名 ~1~
暗がりの森も、恐ろしい神獣も、倒れ伏すコマの姿も、気付けばどこにもなかった。
涙に濡れた顔を上げれば、そこに広がっていたのは金の薄野原。
「――まあったく、しょうもない……」
風に揺れる金色の地に在るのは木洩日ともう一人――一柱だけ。ふさふさの尻尾を揺らし、薄と同じ金色の髪を風に靡かせる美しい女性が木洩日の隣に立っている。
焔ノ狐神は、手で顔を覆い呆れ果てた表情を浮かべていた。
「情けなや……まったくもって若すぎる。神格を有したばかりの青二才というわけではなかろうに……己の神格が咽び泣いているぞ」
焔ノ狐神はため息をつき、そして今気付いたかのように木洩日に視線をやった。
「修羅場よの。まあ、ひと時ではあるがゆっくりしていけ」
「…………あの、焔ノ狐神様……? これは……?」
木洩日は戸惑いながら辺り一面を見渡した。
どこまでも薄野原が続いており、そこに木洩日を脅かす脅威は何一つとしてない。
焔ノ狐神は小さな微笑みを浮かべて軽く肩を竦めた。
「お前の左手首に刻まれた守護の、最後の力だ。まあ過ぎた助力な気もするが、お前は良い子供であるし、これくらいはいいであろう。ここは、お前に私の守護が宿ったとき見た内面世界のようなものより遥かに私の意思に密接した……まあ精神世界のようなものと思っておけ。前者と大差ない、だがここでならお前は喋れるし、自由に思考することもできる。そのようなところじゃ」
「――あ、ありがとうございます、焔ノ狐神様」
「うむ、一番に感謝。やはり良い子供じゃの」
焔ノ狐神はにっぱりとした笑みを向けてくれた。
木洩日は恐る恐る立ち上がろうとしたが、腹から下の感覚が無くなってしまったかのように腰が抜けていて、身動きすら満足に取れなかった。
「無理するな。動けるようになるまでゆっくりすればよろしい」
「は、はい……」
木洩日は、せめてできる限り姿勢を正して焔ノ狐神の顔を窺った。
木洩日から視線を外し茜の空を見上げている焔ノ狐神は、再び色濃い呆れを表情に浮かべていた。
――焔ノ狐神の告げ事が思い返される。
『お前が、あの若者を救ってやれ』
『――この言葉、忘れるでないぞ』
「……私、何もできませんでした」
木洩日は泣き出しそうになりながら、焔ノ狐神にまで申し訳ない気持ちを覚えて、それを口にした。
焔ノ狐神は苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「それ以上言ってやるな、あの若者が哀れでならん。あの状況はな、あの若者の呆れ果てるような失態が招いた絶体絶命じゃ。お前が自分を責めるほど、あの若者がどうしようもなく哀れになる。やめてやれ」
「ど、どういう意味でしょう……?」
「あやつは神の大半が失望するようなことをしたのよ」
ふうと細く息を吐き出し、焔ノ狐神は眉をハの字に下げた。
「なあお前。お前はともかく、あの若者が【銀灰の砂漠】の【半月獣】がそこに在ることに気付かなかったと思うか?」
「え? じゃ、じゃあコマは、【半月獣】っていうあの……大きな怪物に気付いていたの……? じゃあ、どうして……」
「意識の底では気付いていたという話じゃ。無意識でそれから目を逸らしていた。木洩日、お前をあまりに大切に想うあまりにな」
「私、を……?」
「神の神格とは、人の理性のようなものじゃ。あの若者はそれを欠いた」
焔ノ狐神も木洩日の隣に腰を降ろした。
頬に手を添え肘で支えながら、焔ノ狐神は白けた色を瞳に浮かべて大きく嘆息した。
「神はなあ、人の子が欲しくて堪らないのよ。己に祈る人の子がな。その者が宿す魂が無垢であるのなら尚更……。だがな、それを堪え神としての神格を恥ずるところなく示すことこそ神の理性よ。お前たち人間は、理性を欠いた者を見ればどう思う? ――神も同じよ」
「――コ、コマは、一生懸命に私の進む道を示してくれて、私はすごく助けられて――!」
「お前をイジメていたという女児に対して、尋常ならざる恨みの念を表に出していただろう」
「……ぅ……」
「それも呆れた欠如。神にとって、信者とは本当に可愛いものじゃ。純な信者は本当に愛おしく思えるもの。心の底から祈る者が減ったカナイの地の昨今では、特にな。まあつまり己の信者を害する者には、皆多かれ少なかれ憎悪の念を持っているという話じゃ。しかしそれはそれ、神であるのなら神格は十全に示さねばならん。――神格には二つの意味がある。分かるか?」
「……わ、分かりません」
「つまり神であるコトそれそのもの、神の力を指す神格。そして態度として皆に示す、その者の意思を指す神格、その二つ。恨みに思えど、思うだけで抱かず、もちろん表すこともない。分かるか? ……少し難しいか。まあつまりそういうことじゃ」
「どういうことでしょう……?」
「あの若者はな、弱ったお前の姿に耐えかね、楽なほうへと進むように、無意識で【半月獣】の存在を意識から消したのよ。愛しいこの子が少しでも休まるなら……強烈な誘惑。――結果、絶体絶命の修羅場を呼び込んだ」
「…………コマ」
「まあ気持ちは分からんでもないがな。もし迷える愛しい祈り子の前へ顕現することができたのなら、私とてだいぶに張り切るだろうしのぅ。甘やかし尽くすじゃろうな、恐らく。それにあの若者には神格のほとんどを失っているという事情もあるしの」
「――神格の、ほとんどを?」
木洩日は素早く問うた。
冷や汗が噴き出すような悪寒を覚える、聞き捨てならない重要。
