夜の森と焔ノ神 ~2~

 木洩日はコマに縋りついていた。

 あの恐ろしい鼓動はもはや世界を揺るがす騒がしさとなり、それは魑魅魍魎の呼び声が如き恐ろしさを持った太鼓囃子であった。

 見渡す限りどこまでも続く平原に、ぽつんと二人きり置かれていること。木洩日はそれが恐ろしくて堪らなかった。居てはいけない場所に迷い込んだような錯覚に襲われていた。


「コ、コマ……」

「大丈夫」


 コマは真っ直ぐに前を睨みながらに答えた。

 空の輝きの藍色がいつまでもあれと木洩日は願った。しかし心の底では覚悟していた通り、やがて段々と空は明度を落とし輝きを失っていった。

 そして――。


「あ……」


 木洩日は、月が綺麗だと思ったことは幾度もあった。

 このニライでも、その美しさに目を奪われることがあった。おそらくカナイの夜空を見上げたときもそれに感動していただろう。


 ――月が恐ろしいと感じたことは初めてのことであった。


 人が忘れ去った、夜の恐怖である。空の端で煌々と輝く銀色の恐怖。その鏡は夜の帳を否応なく大地に立ちそれを見る者に告げる。


(こんな寒々しいものだったんだ)


 魅入られたように開けた瞳で月を見上げる木洩日の心には、絶対的な恐怖を目の当たりにした空白だけがあった。――大地の鼓動がいつの間にか消え失せていることにも気付かない。

 そして。

 大きな地響きが訪れた。

 最後の平穏を見せる平原全てが揺れる。

 そこにぽつんと立つ二人を畏怖に飲み込まんと猛るように、大地は揺れる――。


「コ、コマ、コマっ!」

「決して離れるな! しっかり私を掴んでおいで!」

「――――」


【広大な森の平原】。

 かの場所は、ついに夜の姿を見せんと唸りを上げた。



 轟くような振動と共に、木の根のような太い蔦が幾本も幾本も地からせり出し、空に身をうねらせた。

 それらが互いに絡み合い、絡み合い、見る間に樹木の形を形成してゆく。

 騒めきと共に葉を伸ばす樹木の群れ。空を覆うように、どこまでも、どこまでも。


 ――ものの数十秒の出来事だった。


 もはや平原の姿は完全に消え失せ、そこには妖魔潜む原初を思わせる、深い深い暗がりの森がどこまでも広がっていた。

 草原の名残である若草さえ、別種の存在に変わり果てたように夜の恐怖に染まっている。あの平和な平原で揺れていた若草であることには変わりないというのに――。

 喉で音を発しているような鳥の鳴き声だけが、畏怖に打ちひしがれる恐怖の心を僅かばかりに慰める、森に在るただ一つの温度であった。



「……………………」


 木洩日は目を見開き、震えへたり込んでしまった。

 暗がりの森に見下ろされている。暗がりの森に見下ろされている。

 それしか今ある事実を認識できない。

 己をこの場所に閉ざす樹木の群れが、こちらをじっと覗き込んでいるような気がしてならない。コマが言っていたことが肌で理解できた。こちらを見つめる樹木の意思が、他の全てにも伝わっているように思える。

 樹木に意思在りと否応なく信じさせられる、それほどまでに森の木々の存在は確かであった。


「き、木が……」


 何でもいいから何かを言葉にし気を落ち着けようと、震える声で木洩日は言葉を吐き出した。


「木が、こんなにも恐ろしい存在感を持ってるなんて……こんなにたくさんの、い、威圧感を持ってる木が、あるなんて……知らなかったな私……」


 パニックに掻き乱された思考はどうしようもなく荒ぶるばかりで、口に出した言葉は己に響かずただ宙に霧散するようであった。

 茫然自失となった木洩日の肩に手を回し、コマは屈み木洩日と視線を合わせ、手のひらを上向きにして差し出した。


「『若火焔火じゃっかほむらび』」


 そう呟くと、手のひらにあの青火が灯った。

 木洩日の瞳の前でそれを躍らせる。


「さあ木洩日、今私が口にしたこの炎の本当の名前を、心にしっかり思い浮かべて口にしてごらん? その名はずっとは覚えていられないけれど、森に在る間程度であれば、その名が強く君の心を守ってくれる。火の神様が君に勇気を与えてくれるよ」

