陰謀 ~2~
「静かすぎる……」
コマはきつく眉寄せ呟いた。
「いくらなんでも――」
状況は変わらず、沈黙のように静かであった。
木洩日には分からぬが、どうやら広範囲の周囲に獣の吐息は一つとして存在していないらしい。
過ぎた静かが告げる危険の予兆。
森そのもの、森の獣、そして予測不能の未知。今や暗がりの森には三重の恐怖がある。
それらの緊迫に晒され続け、精神はどうしようもなく苛まれる。神経が恐れ慄くように縮み上がり痛むたびに、焔ノ狐神の守護が恐怖を溶かすように胸の内で燃え上がり、許容を超える慄きを打ち消す。
神経に温かみが行き渡るような感覚をもう何度も繰り返すうち、木洩日は自身が焔となり揺蕩っているような心持ちに憑りつかれていた。
(私の髪の先すら、炎となり燃え揺らめいているよう……)
働きの鈍い思考で、そんなよく分からないことを思った。
(ああ、森が途切れてくれたら。もし、あの泉のように、いやそれ以上に木々の無い開けた場所に出ることができたなら。そうしたら、私はどんなにほっとするだろう)
木洩日はそんなことを強く願っていた。
そしてそれは。
最悪の形で願い叶った。
「――木洩日止まれッ!」
全身の毛を逆立たせるコマの大喝が森の閉ざしに轟いた。
木洩日は心の臓を危うく止めそうになるほど驚き、縮み上がって後ろ向きに倒れた。慌ててコマは木洩日の元へたった二歩を駆け、しゃがみ木洩日の肩を抱いた。
「すまない木洩日、驚かせてしまって。――しかし、これは……!」
「ど、どうしたの?」
「…………」
コマは瞳を見開き、前方を見つめたまま固まっている。
間近で眺めたコマの白い頬。
そこに、幾筋かの冷や汗が伝っていた。
「いったい……どういう……」
「……コマ、あの……」
「……すまない木洩日、少し落ち着かせてくれ」
「―――!」
木洩日は。
この少年の姿の神が、それほどに取り乱す姿は想像もできなかった。
人間離れした神気纏い、尋常ではない存在感を持ちそこに在ったこの少年の神が。己とは比べものにならぬ、遥か高みの理性を持ったその彼が今、冷や汗を流し取り乱している。
信じがたい思いに襲われた。それは思いというより衝動に近く――その衝撃は木洩日に、恐怖を感じさせる余裕すら与えなかった。
「コマ、コマ……い、いったい何が……」
待ってと頼まれたのに、木洩日は堪え切れず尋ねてしまった。
コマは細く小さく息を荒げ、眼前を見つめたまま口に手を当て、しばらくの間思慮を巡らせた。
そして、黙ったまま木洩日の手を引き立ち上がった。
木洩日の手をぎゅっと強く握りながら、流れる汗そのままに無言で足を進め始める。木洩日は戸惑いと、遅れてやってきたまだ鈍い恐怖とをぐるぐると巡らせながらコマの後に続いた。
数分、前進を続けたところで。
木洩日も気付いた。
光が。
先を遮る樹木群、その木々の間に、僅かながらに光が漏れている――。
木洩日の心は高鳴った。
(まさか。そんなまさか――)
光は確かにある。
その目に映っている。暗黒の樹海の中でその光だけが眩しい。
幻ではない。幻ではない。確かにそこにある。
(まさかっ! 森の、終点――!)
木洩日のその希望は。
ぷしゅんと、一瞬にして萎んでしまった。
最後の数歩を歩む。
高鳴る鼓動は思いを空白にした。地面を踏みしめる感覚だけが、ただ生々しい。
そしてついに――森は開けた。
「え?」
木洩日は呆けた声を上げ、唖然と目の前の光景を眺めた。
森は確かに開けた。まるで世界が切り取られたかのような有り様で、ある境その一歩から先はまったく別の景色が広がっていた。
そこには暗黒を内に閉ざす樹木群も、草原の名残である若草もなかった。
土の地面さえも。
「これ……って。……砂漠?」
その先にあったのは、月の光を銀色に反射する砂の大地だった。
砂は滑らかで、風の跡が地に刻まれている。
砂の地は一面平坦ではなく、所々小高く、また場所によっては緩やかに下っている。
銀の光は目に優しいが、明るく煌々と輝いている。それはまさに、月の光を大地一面に敷き詰めたようだ。
森の領域を一歩だけ超え、恐る恐るその大地を踏みしめてみる。
すると木洩日はすぐに気付いた。
「これ……砂じゃなくて、……灰?」
少しだけそれを足の先で持ち上げ、宙に散らす。
それらはふわりと風に舞い、空中に銀の軌跡を作った。大地を埋めるそれは、確かに砂ではなく灰であるようだった。滑らかなはずである。
灰の砂漠には獣の一匹もいない。よく見ればそれは地平の向こうまで続いているわけではなく、ずっと遠くにまた、影が伸びたような森の黒、そのシルエットがあった。
「コマ、これっ――――」
コマを窺った木洩日は。
「ヒっ――!」
小さく叫び声を上げ、竦み上がり慄いた。
――あちこちに皺を寄せ、額には青筋を幾本も立て。
コマは、言い知れぬ熾烈な表情を浮かべていた。
――一体、何者が。
そんな呟きが、怒れる犬を思わせる口元から洩れた。
「コマ、コマ――」
「……あ」
コマは我に返り表情を戻し、自身から身を引き怯える木洩日を見つめると、悔いるように表情を顰めて俯いた。
「……すまない木洩日」
「う、ううん。コマ大丈夫……?」
「ああ、大丈夫だ。怖がらせてしまったね」
「ううん、私平気! でも……」
コマに身を寄せると、彼の服の袖を掴み木洩日は灰の砂漠を見渡した。
「これ、どういうことだろう?」
「……何者かが、ここからは遥か遠い
「入れ替え――そんな! そんな、そんなことができるものなの!? いったい誰が?」
「――分からない」
分からないと答えたコマは、露骨に木洩日から視線を外してそれを口にした。
「……そう」
木洩日は、コマが嘘をついていることが分かった。しかしそれを追求することはしなかった。ただ胸の中に不安を抱え込んで口を噤んだ。
コマは木洩日の手を取り、後ろへ引いた。
「森へ戻ろう。この砂漠はあまりに視界が開けていて危険だ」
「……なにか危険なモノが在る場所なの? この砂漠……。もしかして、森の獣たちの姿がなかったこともそれが原因?」
「ああ。……この砂漠には、【広大な森の平原】に住む獣とは比べものにならぬ危険な生物がある。おそらく、それが森を徘徊している……」
「…………」
「……森の中へ。この地は迂回して回ろう」
「……う、ぅ……」
「――私が、共にあるから」
「……うん」
空想の希望と、そこにあった絶望。
木洩日の足はそれまでの何倍も重くなり、暗闇の森はそれまでよりも尚恐ろしい、底知れぬ暗黒となった。
□
そこは“終わり無き竜”のねぐら、【赤錆の火山】の火山灰が降り積もった灰の砂漠。
砂漠の大地は幻の肥沃。その灰を飲めば不老不死と成る、そんな飛語の伝承すら語り継がれるその地に住まうは、神話の時代からそこに在る理外の神獣たち。
彼等と対峙してはいけない。
不滅の神格を示す彼等の前に立ったとき、あなたはもはや塵芥である。
危険度九。
【銀灰の砂漠】。
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