第29話 一息ついて
与一の家を出て二日後の夜。俺たちは那須家の屋敷の近くにある雑木林にいた。
那須家の屋敷は立派で、外には堀を巡らして、門には数人の見張りが配置されている。それを眺めながら、俺と九郎は太夫黒に水をやっていた。
「……お待たせいたした」
その時、ふと背後から声がした。振り返ってみると、そこには真っ黒ずくめの継信が立っていた。
「義経様、弁慶殿。よくぞ御無事で」
「ああ。お前こそ、大儀であったぞ継信」
挨拶もそこそこに、継信は九郎に訊いた。
「して、義経様。如何にして白河の関を超えるおつもりでしょう?」
「簡単だ。那須家の屋敷に火をつける」
「って、また放火かよ!」
思わず突っ込んでしまった。
九郎は「まあ、大人しく聞け」というと、木々の茂みの間から那須屋敷を指さした。
田畑に囲まれた那須屋敷の周囲に、灯りらしい灯りは門にしかない。辺りは一面闇だ。
「おそらく、白河の関を守護しているのは那須家だろう。我らが奥州の地を踏むと分かっておるから、奴らは必ず白河の関に軍勢を敷いている。しかし、ここで屋敷が火事になれば、その軍勢を割いて屋敷に戻らざるを得ない。その隙をついて、我らは白河の関を突破する」
九郎はそう俺たちに説明すると、太夫黒を撫でた。
「継信。馬をもう一頭用意してはくれぬか? その馬が奥州への足となる」
「御意」
「それから、その馬と共に油を持ってこい。策はこの手紙に書いている。頼んだぞ」
「承知仕りました」
継信は手紙を懐に仕舞うと、立ち上がって暗闇の中へと消えて行った。
継信が去ったのが分かると、九郎は張り詰めるような空気を解いて、にへっと笑った。
「……なあ、弁慶。わたしは、源氏の御曹司らしくできていただろうか?」
「……なんだよ、急に」
問いかけると、九郎は再び笑った。
「いや、わたしは源家の御曹司だ。源氏の郎党が、平家に苦しめられる民が、わたしを必要としている。わたしは、その皆の気持ちに応えられているのだろうか」
儚げに微笑む九郎は、未だに鏡の宿の出来事を引っ張っているように見えた。
あの隊商では、誰もが源家の大将を待ち望んでいた。自分たちが信じるに値する者を、命を懸けるに値する人間を。それを、九郎は演じた。そいつらのために、牛若という名の少女は九郎になり、そして……義経になった。
それは、この牛若という名だったこいつにとって、とても過酷なものだったらしい。
九郎はハッと気が付くと、慌てて首を横に振った。
「すまんな、弁慶。わたしとしたことがいつになく弱気になってしま――」
「お前は、十分頑張ってるじゃねえか。すげえよ」
俺は素直に思ったことを口にする。そして、九郎の頭をそっと撫でた。
九郎は、最初こそ何か言おうとしたが、そのまま黙って俺が頭を撫でるのを許した。
俺は、こいつが可哀想で仕方なかった。
俺からすれば、こいつは運命という名の嵐の中を進む一艘の小舟みたいなもんだ。荒波に流されるだけの航海に、果たしてこの牛若という名の少女の意思はあるのだろうか。
助けてやりたい。俺は思う。この少女を、源氏という呪縛から助け出してやりたい。
そう思ったが、それを言う事はしなかった。
言ってはいけない。何故なら、俺はこの時代の人間じゃない。この時代の人間が歩く人生を――歴史を変えてはいけない。
「お主に頑張っていると言われると、何故かホッとするな」
九郎は、何故か嬉しそうに言った。
「この坂東には、お前しかおらぬのだ。わたしを、年相応の少女として扱ってくれる者はな。だから、わたしはそれが嬉しい。だから、お前には感謝しているぞ、弁慶」
そう言って微笑む九郎は……本当に、年相応の少女のように可愛かった。
思わず、胸が高鳴って顔が熱くなった。
「う、うるせえ! 変なこと言うなよバカ九郎!」
「むっ。人がせっかく素直に礼を言っておるのに、なんだその態度は!」
頬を膨らませて不満を述べる九郎。それを見ると、俺も少し安心してしまう。
少なくとも、俺とこうしていがみ合っているこいつは、義経ではなく牛若なのだなと思えるからだ。
ぷんすこしていた九郎だったが、すぐに気を取り直すと腰を逸らせて小さい胸を張った。
「うむ! 弱音は以上だ! 今からは九郎義経として動くとするか!」
九郎は油の入った壺と火起こしの道具一式を手にすると、今から遠足にでも行くような軽い調子で俺に言った。
「では、弁慶。ここを頼むぞ。わたしは今から……那須家を燃やしてくる!」
満面の笑みで九郎は踵を返すと、ルンルン気分で雑木林の外へと出かけて行った。
その夜、謎の火事によって那須屋敷の半分が焼け落ちた。その様子を目撃していた武士によると、徴収した米を蓄えておく米蔵の損害は特に酷く、一年分の米が灰になったらしい。
もしかすると、九郎は案外ノリノリで義経を演じているのかもしれない……。
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