【渡し神】のコマと予感の運命 ~2~

「木洩日ッ! ――無事だったか……!」


 少年は心からの安堵を口にすると、控えめな微笑みを浮かべて木洩日の元へと近寄り、その肩に手を当てた。


「よくぞ無事だった。心配したよ」

「――――あ、あの……」


 木洩日は背伸びするように体を硬直させながら少年の顔色をオドオドと窺った。

 少年は木洩日の知る誰でもなかった。


「ええと……あなたは、誰、でしょう……?」


 至近距離にある、よく整った少年の顔立ちを遠慮がちに見つめながら木洩日が問うと、少年は柔らかく微笑んだ。


「私はコマ。【渡し神】のコマだ」

「【渡し神】?」

「そう。ニライとカナイを行き来できる存在。木洩日を探しにここへ来た」

「――あ、あなたは私のことを、知ってる……?」

「そうだ、私は木洩日のことをよく知っているよ。木洩日も私のことを知っているかもしれないね、でも今はそれを思い出すことに時間をかけている余裕はない。――よくお聞き、木洩日」


 白い巻き毛の少年コマは、木洩日の瞳を真っ直ぐに見据え、強い言葉でそれを告げた。



「ニライという場所に流れ着いた君だが、君はまだ死んではいないんだ。君は生きている」



「え……? ――――私、生きてるの!?」


 木洩日の頓狂な大声に、コマはしっかりと頷いた。


「ああそうだ。君は自動車事故に遭って重体を負ってしまったけれど、幸いなことに息を失うには至らなかった。カナイの君は、今は深くに眠っている。木洩日、君はカナイに帰らなくてはいけない」

「――ど、どうやって? あなたが連れて行ってくれるの?」

「その通りだが、しかし私がこちらに来た方法で木洩日を連れて帰ることはできない。海を渡り、ニライの世界へ足を運ぶことができるのは【渡し神】だけだからだ。――君はこの世界の果ての奥地、【最果ての聖域】へと足を運ばねばならない」


 人々がざわめいた。

『ふぁーめい』は無茶を宣告されたように息を飲み、長はただ静かにコマの言葉を胸の内に収めた。


「過酷な旅路になる。私が共に行こう、どんなときでも木洩日の傍にいる。必ず木洩日をカナイの世界に帰してあげる」

「…………」


 木洩日の両手を取り握るコマの手は優しく温かかったが、しかし木洩日は、彼が発した突然の宣告と同じく、その親身の温度の唐突にも戸惑うほかなかった。

【渡し神】のコマ。

 自身を探しに来たという、見知らぬ誰か。その事情に対する困惑が収まらぬまま、顔を合わせてものの僅かで告げられた、事態の急変。木洩日は何をも飲み込めずにいた。

 木洩日はどうしていいのか分からず、縋るように『ふぁーめい』のほうへと視線を向けた。

『ふぁーめい』はコマに向かい両手を組み一礼すると、その少年を真っ直ぐに見据えて声を上げた。


「……【渡し神様】、ご無礼にもあなた様にお尋ねする不服をお許しください」

「うん。なんだろう?」

「木洩日がカナイの世界に帰るにあたり、【最果ての聖域】へ赴くより別の方策はないものでしょうか? ――あまりに過酷が過ぎるように思えます。他の方策を授かることができるのなら、是非とも――」


 ――『ふぁーめい』の尋ね事を聞きながら。

 木洩日はふと、酷く心身を震わせる妙な予感が我が身を這ってくることに気付いた。

 神経を痺れさせる寒々しい予感が、足元からひたひたと這い上がってくる。


 ……より正確に言うのなら。

 それは、が、足音を立てず木洩日の影に近づいてくる感覚だった。


(……あれ?)