「……え、と」

「恐れないで。大丈夫、さあ……」


 木洩日は恐る恐る青火に手を伸ばし。


「……じゃ、じゃっか。ほむらび……」


 名を口にして青火に触れた。

 途端に青火は煌々と一層明るく燃え上がり、うねるように爆ぜると、複雑な編み方が幾何学模様のように美しい細糸の形をとった。

 それは木洩日の手を伝い、その手首に巻き付いた。


「――――熱いっ!」


 青火は普通の炎と変わらぬ熱でもって木洩日の身を焼いた。その痛みに悲鳴を上げた木洩日だったが、――その一瞬後には、灼熱は嘘のように消え失せていた。

 代わりに、左手首に不思議な模様の青い光が浮かんでいた。

 息を弾ませながらそれを高く掲げ見つめる。そうするうち、自身の心に、あの身を焼いた灼熱のような強い情念が宿っていることに気付いた。


(コマ、これ……)


 驚きコマのほうを窺った木洩日だったが。

 そこには、青火の文様以上に驚きである光景があった。


(え――――)


 

 樹木が天覆う暗がりの森さえも、そこにはなかった。




 木洩日は、金色の薄が生い茂る大地に立っていた。




 一面、薄野の地。夕暮れの優しい茜が揺れる金色を美しく輝かせている。


(いったい――)


 驚愕し目を見開きながら、木洩日は己の正気を疑った。

 目の前の景色は夢の中にいるように上手く認識できない。景色が靄がかっているのではなく、認識力が極端に落ちているかのように、どこか曖昧。

 木洩日は焦燥のままに立ち上がろうとしたが、しかしバランスを崩し尻からへたり込んでしまった。

 体も、夢の中のように上手く動かせない。


(――――落ち着いて、落ち着いて!)


 祈るように両手をぎゅっと握り合わせ、焦りばかりが先行して蒼白に染まりそうになる頭を必死で落ち着かせようと幾度も呼吸を繰り返す。


(落ち着いて――)


 繰り返す呼吸が、やがて穏やかなものへと変わる。

 冷静を自身に言い聞かせる内、なんとか一応の落ち着きを取り戻した――そのとき。


「落ち着いたかの?」


 どこからか声が降ってきた。

 飛び上がるように体ごと震える。

 木洩日はようやっと、隣に何者かが在ることに気付いた。

 見ればそこには、ふさふさの尻尾を幾本も生やした、紅白色の着物に身を包んだ美しい女性が立っていた。薄と同じ金色の長髪を風に揺らしている。


「――――……」

「お前が木洩日とやらか」


 驚き言葉を失った木洩日に、女性は青き両眼を向け静かに語りかけてきた。

 木洩日は頷き、肯定を言葉にして返そうとしたが、その喉から音は出なかった。声帯が失われたかのようにまるで音が出ない。精神的な理由ではなく、肉体機能が失われているかのように――。


「そうか。めんこい成り形よの。良い子供じゃ」


 女性は木洩日が言葉を返さなかったことなど気にせず、微笑み頷いた。


「子供、お前はここでは喋ることはできん。ここはお前が覗く私の内面世界のようなものじゃなからな……。まあ、私の独り言でも聞いていけ」


 クツクツと口に手を当て上品に笑うと、女性は薄野の先、はるか果てに視線を向け、独り語り始めた。

 全てが夢のような曖昧の中で、唯一彼女の声だけが鮮明に意識へ響く。


「あの若者はなかなかに義理堅く真っ直ぐな男でのう。――そう、お前がコマと呼ぶあの若者じゃよ。知っとるか? 神は己を頼り祈った者を決して忘れん。それが唯一であるたった一人であれば尚更……。

 あの若者は方々の神に頭を下げ、力を借りんと働いた。訳を聞けば、己に強く強くお百度も祈った一人の少女を助けるためじゃと。

 ある柱は笑い、ある柱はその意思に寄り添い力を貸し、ある柱は……。


 お前の身を焼いたあの青き炎は私が貸した力よ。私の名はほむら狐神きつねがみ。貸した力は『若火焔火』、守りの青火。そして【若焔大帝じゃくえんたいてい】という一つの御業を授けた。

