恐怖は募る。

 焔ノ狐神の守護は胸の奥に温かな心持ちを燃やし、致命的な気の狂いから木洩日を守ってくれたが、しかし感じ入る恐怖を軽減してくれるわけではなかった。あくまで意思の根底、正気というものを強き炎で包み守り、正常な思考を保てるよう働きかけてくれるだけ。

 夜の恐ろしさを和らげてくれるわけではない。


「コマ、なんだかとても静か……」

「うん。しかしもうすでに獣たちは樹木の間を縫うようにして徘徊し始めているだろう。いつ会敵してもおかしくない」

「…………」

「大丈夫、しかし気は抜かぬよう。私の傍にしっかりとおいで」

「うん」


 コマは木洩日の手を引きながら、木洩日の手を引く逆の手に灯した青火で周囲を照らし、用心深く辺りに気を配っていた。

 白い巻き毛をほんの僅かに逆立たせ、時折鼻をフンフンと動かしている。

 その様子はまるで――。


(……なんだか、犬みたい)


 視線鋭く辺りを見やるコマから、木洩日は聡い表情持つ白犬を連想した。

 そう思うとなぜだか、彼が暗い森を先導してくれることがとても心強く思えた。

 繋いだコマの手の温もりは、心の内に灯る青火とはまた違う温かさに満ちていた。その体温から、コマの様々の感情が伝わって感じ取れた。――その者の熱から感情を読み取る、それは木洩日を救ってくれたあの村で、顔を布で覆う彼等と密に過ごし得た直感であった。

 その温度から伝わってきたもの。必ず守るという鮮烈な意思、森の恐怖に対する燻り焦がすような敵意、それらを内包する静謐な冷静。

 そして――。


(…………?)


「……コマ?」

「うん? なんだい?」

「コマ、なんだか……嬉しんでる?」


 木洩日はコマから伝わる温度から、どこかで嬉しみを噛み締めているような内情を感じ取ったのだ。

 コマはその指摘に目を見開いて口を小さく開き、放心したように僅かの間驚き。

 ――やがて、バツの悪そうな苦笑を浮かべた。


「……すまない。確かに私はそう思っていたかもわからない」

「どうして?」

「木洩日が私のことを思い出せば、それも分かるさ。……いや、忘れてくれ。恥ずかしいな……」


 頬を染め顔を反らすコマは可愛らしく、その様子を見ただけで木洩日は暗がりの恐怖が和らいだような気分になった。


(どうして嬉しんでたんだろう? それも私がコマを思い出すヒントになるのかな?)


 魂の底に沈んだ記憶の汲み取りに思いを馳せながらも、一方で。

 木洩日はコマの嬉しみを感じ取り、自身にも大きな嬉しみが湧いて生まれたことに気付いていた。

 何故だかは分からない。ただ、思わず口元がにやけるほどに、その思いは胸を押し上げていた。


「どうしたの、木洩日?」

「――い、いや、なんでもない!」


 木洩日は慌てて言い繕うと、ごしごしと口元を拭い笑みを真顔に戻した。

 もうすでに、魂の本当に深いところでは記憶が思い返されている。きっかけさえあれば、目の前の景色が開けるように、一度に多くのことを自分は思い出す。

 木洩日はそれを直感した。


 そしてその機会は。

 それから間もなくして訪れた。


「――来る」


 突然コマは足を止め、眼前の樹木群を強く睨み据え、大股に足を開き構えを取った。


「え……?」

「夜の森の獣だ! 木洩日、私の後ろに隠れなさい!」

「え、ひ、ひっ――」


 木洩日は震えコマの後ろに回り、訳が分からぬままにぎゅっと彼の背の布を握り締めた。

 樹木群の先にはなんの気配もない。木々の擦れる音、地を踏みしめる足音すら何もない。木洩日は半信半疑のままにじっとコマと同じ方向を見据えた。

 やがて。

 それは音もなく現れた。


(――――)


