第42話入れ、男風呂
俺たちは、継信の先導で衣川館と呼ばれる丘の頂上にある館へと通された。
俺は、ふと衣川館に続く階段で振り返った。鬱蒼とした木々の間から、北上川と衣川が合流する川の流れを一望できた。もう日が落ちているが、きっと昼間なら綺麗な景色を見ることができるだろう。
階段を上がりきると、そこには一軒の屋敷があった。
伽羅の御所どころか鏡の宿ほどの小さな屋敷だが、俺たちにとっては巨大すぎる拠点だ。とにかく、腰を落ち着ける場所をもらえたのはありがたい。
屋敷を前にした継信が九郎に向かって言った。
「これからしばらくはここをお使いくだされ。麓には商店、湯治場など九郎殿らの役に立つ場所が多くあるでござる」
「……湯治場。風呂か。やっと風呂に入れるのかー! ちょっとワクワクするな」
もう何か月も風呂に入っていない。いい加減湯に体を沈めたい。
俺がうずうずしていると、横にいた与一が怪訝な顔をする。
「何を言ってるのよ。お風呂なら奥州に入ってからずっと入ってるじゃない。村の人たちにお願いしてさあ?」
「お前らの風呂は蒸し風呂だろうが。いい加減サウナは飽きたんだよ。それにな、未来人の風呂ってのは、温かい湯に肩まで浸かることを言うんだよ」
「ふーん。未来人ってのは、随分と贅沢なのね」
髪を払いながら、与一がつまらなさそうに言う。
しかし、そんなことはどうでもいい。さっさと荷物を下ろして風呂に行こう。
俺は背負っていたリュックと薙刀、それから腰の太刀を衣川館の玄関に置くと、中からタオルを一枚持って九郎の前に立った。
「おい、九郎。ちょっと風呂行ってくる。済み次第戻ってくるからな」
「……ん。好きにするがよい」
九郎は目を逸らしたが、それでも俺が行くことを承知した。そうなったらこっちのもんだ。
俺は登ってきた階段を急いで駆け下りると、近くにいた町民に湯治場の場所を訊いた。
すると、湯気が昇っている建物を指さしたので、そちらの方へ向かった。
受付を見つけたので、俺はそこにいる男に話しかけた。
「この湯治場を使わせてくれ」
「あいよ。渡来銭で一〇文だよ」
「と、渡来銭?」
しまった! そういや俺、この時代の貨幣とか全然知らねえぞ?
しかも、今までの旅で金を見たことがない。どこの村も、金の代わりに物々交換で商品を交換していた。だから、俺たちはこの旅で九郎の女物の着物だったり、一日畑仕事をして宿を手に入れていた。
だからこの時代に金銭ってのは存在しないんじゃないかと思っていたんだが、ここでまさかの落とし穴に嵌ってしまった……。
俺が焦っていると、受付の男が不審な表情で俺をのぞき込んできた。
「なんだい兄ちゃん。金持ってないのか? じゃあ米は? 砂金でもいいぞ?」
俺は首を横に振った。
受付の男が頭をボリボリと掻いて困り顔を作る。そんな時だった。
「ほっほっほ。これは弁慶殿――だったかな? 湯治場で会うとは奇遇じゃの」
この時代での俺の名前を呼ばれて振り返る。すると、そこには丸々とした恵比須顔の好々爺が立っていた。
俺はぎょっとして思わず口を開いた。
「ひ、秀衡――」
「おっと。何を言うておる弁慶殿。儂の名前は弁心。無量光院の僧ではないか」
秀衡――もとい、僧の身なりをした弁心はそう言うと、懐から一枚の札を受付の男に見せた。その際、弁心は「こっちのでっかいのも入るぞ?」と付け加えた。男は頷いて俺たち二人を奥へ通した。
「これは、秀衡様(わし)が発行した奥州藤原氏の客人としての証明書みたいなもんじゃ。これをやるから、これからは好きにこの街の物を利用せい」
そう言われて一枚の札を受け取った。俺は弁心が歩いていくまま、その後ろをついていく。
やがて男湯と女湯に分かれ、脱衣所で服を脱いだ。
脱衣所を出ると、そこには大きな露天風呂があった。
水面からはもわもわと湯気が出て、水面を霞ませている。十人ほどの客がおり、俺たちは風呂の中央にある大きな岩を背に湯へ浸かった。
久しぶりの湯が、俺の体の四肢末端をじんわりと温めていく。
「おおおおお~っ」
旅の疲れが一気に抜けていくようだ。
「うむ。やはりここの湯は良く効くようじゃな。儂も安心したぞ」
ばしゃっと湯を自分の腕に掛けながら、弁心は「ほっほっほ」と笑う。
そんな弁心を――いや、秀衡を俺は改めて見た。
奥州を治める武士の総元締で、都にも引けを取らない大都市を築いた男。そんな男が、今は身分を隠して温泉に入っている。
弁心は、俺がじろじろと見ているのに気付いた。
「なんじゃ。お主、もしやこのような好々爺の身体に興味があるのか?」
何言ってんだこのじいさん。
「ちげえよ。なんでそんな身なりで街を出歩いてんだと思ってな」
「ふむふむ。なるほどのう。まあ、よくある話じゃ。この格好で、民と同じ目線で街を歩けば、民の知る街、文化、情報を得られるからじゃよ。こうすることで、儂は民の心を知り、民の望む政を行えるというわけじゃ」
何より、気兼ねなく温泉に入れるしの。と、弁心は付け足す。
そんなことを言う弁心を見て、俺はようやく理解した。
藤原秀衡という、この男の器の広さを。
この男は、誰よりも優しく大らかだ。だから、伽羅の御所での俺たちの無礼を見た後でも、こうして何事もなかったように接してくれる。しかも、出会って間もない人間にだ。
それに、俺みたいな若造が敬語を使わなくても、嫌な顔一つしない。
そりゃ、こんな大都市も築けるわ。そう思った。
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