 私はのう、これでもなかなかに大した神なんじゃよ。嘘じゃあないとも。だが狐の在り方を持つ神の間じゃあ外れ者でのう、どうにも含みばかりで無駄に矜持多く持ち合わせる他の狐神とはそりが合わんのよ。はは、狐神であの若者に力を貸したのは私だけじゃったな。


 あの若者が選んだのは辛き修羅の道よ。神の中には、お前を想うその真心に付け入るように、とんでもない条件を出した柱もあった。……そのほとんどを、あの若者は飲んだ。

 ――早うあの若者の真名を思い出してやれ。力取り戻さねば、貸した力も十全には使えん。お前を想うあの若者に、辛い定めを見せることになるぞ……。――それに、お前に忘れられているということそれ自体が、あの者にとっての辛きことでもあるのだからのぅ。


 さあ、時間じゃ。お前はまた、あの若者との二人旅に戻る。――なあ、お前」



「お前が、あの若者を救ってやれ」

「――この言葉、忘れるでないぞ」



 木洩日が頷く間もなく。

 薄野にザッと風が流れたかと思うと、――その景色は一瞬のうちに消え失せた。


 気付けば、目の前にはコマの顔。

 そして辺りは、樹木で覆われた闇の森。

 茫然となって、手首に刻まれた青き文様を見やる。青火の光は鼓動しているかのように強く輝いている。


「――木洩日、大丈夫か?」

「……え? ……う、うん、大丈夫。…………」


 狐に化かされたような。

 そのまま、そんな茫然だけが木洩日の内にあった。

 夢の如くに唐突であり、また夢から覚めるような突然で消え去った不可思議。しかし今しがた見た突然が、ただの幻ではないことは察することができた。

 木洩日は動転する心に急かされ、焦り今見た光景をコマに伝えようと口を開いた。

 しかし――。


「とても熱くて、驚いただけ」


 木洩日の口から出たのは、そんな誤魔化しであった。

 口をついて出たそれに木洩日は驚いたが、狐に化かされた気分のまま――なぜだか急にあの光景のことはコマには話さないほうがよい気がして、それ以上言葉を重ねずに口を噤んだ。


(――焔ノ狐神様が、私にそう思わせになったのかも……)


 その不明を恐れるよりまず、そんな感慨が胸の内より湧き出た。

 誤魔化しが口をついて出たそのとき、かの神が未だ自身の隣に寄り添い、こそりと耳打ちしてきたような心持ちを抱いたのだ。

 もう一度、手首の青を見つめる。

 それは優しくも強く、木洩日の胸の内を温める。

 この灯には心に炎を灯す効力のみあることが、不思議な理解で解することができた。


(この炎が、私を気の狂いから守ってくれるんだ)


 青き炎巻かれた左腕を、ぎゅっと強く握った。

 それに宿った熱が、あの光景がただの夢幻ではなかったことを確信させた。

 焔ノ狐神。

 鮮明に届いたあの声の響きが、未だ意識の端に残っていた。目を瞑れば、はっきりと彼女の語りを思い返せる。


(優しい声だった。聞いていて、安心の訪れる声だった……)


 そして、左手に込められた炎熱えんねつの温度。

 焔ノ狐神が木洩日へ向けた善意の証明としては十分な証左であった。


(私の、私たちの背を押してくれる誰かがいる。……勇気が湧いてくる)

(――あの神様の厚意に応えたい。そうある自分でありたい……)


 守護の炎熱に守られた心の底から湧き上がってくる強い意思をそっと胸に抱き、木洩日は前を向いた。


「……コマ、行こう」

「本当に大丈夫かい……?」

「うん、大丈夫。平気」

「そうか。――では、行こう」


 立ち上がったそのとき、どこかから獣の遠吠えが聞こえてきた。

 まるで咆哮のような絶叫。どうしようもない害意を孕む災厄の叫び。


 木洩日は竦みあがり言い知れぬ恐怖を覚えたが、しかし先程まであった頭を空白にする神経の痺れはもうどこにもなかった。

 ――コマが木洩日の手を柔らかに、しかししっかりと握ったそのとき、思い返された言葉があった。


『お前が、あの若者を救ってやれ』


 焔ノ狐神のその言葉。それが、頭の中で幾度も反響した。


 

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