(どうして、私、また足が竦んで……)


 木洩日の両足は、再び地に根が生えたように重くなり、そして震えていた。

 その理由が、木洩日にはまだ、理解できない。


 ――『ふぁーめい』の問い掛けに、【渡し神】の少年はきっぱりと首を横に振った。


「――残念ながら、他に取れる方策はない。木洩日がカナイの世界へ帰るには、それより他ないのだ。大丈夫、私が付いてゆく」

「…………失礼致しました。不服へのご返答、深く感謝致します」



(――――――――…………)




 




 ……僅かな静寂の時間が、永遠のように感じられた。

 奇妙な呼吸が口から漏れる。

 ここへ足を踏み入れるとき、どうしてあんなにも尻込みしたのか。

 その理由の真実を、木洩日は悟った。


 木洩日は、今目の前で起こった事態をその瞳に映した途端、天啓を受けたような衝撃に襲われた。

 それを目にした途端、霧が晴れたような心持ちになった。

 晴れた景色のその先には、ぽっかりと空いた暗がりの穴だけがあった。

 木洩日の戸惑いは消え失せていた。――大いなる恐れを伴って。


 瞳に映した光景。

 厳粛に頭を下げる、『ふぁーめい』の姿。


『ふぁーめい』。

 ニライへ流れ着き、戸惑いと悲しみ以外何も分からずにいた木洩日に、心からの親愛を注いでくれた女性。

 彼女はいつでも、まるで手を繋いでくれるかのような温かを向けてくれた。手を繋ぎ、木洩日を悲しみから守るように抱き締めてくれた。

 しかし、礼欠くことない誠実をもって頭を下げ、【渡し神】の彼から静かに引き下がる彼女の姿を見て。

 二人繋いだその手が別たれる情景が、心の中で鮮明に浮かび上がった。


(――――嗚呼……)


 ここへ足を踏み入れるとき、どうしてあんなにも尻込みしたのか。

 その理由の真実に、ようやく辿り着いた。……辿り着いてしまった。

 木洩日は茫然と理解した。


(そうか……そうなんだ……)


 今の一連のやりとりを見て。

 もはや自分はこの村を離れ、『ふぁーめい』らと離れ、たった一人となりそこを目指す他ないことを悟った。

 告げられた宣告を真実として真摯に重く受け止める『ふぁーめい』の姿勢が引き金となって、自身の嘘に気付いたから。


 それは唐突な理解ではなかった。……本当は知っていたから。

 そんな日が来ることを、どこかでずっと予感していた。

 だから本当は、心はとうに理解していた。

 今この時が、なのだと。

 事態を何も飲み込めていないというのは嘘ではなかった。――飲み込みたくなかったというだけで。

 恐れて、表層意識で戸惑っているふりをしていただけ。そのことに気付いてしまった……。



「――大丈夫、木洩日。私が共に在るから」


 茫然と佇む木洩日の手をもう一度取り、燃えるような真情の光を瞳に宿してコマは力強く言ったが、木洩日は弱弱しい「うん」という返事しか返せなかった。

 ――今日はこれ以上言っても信用を得られない。それを悟ったのか、コマは優しく言った。


「……今日は、君を迎え入れてくれた温かな人たちの元へお帰り。明後日の早朝にここを出発しよう。……君に、その気があるのならば、だが」


 最後は木洩日を憂うように言うと、コマは木洩日の両手から手放し、『ふぁーめい』の元へ向かうと合掌して姿勢良く一礼した。


「木洩日を快くその懐に迎え入れ、心よりの温かな情を向けてくださったこと、感謝申し上げる。あと僅かな間、どうか木洩日の心の支えに」


『ふぁーめい』はただ無言で厳かに深く腰を折り、それに応えた。


「さあ帰ろう木洩日。おいで」


『ふぁーめい』は茫然と立ち尽くす木洩日の手を柔らかに握り、その手を引いた。

 入り口の布が長の住処を覆い隠すその間際に一度だけコマのほうを振り向いてみれば、彼は変わらぬ澄んだ瞳で、木洩日に不思議な温度が籠った視線を向けていた。

 木洩日は、木洩日が弱々しい返事を返したとき一瞬だけ浮かべた彼の寂し気な表情を思い返していた。


 

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