『境界の海』

(どういったことだ……!?)


 全てを引き剥がす暴風のように吹き荒れる混乱の中、必死に感じ取ったそれを見つめようと、葉弥栄は青筋を浮かべ集中を意識した。

 木洩日の姿は、いくら瞳に力込めようと捉えられない。

 ただ魂の気配だけが、計り知れぬ遠方にある。

 計り知れぬ遠方――それは――。


(現世ではない……?)

(――――まさか)

(『境界の海』を漂っているのか!?)


 瞳を見開き、葉弥栄は愕然とした表情を浮かべた。


(そうだとするのなら……――)

(【あるまいてぃ】の神が作り上げた大地――ニライ郷……)


 うつし世。

 儚いものの意で使われることの多い、現世げんせを意味するこの言葉だが、神にとってはまた別の意味を持つ。

 映し世。

 移し世。

 現世うつしよ

 その瞳に映る世界。飛び立ち、うつり降り立つことができる世界。現世げんせである世界。

 神にとってその言葉は、神が認知できる世界の総称の意味合いを持つ。

 今在るその地から見れば、死後の世界のそこも、神から見ればうつし世。

 ニライ郷もそう。今在る世から見れば、そこは死後の世界である。

 魂のみでしか渡れない場所……。


(…………)


 木洩日の魂が手の届かぬ場所に去ることなく、未だうつし世の領域の内にあったことを知ったというのに、葉弥栄の表情は優れなかった。


(……ニライの地に流れ着いてしまえば、木洩日は……無事では済まない)

(良くて獣の姿か……悪ければ……。…………)


 魂のみで他界に流れ着く者、辿り着く頃には、もはや人の姿ならず。

 人の綴った文献にすら記述が見られる、うつし世の理である。

 魂のみで他界に流れ着いた者は、半身、または全身が獣の姿に変わり果てている。あるいは植物の形を取り、魂の存在すら限りなく希薄になることもある。

 とても喜べる事情ではなかった。


(奇跡的に存在全てが十全のまま他界に渡った者の例もある……だがそれを願うことはそれこそ、無謀無策の奇跡を望むようなことだ……)

(『境界の海』には手出しができない……。あそこはのだから。しるしを示すあかしがなければ、概念には干渉できない)

(…………)

(――木洩日)


 葉弥栄は目を瞑り、あの幼子を思った。




『境界の海』に浮かぶ存在とはいえ、無事であった少女。


 ――ニライ。幼子が渡れば、もはやそこには変質した存在があるのみ。


 木洩日が残したもの。


 ――何があろうと居を移さなかった地。そこにあった思い。


 己にとっての幸いであった少女。


 ――衝動に任せ動いたとき、失わなければいけないもの。


 特別な大切。


 ――神としての勤め、在り方。


 助けたいと願っていた。


 ――神の在り方ではない。


 今ならば私は――。


 ――永きに耐えた末の答えが、それでよいと?


 あの子は、真心を持った良い子供だ。


 ――己に向けてくれた真心に酔うのか? おのが神格が泣いている。 


 ――――……いいや。




 ……目を瞑り続け。

 そうしてしばらくの間、狛犬の像の上でただ佇んだまま、悩むふりをしていた。


 そして幾日経ったある日の夕刻。

 その日、景色が茜に染まるひと時にやしろを訪れたのは、木洩日の両親だった。

 何も言わず、ただ黙って社殿に頭を下げた夫婦の祈りを受け、そこに木洩日の色の欠片を見出したそのとき、葉弥栄の心に、人ならば覚悟と呼ぶであろう決心が生まれた。



 ――――……いいや。

 私の神格が、神なる全てを賭けあの子を助けよと、そう言っているのだ。


 

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