「それって――それって、どうして……!?」
「お前が今想像している通りの訳じゃよ。方々の神に力を借りる際、いくつかの柱に対価として己が神格を捧げたのじゃ。その影響であの若者は今、気が短くなっているのかもしれん。それに単純な力もだいぶに失ってしまって、今の状態では借り受けた力も満足に使うことができんしの」
「…………」
今の状態では。
木洩日は今、焔ノ狐神が作ってくれたこの空間、時間で何をすればよいのかを理解した。
焔ノ狐神はその青の眼で木洩日を見据え、柔らかな微笑みを浮かべた。
「さ、理解したのならさっさと考えることじゃな。時間なら僅かばかり稼げる。――言っておくが、こんな裏技はこれで最後じゃぞ? それに私の守護はもう解けた、あちらの世界に戻ったときお前の心を守るものは、もはや己が信念のみじゃ。あとは自分で頑張りなさい」
「――でも、でも焔ノ狐神様、私どうしても思い出せないんです! コマがいた神社の名前、その取っ掛かりすら少しも掴めない!」
木洩日は泣き出しそうな顔で叫んだ。
本当は、心の底ではもうとうに気付いていた。
自分は、コマの名を思い出せないことに。
その他のことは鮮明に思い出せた。だがコマの、あの神社の名を思い出そうとした途端に、断崖絶壁の先の空白を見たような気持ちになる。結局他の記憶が蘇るばかりで、それらを思い出しても肝心要の記憶が鮮明になることは少しもなかった。
それに近づいているのに、それはどこにもない。
本当は、心では理解していた。……そのことに。
(私は……)
(私はきっと、あの神社の名前を知らなかったんだ……)
そんな確信に似た予感に、ずっと気付かないふりをしていた。
「せっかく貰ったこの時間も……きっと私の中に答えはない……」
「――仕方ないのぉ」
焔ノ狐神は大げさに肩を竦めて、眉を下げた苦笑を浮かべた。
「そこまで干渉するのは本当に反則なんじゃが、まあここまで関わったわけだしの……。少し手助けしてやるか」
「手助け……。あ、ありがとう、ございます……。でも私は本当に、コマの名前を知っていたのでしょうか……?」
「お前は近すぎて見えんのよ。求めるものがあまりに近くにありすぎると、人は逆にそれを見失うものじゃ。あーそれと……ああもういいか。言ってしまうか」
焔ノ狐神は面倒くさそうな表情を浮かべ、投げやりな言い方をした。
そして、その神は信じられないことを口にした。
「今や、あの若者に名などないのよ。それすら他の神に献上してしまったから」
「…………え?」
木洩日はその言葉を聞いた途端、眩暈で倒れそうになった。
名を。
名。
それを他の神に献上した。
それ以上に大切なものなど……彼は自分のためにそこまでのことをした、その事実が受け止めきれなくて、ふらりとよろめいた。
しかし焔ノ狐神は口調を深刻に変えることなく軽い調子で言った。
「それをお前が気に病む必要はあまりないぞ。いやなに、あの若者にとって己の名とは、もはやあまり執着のないものであったという事情があったからの」
「え……? じ、自分の名前なのに……?」
「神の名は、その名を崇められ尊ばれることで初めて意味を持つ。だがあの若者が在る場で祈った人間は誰か? お前以外にあったか?」
「あ……」
いなかった。
そこは忘れられた地であった。
「だから、あの若者の名にはもはや、あまり意味が込められていなかった。人間風に言えば、価値がなかった、か。だからの、お前があの若者に向かって名を告げれば、そのままそれがあの若者の名になる。もちろん適当な名では駄目だがの。祈り深く籠った名でないとそれは意味を為さない。まあつまり、何にしてもあの者が座っていた社の名を思い出さないことにはの、何も始まらん」
「神社の名前。……でも」
「お前は近すぎて見えていない。あの若者は何を司る?」
「――縁。縁です」
「そう。縁とは繋がり。深くも浅くも不可思議な縁、お前はあの若者と確かに繋がりがあった。――縁はの、その者が大切とする何かが切っ掛けとなり繋がることが多い。……私が言えるのはここまでかの」
「大切な……なにか……」
(私の、大切なもの……)
家族。それが真っ先に思い浮かぶ。
次いで、出会った人たち。出会いの幸い。
今こうして生きていること、此処に存在しているという感謝も、大切なものの連想として自然に浮かんできた。
そして――。
『その日木洩日は、『自分の名前が嫌いだ』と泣きながらに私に語った』
『その数日後木洩日は、自分の名が嫌いだと口にしてしまったことをとても後悔していることを私に打ち明けた。信頼する親御から貰った名を嫌うことが、とても嫌に感じたこと――』
それは自身にとってあまりにも大きすぎて、当たり前すぎて、気付かずにいた道標。
この世に存在を置いたその時から抱いていた大切。
「名前……」
両親から貰った、その者を表す音。存在の輪郭を確かにする証明。
木洩日という名。
そして彼女が持つ証明は、その音の他にもう一つある。
『お前は近すぎて見えんのよ。求めるものがあまりに近くにありすぎると、人は逆にそれを見失うものじゃ――』
あまりに近すぎたからこそ、気付けなかったこと。
己の影に覆われ隠されていた答え。
それに思い至った途端。
カナイの記憶、始まりの情景が心の瞳に映し出された。
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