ニライ、カナイ。~1~

 霞みがかった瞼の裏側の景色に、海の靄を見ていた。

 それは海面を揺蕩たゆたいながら、次第に実像を結んでゆく。

 靄が渦巻くように揺れる。そしてようやく景色は焦点を結び、靄は実在をあらわした。



 少女は自分が薄目を開いていることに、なかなか気付けないでいた。ぼんやりと霞んだ景色を虚ろに眺める時がどれほど続いたか――。

 しかしついに少女は、自身が何かしらの景色をその瞳に映していることに気付いた。


「…………?」


 天井、だろうか? 木材入り組み、その上に布の張られた天井。……見慣れぬ天井であった。


「……あ、え。…………」


 僅かに漏れた声は萎れるように気力が籠らず、身体の重体を自覚するに十分な証拠であった。手を握ろうにも力が入らない。目とその周囲にしか気力が回らず、どうあってもしばらくは動けそうにないと思えた。

 ――しかし。



「えんてぃふぁ? ――えんてぃふぁ? えるけるん?」



 耳に届いた、不思議な言葉。

 それが何者かが発した声だということにも気付かず、霞みがかった意識のまま、その声の元へ眼球だけを動かし、そちらを窺ってみれば――。

 瞬間、胸倉を掴まれたかのような衝撃をもって、心根の底から、底知れぬ恐怖の衝動が溢れ出した。


「――――あぁあああああッ!」


 倒れ伏す自身を見下ろす『その顔』を見た途端、まともな音を発することのできなかったはずの口から、気力萎えた者が発したとは思えぬ尋常ならざる絶叫が迸った。

 電撃が走ったかのようにビクリと体を跳ね上げ、己の身の重体も忘れ遮二無二に飛び起きる。


「――あ。え、えぇ……?」


 少女の見た目、成り形。

 両脇は首、後ろは肩の下まで伸ばした、僅かに赤茶がかった明るい黒髪。

 ぱちりとした瞳に、可愛らしい鼻、形の良い口元。

 歳は十代の半ばには届かない年齢だろうか? 幼さありあり残る顔つきであり、背も高くない。

 総合すれば、愛らしいが、どこにでもいるような容姿であった。

 しかし、その少女を取り囲む人々の容姿といったら――。


「え、え…………」


 少女が心底に怯えるのも無理ないことだった。彼等は人知を超えた成り形をしていた。


 彼等は、頭が三角形であった。


 三角形っぽい丸、ではない。その頭の輪郭は、はっきりと縦に長い三角形を描いていた。その三角を、中央に大きな一眼の瞳が描かれた布ですっぽり覆い隠している

 体格の違いはあれど、皆一様にその姿だ。


「えんてぃふぁ? えあ、えるけるん?」


 ――再び、最初に目にした彼が、老いた声で少女に声をかけた。


「――――う。あ。」


 しかし少女は怯えきり声を失っている。縮こまり、かけられていた不思議な手触りの毛布をきつく握りしめている。

 老人が、やけに角ばった長い腕を少女の肩に伸ばそうとした。


「――いやッ!」


 少女は老人の手を手ひどく跳ね飛ばした。

 途端に、周りで怒号混じる騒めきが起こった。――しかし老人は静かに周囲を手で制し、臆することなく再び少女に手を伸ばした。

 震えて縮こまる少女の肩にそのゴツゴツの手を置くと。


「――えるけるむ」


 一つ、力強くそれだけ言った。

 老人の手の温度に、少女の緊張が多少和らいだのが分かった。ほっと息をつく周囲の一同。

 老人は、模様の瞳で少女を真っ直ぐに見据えながら言葉を投げかけた。


「えるけるんふぁ。――えんてぃふぁ? おいめ あむるそし? ういめい あめらのあ……」

「…………あのぅ」


 少女はか細い声で、俯きがちにおずおずと返事を返した。


「あのぅ、その、……言葉が分からなくて。何語、だろう……? あのう、通じませんよね……?」

「――――これは驚いた」


 模様の瞳しか見えぬが、老人の目が見開かれたのが少女には分かった。言葉が通じたことに驚き、少女もまた目を見開いて老人を見つめた。

 肩を掴む老人の手に、僅かな力が込められた。


「驚いた、驚いた。――あんた、【カナイ】の人かい?」


 老人の言葉に、ドッと周囲が湧いた。

 皆近くの人々と顔を合わせ、しきりに何かを喋りながら首を振り、信じがたいという思いを表している。


「招来人」、「招来人」。


 そんな言葉が囁きの合間に幾度か聞こえてきた。

 少女はそんな彼等を見回し、老人に視線を戻すと恐る恐るに尋ねた。


「あの、カナイって?」

「カナイ、あんたのいた場所だよ。あんたにとっての生存領域じゃ」

「生存……? ……あの、じゃあ、ここは? ここはどこ?」

「ここは【ニライ】。我々の生存領域。我々にとっての……」

「生存……」

「……気の毒じゃが」


 布で覆われているというのに。

 少女には老人が、自分に向かって哀れみの表情を向けていることがはっきりと分かった。


「気の毒じゃが、あんたはあちらの世界で、死んでしまったんだよ。ここはあんたにとっての、――死後の世界じゃ」

「――――え?」


 周りを見渡してみれば。

 皆一様に少女を見つめ、哀れみの視線を送っていた。


「え……?」


 少女は。

 しばらくの間、ぼんやりとただ放心していた。


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