第20話その者の名、那須与一
「そこで何をしているの?」
森のどこかからか、そんな声が聞こえた。
「何奴っ!」
九郎が太刀を抜き放って声のした方に向き直った。俺も少し遅れてから木の棒を水平に構える。
謎の声は、再び響き渡った。
「そこは、私たち那須家のせみどだよ? 勝手に飲んじゃ駄目なんだから」
「せみど? せみどとは確か坂東言葉だな? しみずに名前なんぞ書いてあるのか?」
「そう言う貴方はみやこ言葉ね? この辺じゃ、せみどをしみずなんていう人は父上くらいのものだわ」
謎の人物はそう言う。すると、ガサっと近くの針葉樹が揺れて、幹の上から一人の少女が下りてきた。
「おぉ」
俺は下りてきた少女の顔を見て、思わず感嘆の声を上げてしまった。
可愛い、可憐な少女だった。髪は九郎と同じくらい長いが、その色は黒というよりか栗色に近い。ダークブラウンに髪を染めた女子高生のような髪色だ。
おまけに、瞳は切れ長の九郎と違って猫のように丸く、好奇心が強そうだ。顔は小さく、背は九郎より少し高い。それになにより、その少女は胸がデカかった。いや、おそらく平成の時代なら並みなのだろうが、いかんせん普段隣にいるのがド貧乳の九郎だから、余計にその胸に目がいってしまう。
「……むっ。なんだかお前から失礼な視線感じたぞ?」
九郎が、ギロッと俺を睨み上げる。な、なんのことやら。
俺は視線を九郎から逸らして、再び少女の方へ向けた。
「……」
しかし少女は、何故か九郎を見たまま呆然としていた。
「む? なんだ? おれの顔に何かついているのか?」
九郎が『おれ』と一人称を変える。こいつは、何故か俺といる時だけ一人称を『わたし』にしている。俺が女だって知っているからだろうか。
それはともかく、少女は九郎を見つめたまま動かない。いや、辛うじて口をパクパクさせていた。まるで金魚みたいだ。
九郎は少しの間黙っていたが、やがて少女が何も言わないので語気を荒げて言った。
「おい! なんなのだお前は! 用があるならさっさと申さ――」
「――わ、いい」
「ん? なんだって?」
「――かわいい」
「ぬっ?」
「お侍さん、かわいい……。あ、あのっ! わ、私を妾にしてもらえませんか!」
「――は?」
少女の突然の告白に、今度は九郎が目を丸くした。
「わ、私! な、那須与一って言います! みっ、見ての通り姫武者です!」
ずいっと、那須与一と名乗る少女は九郎に詰め寄った。
那須与一って言ったら確か、扇を射抜くやつだよな? こいつも姫武者だったの――
「ほらっ! 見てください! これで信じられますよね!」
俺が頭の中の数少ない歴史知識を思い出していると、与一は何を思ったのか急に着物の衿を引っ張って九郎に胸を見せつけた。
す、すげえ! も、もう少しで胸の先っちょが――
「まっ、まじまじと見るでない変態!」
「あばばばばばばっばばっ!?」
九郎の叫びと共に、俺の脛が激痛を発した!
ごろごろと地面を転がっていると、上から与一の声が聞こえた。
「お、侍さん! わ、私お侍さんに一目惚れしてしまいました! よ、良かったら私を妾にしてくれませんか!?」
「ちょ、ちょっと待て! いきなり何を言っておるのだお主は! そ、それに自ら姫武者を名乗ってどうするつもりだ!? お前、死ぬぞ!?」
「その時は、お侍さんを、しっかりこの弓で射抜かせていただきますっ」
「お、おれを脅すつもりか? 与一とやら――」
「きゃっ! よ、与一だなんてそんな急に名前で呼ぶなんて大胆なんだからぁ!」
「お、おい弁慶! 助けてくれ! こ、こやつなんだか話が通じぬぞ!?」
進退窮まったのか、九郎がついに涙目になって地面でのた打ち回る俺に助けを求めた。
痛みも治まったので、なんとか立ち上がって俺は与一に声をかける。
「おい、一体何なんだあんた? 姫武者のくせに何考えてんだよ」
「気安く話しかけないでもらえる?」
話しかけた瞬間。与一は射殺さんばかりの鋭い視線で俺を睨み上げた。
「大体、あなた何なの? このお人の家来か何かは知らないけど、少し……いや、随分と図が高くない? あっ、今のは那須家の御曹司である私に対する作法がなっていないのと、あなたのその無駄にデカい図体を掛けての発言だったんだけど、分かったかしら?」
あ。この女嫌いだわ。少しでも可愛いと思った俺がバカだったわ。
自然と眉間に皺が寄り、今度は俺と与一の間で火花が散る。
すると、おろおろとした九郎が俺たちの間に割って入る。
「お、おい止めぬか二人とも。それよりも、与一。おれは腹が減ったのだが……」
「はいっ! それではこれより私の家に招待致しますっ! 見たところ、随分と汚れておられる様子。湯治場も近くにありますので、是非旅の疲れを癒してください! えっと、その――」
与一は、急に体をくねらせて九郎をいじらしそうに見上げる。
九郎が与一の様子にドン引きしつつも、「く、九郎だ」と名乗った。
「九郎様! まあっ! なんと麗しいお名前でしょう! では、九郎様。こちらにいらしてください! 馬を用意しております! さあ、遠慮せずにこ・ち・ら・へっ!」
捲し立てるように与一は言うと、九郎の手を取って坂を下っていく。
「お、おい待ってくれ。弁慶も、弁慶も連れて行ってはくれぬか! お前の言う通り、デカいだけで主を敬うこともしない卑劣漢だが、あれでもおれの郎党なのだ」
誰が卑劣漢だ誰が!
俺が不満の視線を九郎に投げかけると、与一はぱあっと明るい表情を浮かべて笑った。
「まあ! 九郎様はなんとお優しい! 私、感動致しました! 一寸の虫にも五分の魂といいます! あの杉の木のようなデカいだけで何の役にも立たなさそうな巨像にもお慈悲を与えるなんてっ! 分かりました! あの無能を絵に描いたような僧兵には、我が家の馬小屋を与えますね!」
なんて、九郎への称賛の言葉と俺への罵詈雑言の数々を吐きながら、与一は九郎の腕に抱きついて坂を下っていく。
残された俺は、やり場のない怒りに震えながら、せめてもの仕返しにと思って、その場ある清水を飲んでやろうと口を近づけた。その瞬間――
――ビュンッ!
俺の唇の一センチほど先を、矢が凄まじい勢いで通り去った。
「人のせみどを盗まないっ!」
坂を下って、俺のことが見えないはずの与一が、そう叫んだ。
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