第3話その者の名、牛若

 五条大橋から清水寺までの道のりはそう遠くない。川を渡って音羽山の二寧坂を登れば、あっという間に境内に辿り着く。

 俺のいた京都の風景とは違い、二寧坂には土産屋なんて無く、小屋がぽつぽつある程度だった。しかし八坂の塔は健在で、月夜に照らされるその姿はとても不気味だった。

 俺は護身のために棒術用の棒を抜いて、二寧坂を駆け上がった。

 体が温まる頃には清水寺の境内に辿り着いた。流石に境内ともなると、足場も石畳になって整っている。

 階段を数段上がって、俺は目の前にそびえる朱色の仁王門をくぐる。そのまま、三重塔を横切り清水の舞台を目指す。

 少し肌寒いが、今は春なのだろうか。夜の静まった清水寺には桜が何本も植えられていて、その桜が花を吹雪のように散らしている。

 棒を構えたまま、俺はゆっくりと本堂へ入る。檜床の軋む音を聞きながら、やがて清水の舞台へと辿り着いた。

 清水の舞台には、まるで最初から清水の舞台がその柄だったかのように、桜の花びらが落ちていた。月は太陽のように明るく輝いていて、舞台を照らしている。遠くから、音羽の滝を流れる清流の音が聞こえた。

 俺は舞台の縁に立つと、京都の街を一望した。

 しかし、そこに俺の知っている京都の町並みはない。現代的なビルの明かりの類はなく、ゆらゆらと亡霊のような火の灯りが、暗い街並みにぽつぽつと浮き上がる程度だった。

 その様子は、まさに異様だった。

「……本当に、平安時代に来ちまったのか?」

 清水の舞台という見知った場所からの光景に、俺はようやく考える余裕ができた。

 あの男、弁慶はここが平安の世だと言った。つまり、俺は令和の時代から千年近くタイムスリップしたことになる。それは奇しくも、俺が嫌々勉強していた日本史のテスト範囲の時代だ。

「こりゃ、今度の日本史のテストは満点だな。見てきたように書けるぜ」

 なんて言ってみるが、帰る方法なんて皆目見当もつかない。どうしてこんなところに呼び出されたのか、これからどうするのか。何も分からない。

俺は、手首に巻いた紅蓮色の荒珠を見つめた。首が太すぎて付けられず、仕方なく手首に巻き付けたのだ。

弁慶曰く、どうすればいいかは荒珠が教えてくれるとのことだったが。

「あいつは、ある方を守れって言ってたよな? もしかして、ある方って――」

 次の言葉を言いそうになった俺の口を、遠くから聞こえてきた音が止めた。

 高い笛の音。その妖しい音色が、暗闇に塗りつぶされた清水の本堂から近付いてくる。

 瞬間。俺の体が警報を発した。棒術だけでなく、剣道、柔道、空手、ボクシング、薙刀術まで親によって十年近く習わされてきた俺の直感が、強者がやって来ると告げているのだ。

 握っていた、長さ一七〇センチの棒を水平に構えて、笛の音が近づいてくるのを待つ。

 甲高い笛の音は次第に近づき、やがて闇の中から一人の人間がやって来た。

 薄い羽衣のようなものを羽織った、笛を吹く着物の少年……だろうか。白い羽衣と夜ということもあって、その人物の表情や顔立ちがよく見えない。

 少年らしき人物は、月明かりが届く一歩手前で立ち止まると、笛を吹くのを止めた。

 俺が場の雰囲気に飲まれて黙っていると、少年はそっと顔に掛かった羽衣を上げた。

 細い眉に、意思の強そうな二重の瞳。白い肌に桜色の唇。もし男だとしたら、なんて色っぽい顔をしてるんだと思った。

 長く美しい緑色の黒髪を後ろで束ね、腰のあたりまで伸ばした少年は、じっと俺を見る。

「……『弁慶』か。おまえは、己の名に余程自信があるらしいな」

 綺麗なアルトボイスが、俺の着ている『弁慶Tシャツ』を見て勘違いをしていた。

 ちなみに、これは俺のおかんが誕生日にくれた服だ。白地に筆で力強く書かれた『弁慶』の二文字は、無論俺ではなく、おそらく先ほどの大男のものだろう。

 だが、それよりも俺は、薄々感じていた直感が当たったことに嘆息した。

「はぁ。だよなあ。やっぱりお前だよなあ。日本史が苦手な俺でも分かるやつだよ、お前」

 俺の反応に、相手はムッと綺麗な形の眉を八の字に曲げた。

「お前とは無礼な。わたしの名は牛若。平安貴族、一条長成の子である。都の平穏を脅かす物の怪め、覚悟して――」

 牛若と名乗る子供に、俺は一瞬疑問を感じた。

「はあ? 何言ってんだよお前。お前の苗字って源だろ?」

「み、源だと!? 馬鹿をいえ! 源と言えば、先の大戦で大負けした輩ではないか! そんな奴らと一緒にするな! わたしは、あの摂関家の血を継ぐ貴族だ!」

 持っている笛をぶんぶんと振り回して、牛若は怒りを露わにする。

 あれ? 違ったっけ? 俺は背中に背負ったリュックから教科書を取り出して、テスト範囲だったページに書かれた源氏家系図を開いた。

「やっぱり間違いない。お前は源氏の子じゃねえか」

「なっ!? だから違うと言っているだろ! いい加減にしろ!」

「いやいや違わねえって。ほら、ちょっとここ見てみろって」

 ちょいちょいと手を招いて牛若を呼ぶ。牛若は疑いの視線を俺に投げかけたが、やがてそっと俺の横に立って教科書を覗き込もうとした。

「おい、少し屈め。貴様の図体では、わたしが書物を読めんではないか!」

 ぴょんぴょんと、俺の横で牛若が跳ねる。

 確かに、俺の身長は一九〇センチで、牛若の身長はざっと見たところ一四五センチほどだ。頭四つ分ほどの開きがある。しかし、そう命令するような口調で言われると腹が立つ。

 俺は舌打ちをすると、少し屈んで家系図をわたし指さした。

「ちっ……。ほら、ここだ。書いてあるだろ? 源義朝の下に義経(牛若)って」

 分かりやすいように言ってやる。牛若は、最初こそジッと家系図を睨んでいたが、やがてカーッと顔を赤くした。

「き、貴様! わたしを馬鹿にするつもりか! 大体、何だその書物は! まなとかなが混じっておるではないか! そんなもの、日ノ本の文字ではない!」

「まなとかな? ああ、漢字とひらがなってことな。しょうがねえだろ、これが未来の日本語だ。俺は千年後の未来から来たんだ」

「み、未来だと? おまえ、やはりわたしを馬鹿にしているな? この物の怪め!」

 牛若はバッと後方へ下がって俺から距離を取った。その距離は三メートルほど。

「誰が物の怪だ。未来人に失礼だろうが」

「問答無用。都に巣食う悪鬼め。鞍馬の天狗に代わり、この牛若が成敗してやる」

 牛若は、そう宣言するなり笛を投げ捨て、腰から太刀を抜いた。

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