見開かれた瞳
たった数日に永久を思う。
数日という瞬きの間に過ぎ去る
表情に影を落とし、狛犬の像の上でただ佇み続ける葉弥栄をもし見た者があれば、その者は彼の滅亡を察するだろう。何をするでもなく俯き続ける葉弥栄の姿は、それほどまでに痛ましい抜け殻であった。
失意に沈み、身動ぎもせず佇むその様子。
およそ、神の取る姿ではない。
――あの日、木洩日は一命を取り留めた。しかし意識は戻らない。……葉弥栄は、もはや木洩日は永久に目を覚まさないことを知っていた。肉体から魂が離れる様子を、その目で見ていたから。
唯一己に祈る者を失い、再び光が閉ざされようとしている。しかし葉弥栄にはそれを憂う余裕すらない。
彼自身も、己の破滅をただぼんやりと思っていた。
そして。
――彼は消え去らなかった。
様子が変わったのは、数日経った後だった。
これまでただ一人を除いて誰も踏み踏み入ることのなかったその場所を訪れる者が、一人、二人、また数人と現れ始めたのだ。
最初の一人を目にした葉弥栄の驚きといったら、尋常でないものであったが――すぐにそれは胸を締め付ける、切ない衝動となった。
「ああ、これを一人で……? あの子は……」
木洩日が整えたとはいえ、その者にとっては険しい道のりであっただろう荒れた階段を上ってそこを訪れた老婆は、境内を見渡すと、感心と憐憫が入り混じった声を漏らした。
そして社殿へと赴いた彼女は、腐り果てた賽銭箱に賽銭を投げ込むと、辛いだろうに深々と腰を折り、葉弥栄へ祈った。
「……あの子は私の目を真っ直ぐに見て挨拶してくれる子です。どうか神かむながら守り給い、あの子に幸さきわえ給えるよう……」
口にされたその祈りを聞いて、葉弥栄は理解した。
あの少女と結んだ縁が、他者をも手繰り寄せ、今祝福をもたらしていることを。
木洩日の祈りは、未だ自身に届いていることを。
(…………嗚呼)
胸の内に溢れた情緒は、言葉では言い表せない。
それからも、ぽつりぽつりと葉弥栄の社へ人が来ては、皆一様に木洩日の快気を願った。
住まい近い隣人だという女性。
先日来た老婆の夫だという老人。
木洩日が通う小学校に勤務する教師。
木洩日の助けになることができなかったことを悔やむ心を持った幼子。
あの日木洩日を撥ねてしまった運転手の男は、夜中に葉弥栄の社を訪れ、顔をぐしゃぐしゃに濡らしながらに社殿へ頭を下げた。
「……馬鹿な俺のせいで
大切な祈り子の魂を引き剥がした者。しかし、一人の人の子に対し悪戯に運命の重荷を背負わせることなく、葉弥栄はただその男の苦心を哀れんだ。
――やがて、ある場所で交通事故に遭い重傷を負った幼き少女が、意識を失う間際に示したという見捨てられた神社、その噂を又聞で耳にし、葉弥栄の社へ赴く者が疎まばらに現れ始めた。
その中には、見ず知らずの木洩日のために心から祈る者もあった。
その彼等を見るうち、悲しみを越えて湧き上がる心情のうねりが葉弥栄の内で生まれた。
いつかの過去で思った感慨――しかし縁の糸に自ら触れた今、より色鮮やかにその感慨は胸の内に景色を創る。
瞳に悠久を映しながら――そのどこかに木洩日を見ながら、葉弥栄は胸をつく情に手を添え、静かに、人と云う者に思いを馳せた。
(ああ、愛しき祈り子。
一人の心の深紅が縁の糸となり、また新たな心へ繋がってゆく。
紡ぎ、広がり、誰かの心を呼び覚ます。
嗚呼永劫を結ぶ者らよ。
汝等、あるいはその事情の先に滅びが待とうが、縁の不思議は途切れぬ――。どのような形であっても。
故に愛しき彼等のために、祈らずにはいられなかった私だ)
特別に込められた最後の一節、朽ち果てようとその地で縁の神として在り続けたその答えを思った途端――葉弥栄の瞳は見開かれた。
――葉弥栄ノ×××××神。
他の神々が別の地へ飛び立つ中、彼はあくまでそこに腰を据え、その場に留まることを選んだ。
彼のその選択を不思議に思う柱はいなかった。葉弥栄ノ×××××神には、己と縁のある者の場所へと瞬時に飛び立つ力があることを皆知っていたからだ。いざとなれば飛び立てばいいだけ。……彼の決意に宿った推し量れぬ情念を知らぬ神々は、皆そう思っていた。
そして翼は、四肢と共に捥がれた。
縁の糸を辿る術さえ失い、今なお地から離れられずにいた彼のその神格に、今再び、翼を意味する神力の焔が灯った。
そして、その覚醒した力が真っ先に捉えたものは――。
(――――――――……!?)
もはや在り得ぬと失意し、組んだ手から漏れ落ちたはずの祈り――その先の光を鮮やかに描く、物語の始まり。
(…………木洩日?)
肉体から解離したはずの、木洩日の魂の気配だった。
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