【一章最終話】 遥かなるカナイを目指して。

 ――木洩日はもはや、自分が歩いているのかどうかすら分からなくなっていた。

 前に進んでいる、ような気もする。足元の地面は後ろに流れ続けている。しかしそれが錯覚であるような気がしてならない。

 ぐったりと俯き地のみを見つめて、現実であるかどうかも怪しい今を懸命していた。


 微睡みの悪夢を見ているような曖昧。その中、コマの温かさだけが確かだった。

 泉の地を出てから、森の獣には一体として遭遇していない。砂漠の神獣の脅威から逃れるため、皆遠くへ避難しているのだろう。神獣はもう消え去ったとはいえ、この夜の内はここら周辺に彼等が戻ってくることはなさそうだ。


(心に傷が付いているのが分かる。ぐちゃぐちゃに切り刻まれた私の心が、今私の網膜の裏に映っているような気すらする……)

(もう限界みたい……でも、焔ノ狐神様の真心に報いたい……)


 その思いだけが木洩日を突き動かし、彼女を己の両足で地に立たせていた。

 しかし、もはやあと僅かで本当の限界――。

 ――と。

 ふいに、コマが立ち止まった。


「……どうしたの? コマ」


 コマに全身でもたれ掛かるようにして立ち止まりながら、木洩日はか細い声を漏らした。

 コマはしっかりと木洩日の体を支えながら、真っ直ぐに、前方の閉ざされた空へ視線をやっていた。


「――木洩日、見てごらん」


 コマに促され、木洩日も弱弱しく震えながら、顔を上げた。

 ――木洩日の瞳が見開かれた。



 木洩日は神獣との邂逅以来、もうずっとずっと人が持つ精神力の限界ぎりぎりの境を彷徨っていた。

 しかし、その極度の疲労がもたらす恩恵が一つあった。

 それは、時間の感覚が完全に狂ってしまったこと。

 それまでとは違い、今度は正の方向に。

 飛ぶように時間が過ぎていたことに、木洩日は気付かなかったのだ。



 木洩日は、ありきたりにその世界に存在する奇跡を目にしていた。


 いつの間にか明るい藍色に染まっていた空に差す、一筋の光。


 それは視界閉ざされた森の地に在る者にも、僅かな煌めきとしてその存在を伝えた。


 やがて、光は徐々に徐々に地の果てから溢れ出し――。


「木洩日」


 コマは木洩日の肩を抱きながら、静かに、万感の思いを込めて告げた。


「頑張ったね」


 コマの言葉を受けながら、木洩日は希望そのものである光景を目にしていた。

 厚い枝葉の間から線となって降り注ぐ光、――木漏れ日である。


 ドン、ドン――。


 もう遥か遠く昔に聞いたその音が、大地から響き始めた。その鼓動は次第に世界を揺るがす騒がしさとなり、――そして。


 全ての樹木が怒号を上げるように轟き震え、解けるようにして幾本もの蔓となった。

 枝葉はそのままにそれらは宙でうねり、ひと際大きな大地の鼓動と共に――地中へと一斉に姿を消した。


 目の前が開けた。

 そこにあるのは、日の出の光に照らされた広大な草原である。

 一面平坦なその地の果てに、半分だけ顔を出した揺らめく太陽がある。

 それは平原を、木洩日をコマを輝かしく照らし、世界に始まりを告げていた。


 ――風がザッと流れた。平原の若草が歓喜するように揺れる。

 その風は溢れ出した木洩日の涙を一掬いして、宙できらきらと煌めかせた。



 木洩日の涙は途切れなく流れ続けた。

 世界がこんなにも綺麗であることを、木洩日はそのとき、初めて知ったのだ。









 ――ただ黙り、その景色を鮮やかに瞳に映していた木洩日は、やがて底抜けの安堵に包まれ地にへたり込んでしまうだろう。


 二人はその場所で、日が完全に昇るまでの間休息をとり、まだ朝の時間の内に再び前へ進み始めるだろう。


 そして二人は辿り着く。【広大な森の平原】を超えた先、【翡翠瞳ひすいひとみの一族】が住まう【アメメモリの街】へと。


 だが、目指す【最果ての聖域】は。

 遥かなるカナイは、まだまだ遠く先である。


 

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