 木洩日は戦慄し全身を痺れ上がらせた。

 焔ノ狐神の加護がなければ、頭を空白にし絶叫していたであろう。



 犬の成り損ないのような獣であった。

 病気に犯されたような色合いの、灰がかった白の六本脚。

 異様に縦長の胴体は薄い黒色で、小さな暗黒のぶち模様があちこちに浮かんでいる。

 胴体より濃い黒色の小さな頭には、闇に浮かび上がる灼熱された鉄の如き輝きが二つ。

 浅く口を開き、不揃いに生えた夥しい量の棘のような牙を露わにしている。

 痩せているが、引き絞られた肉体が持つ力の脅威は一目瞭然であった。



「オオ」


 小さな唸り声を上げ、獣は二人をじっと見つめている。

 ――後ろから、もう二体が姿を現した。大きさと黒ぶち模様に違いはあれど、皆同じ種の獣である。

 木洩日は腰砕けになりコマの背に縋りついた。


「去れ獣共。来るのなら容赦はせぬぞッ!」


 右手の平を獣たちの方へ伸ばしその上に青き火を荒ぶらせながら、コマは鋭く威嚇の声を発した。

 獣たちは身じろぎもせず、しばらくコマが生み出した青火にじっと目をやりながら静観の構えをとっていた。

 しかし、やがて。


「コ、コマ。う、うぅ後ろに――」


 木洩日は震える手で獣たちの背後を指差した。コマの瞳がすっと細められる。

 暗闇の先に光る、四つの赤褐色。

 また、二体の獣が音もなく現れたのだ。

 群れは五体となった。

 そして先頭の一体が、雷の前触れのような唸り声を上げた。


「来るか……」


 コマは静かに呟いた。

 ――獣たちは一斉に静観の構えから一転、荒れ狂う獰猛を示した。

 今際の際の悲鳴が如くの咆哮を上げ、地を蹴り左右からコマと木洩日を襲った。



「焔ノ狐神よ、今此処にその神格を示したまえ! ――【若焔大帝】!」



 叫び、コマは右腕を振るった。

【若焔大帝】。焔ノ狐神が授けたという御業。

 青火が爆ぜ燃え盛り、一つの形を取った。狐の尻尾を模したような形を――。

 それが回るように踊りながら獣へ疾駆した。炎は空で別れ匂玉のような形を取り、それぞれが跳ねるように獣に襲い掛かる。


「――この程度か」


 腰砕けになりながらも、繰り広げられる光景に必死で目を向ける木洩日の耳に、コマの苦々しい呟きが小さく聞こえてきた。

 五体のうち三体が青火に焼かれ身悶えしている。しかし残りの二体は、青火に焼かれながらも悶えるようにジグザグに疾駆しコマへ襲い掛からんと鬼気迫っていた。

 大きく体を広げるコマの後ろで。

 木洩日は見てしまった。

 迫る二体の獣の、そのぎらめく赤褐色の瞳を。

 恐ろしい情念が宿っていた。しかしそれは、妖魔が持つと想像されるような理外の不気味などではなく、生きとし生けるモノが持つ、生々しい執着を持って何者かを迫害せんとする現実の情念、心底の恐怖であった。



 そのあまりにも生々しい情念。

 それに触れ、触発され、魂の底に沈んでいた記憶が湧き上がり蘇る。

 傷口から血が噴き出すようにどうしようもなく、痛みを伴って――。



 獣はもはや、コマの目前まで迫っていた。

 しかしコマは僅かも表情を荒げない。


「警告はした」


 棘状の牙を剥き、全身をバネにし最後の間を一足で飛び襲い掛かってきた獣に、コマは左右の手それぞれで掌底を繰り出し迎え撃った。――それは冷静な動作でありながら獣の疾駆以上に速い、恐ろしい速度を持った打突だった。

 掌底は獣の胴体を正確に穿った。


「――若火焔火」


 コマが唱えると、手の平から青火が迸った。

 それは木洩日のときのように獣を守らなかった。青火はただ獣の身を焦がし、断末魔すら上げさせぬまま獣を焼き殺した。

 残りの三体も、青火に身を焼かれたまま遮二無二に走り森の奥へと消えた。

 暗がりに再び静寂が戻った。

 コマは浅く吐息を吐き、何かを呟きながら右手を強く握った。途端に、辺りの青火が全て消えた。


「――木洩日、もう大丈夫だ。さあ、少し休憩を……木洩日?」


 振り向いたコマの先にあったのは。

 蹲り頭を抱え震えている木洩日の姿だった。

 朦朧とした様子で、地に視線を落としている。


「木洩日ッ! どうしたんだい、どこか怪我でも――!」


 素早く跪き木洩日の肩に手をかけるコマの声は。

 木洩日には届いていなかった。


「…………やめて。やめて。どうして……どうしてそんなことするの……」

「…………!」


 うなされたように呟く木洩日の様子に、コマはハッと表情を強張らせ身を固くした。


「やめて……私なんにもしてないのに……」

「木洩日……」


 コマは僅かの間険しい表情で木洩日を見つめると、身を起こし若草をかき集め、急ぎ木洩日の前に青火を灯した。





 記憶と共に、木洩日の身に心に蘇った感覚があった。

 身を、心を凍てつかせる『寒い』という感覚と心情である。


 

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