第15話その名を、九朗義経

 元の畳の部屋に戻って来た牛若は、そこで細長くも大きな桐箱を持ち出し、それを開けた。

 中には、着物と烏帽子が入っていた。

 牛若は、入っていた着物を取り出すと「わたしに背を向けろ。……着替えるから」と言った。俺は慌てて牛若から背を向ける。

 着物の擦れる気まずい音を背中で聞きていると、牛若が口を開いた。

「元服は本来、大人数でやるものだ。必要な役割も多く、人数も最低でもわたしを除いて六人は必要だ。だが、今回はそんな余裕もない……一つを残し、全てわたし一人でやる」

「なるほどな。で、俺はさっき言われた通り、烏帽子親をすればいいんだな?」

「……察しが良くて助かる」

 牛若はそれだけを言うと、再び着替えに集中し始めたのか無言になった。

 戦場の音が――叫び声や矢の飛び交う音が、ひどく遠くから聞こえているような気がするほど、この畳の部屋は静かだった。

「……実を言うとな、まだ……少し後悔している」

 揺れるような声音で、再び牛若は言った。

「この先、本当に源氏の御曹司として平家を打倒できるのか。これから多くの人間が、わたしの命令で先ほどの武者のように死んでいくのか。その重圧がわたしの肩にこれからのしかかると思うと、心が欠けそうになる」

 牛若は、一呼吸置いて続けた。

「……けれどな、弁慶。それでもわたしは、あの者たちを救いたいと思ったのだ。今、屋敷の前で必死に戦っている者達を――そして、平家の横暴によって苦しむ多くの人を、わたしは救いたいと思ったのだ。そのためなら、わたしはどうなっても構わない」

 立派な志しじゃないか。いいと思うぞ。

 でもな、そこにお前の幸せはあるのか? 誰かのためだけに生きて、お前は本当に幸せなのか?

 そんな重く暗い気持ちが、俺の胸に沈殿する。だが、それを言う資格は、俺にはない。

 俺はあくまで未来人だ。何もかもを知った未来人が、過去の人間の決断に首を突っ込むことは、あってはならないと思う。

「……もう、いいぞ。こっちを見ても」

 許しが出たので振り返る。

すると、そこには黒の直垂を着た牛若が立っていた。

 こうして男装している姿を見ると、こいつは女ではなく本当に美少年なのではないかと錯覚してしまう。

 牛若は、呆然としている俺に黒い折烏帽子を手渡した。

「これを、わたしの頭に乗せて、ひもを伸ばしてあごの下で結んでくれ。そして、わたしの新しい――源氏としての名を告げてくれ」

 真剣な牛若の視線に、俺は黙って頷いた。

 こいつが選んだ道だ。なら、俺が口を挟む理由はない。

「言っておくが、未来流だからな? やり方が違うとか言うなよ?」

 本当は、未来の元服も知らんが。

「ああ。構わん。任せる」

 牛若はそう言うと、すぅっと目を閉じた。

 烏帽子を被り、黒の直垂に身を包んだ牛若。そんな彼女に、俺は教科書を読んで覚えた彼女の新しい名前を告げた。

「……お前は義朝の九男。よって、通称は九郎。そして、父の義の字と、そこに源姓を初めて名乗った経基の経の字を貰い、よって名を――九郎義経とする」

「源九郎義経……」

 牛若は――いや、九郎は新しい自分の名を呟くと、スーッと息を吸った。

 そして、ゆっくり息を吐いて、目を開いた。

「……うむ。良い名だ。調べも良い」

「まあ、俺が考えたわけじゃないがな」

「よいのだ。……さて、それでは行くぞ。おれに続け、弁慶」

『おれ』か。これで、本当にこいつは源氏としての道を歩み始めたってことか。

 そう思うと、何故か心がチクリと痛んだが、それを気にする余裕は俺にはなかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る