コマ
それから葉弥栄はニライを駆け、多くの神々の力を借り受ける目的を成就した。
失ったものも多い。有していた神格のほとんど、そして名――。
もはや彼を指して、葉弥栄とも呼べない。
だが、ぎりぎりではあるが、未だ彼は神格堕ちることなく、神の立ち位置にあった。
「名もないんじゃったの。そうじゃのう――件の幼子には、コマと名乗るのがよろしい」
目的を達し、再び赴いた薄の領域の地で、焔ノ狐神は彼にそう告げた。
「コマ?」
「狛犬のコマじゃ。本当は、かつてその幼子が心の中で、情を向けていたという狛犬の石像をそう呼んでいたとか、そんなことがあれば話は分かりやすかっただろうがのう。まあ、お前という存在を思い出してもらうための手掛かりにはなろう」
「……唯一の参拝者であった木洩日から名を認識してもらうことで、神としての
「そうじゃ。空になった社に祈る者もあろうが、残念ながらそれだけでは力が足りぬ。お前に対し、真に心持って祈りを捧げてくれる者の力あらば、借りた力も十全に引き出せよう。――なんじゃ、そのような考えがなかったのか?」
言われて彼も、自身がどうしてそのような考えを持たなかったのか疑問に思った。
まず真っ先に考える、考えなければいけないことであったはずだ。
彼はじっと考えてから、ぽつぽつと、言葉を紡いだ。
「……木洩日に、私が手放した様々を知ってほしくなかったから……でしょうか。つまらぬ意地ですが……どうやら、私は強くそう思っているようです」
「ふーむ……。まあ、気持ちは分からんでもないがの。しかしな、それで最後まで歩いて行けるほど、ニライの地は甘くはないぞ」
「仰る通りです。――ありがたく、その名を使わせてもらいます」
「うむ。ま、大丈夫じゃろう。その幼子なら、苦難あれどきっと、お前のことを思い出そう。――お前が手放したものの中でも、特に名は重要じゃな」
「…………」
それだけは知られたくない、という思いが彼の中にあった。木洩日という子の性分であれば、その事実がどれだけ自身を傷付けるか……。
だがしかし、それは葉弥栄の社との縁そのものの事情である。それを誤魔化したまま、どう伝えればあの少女に自分を思い出してもらえるのか……。
「んー、まあ、その問題は私に任せろ。それくらいはしてやる」
「なにか策が?」
「最初に私の力をその子に使え。丁度いいじゃろ。――言えるのはそこまで。あとは任せろ」
「…………?」
彼は内心で首を傾げたが、しかし最終的には頷いた。
「言うまでもないと思うが、どんなに辛くとも自分から存在を明かすなよ? その幼子が自身の記憶のみからお前をお前を思い出してこそ、お前という存在を明確に認識できるのだから」
「分かっております」
伝え、薄ぼんやりと思い出させても意味がない。
木洩日という少女がその社に感じたこと全てを思い出さねば、今は名もない彼を認識したことにはならないのだから。
少女自身の中に、彼があるのだから。
「それじゃあ、まあ、あとは頑張れ。【あるまいてぃ】の原神が幼子を不正招来――『境界の海』へ赴き引っ張り上げるまで、概念領域の時間の乱れがあるとはいえ、もうあと僅かじゃ。しっかりの」
「はい。多く助けていただき、本当に感謝致します」
「じゃからそれは私の都合であるから気にするな。お前様、幼子を助け出すのに失敗したら、己が神格の全てを差し出すこと忘れるなよ?」
「それでも、あなたに感謝しております」
「……お前、色々と苦労を背負いこみそうな
焔ノ狐神の呆れの言葉に、彼は思わず噴き出してしまった。
「――では、行ってまいります」
「ん。武運を祈っている」
その狐神らしくない励ましに微笑みを返すと、彼は背を見せ飛び立ち、彼女の領域を後にした。
「……さて、どうなるか。成就を祈っておるが、道は険しい。あやつが情に
茜色の空を見上げながら、焔ノ狐神は独り、呟いた。
「どうあれ、私のほうでも準備を進めるか。――と、その前に報告じゃな。頼まれてはいないが、顔を見るついでに伝えてやろう」
妙に嬉しげな顔つきでそう言うと。
焔ノ狐神もまた跳躍し、薄野の地から消えた。
彼女の最後の呟きが、茜色の空に吸い込まれて消えた。
「まったく、人も神も本当の神も、変わらんの。心の底に沈む、真に信じたかった光を目の当たりにすれば、もはや突き動かされるのみだ。そしてそれは幸せなことである」
――薄野に、一陣の風が吹いた。
それは悠久から吹く、沢山の祈りを運ぶ風であった。
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