第24話作れ、猪鍋
与一の了承を得て、俺は長屋の台所に立った。
台所と言っても、当然ながら釜と調理用の台があるだけのものだ。キッチンやコンロなんてものはない。
俺の隣で、割烹着に着替えた与一が眉を顰める。
「……言っておくけど、那須家ではイノシシはあまり食べないわよ? だって、臭みが酷いんだもの」
「あ? そりゃ、イノシシの体内に血が残ってるからだ。お前、イノシシを狩った後、どうして運んでる?」
「そんなの、吊るして持って帰るに決まってるじゃない」
「血抜きは?」
「しないわよ。なんで血を抜くのよ。意味わかんない」
……なるほどな。平安時代には血抜きの文化が無いのか。
「いいか? イノシシの肉が臭くなるのは、体内に血を残したままにしてるからだ。だから、しっかり血抜きをすれば臭みも少なくて美味い肉になるんだよ」
「ふーん。あんた、詳しいのね」
「まあな。俺のじいさんがマタギ――狩りを生業にしていてな。その受け売りだ」
血抜きの話に戻るが、特に心臓を突いたり、動脈を切ってイノシシを殺してしまったら、血が体内に残ってしまい、肉が臭くなる。だから、トドメは内臓――特に肝臓を刺すのが一番だ。
そして、肝臓を刺して血抜きをした後は、腹割りをして内臓を取り出す。この時、内臓を取り出した獲物は、冷たい川に一時間程漬けるといい。本当は海水に漬けるのがベストなのだが、こんな山奥で塩を取るのは無理なので、川に漬けた。
そして、獲物を吊るして水分を落とす。この時、決して獲物を日向に置いてはいけない。せっかく冷やした獲物が腐ってしまうからだ。
と、ここまでの下準備は済ませてある。俺は切り取ったイノシシの肉を板の上に乗っける。
「なあ、与一。家には何がある?」
「そうね。葱とごぼうに醤油、それから最近父上が都で流行ってるって言ってたこんにゃくがあるわね」
「こんにゃくか……。この時代には、もうこんにゃくがあるんだな」
だとすれば、今日のメニューは決まりだな。
「よし。しし鍋にするか」
しし鍋は、じいさんに言われて何度も作ったから、俺の数少ない料理のレパートリーの一つだ。
まず、イノシシの肉を煮込む。これはダシ用の肉で、脂身なんかがいい。そうすることで、醤油の風味をより一層引き立てる美味い鍋になる。
それから、分厚めのイノシシ肉を入れる。世間では、イノシシ肉は固いなんて言われているが、煮込めばそんなことはない。
十分に煮詰めたら、今度はいよいよ野菜とこんにゃくを入れる。今回しし鍋にしたのは、与一の言った食材の中にゴボウが入っていたからだ。しし肉とゴボウの相性は抜群で、更にここにさっぱり風味の醤油としし肉ダシが加わることで深みが増す。
「よし、できた」
醤油に少量の酒を入れたダシで味を調えたら完成だ。
完成したしし鍋を台所から囲炉裏の方へ持っていく。そこには、箸と皿を三人分用意して、今か今かと鍋を待っている九郎の姿があった。
「おおっ! 待ちかねたぞ弁慶! 与一!」
ぱあっと表情を明るくして、九郎は嬉しそうに飛び上がった。
「可愛い……ああ、嫁にしてほしい」
隣の変態が息を荒立てているが、それは無視して、俺は囲炉裏の自在鉤にしし鍋が入った鉄鍋を引っ掛ける。
九郎が、ぐつぐつと煮え立つしし鍋を「おーっ」っと目を丸くしながら覗き込む。
その間に、俺は三人分のしし鍋を木製のお椀に入れた。
深みのある黄金色のダシに浸る分厚めのしし肉。そして、葱などの薬味野菜と土もの野菜のゴボウが、お椀の中から顔を出す。
「もういいのか? 食べていいのか?」
正座をした九郎が、そわそわしながら俺と与一を交互に見る。
「ああ。いいぞ」
「そ、そうか! では、いただくぞ! はふっ――んぐんぐ……う、美味い! なんだこれは!? イノシシの臭みが無い上に、こりこりとしたゴボウと妙に柔らかいしし肉が……合うっ! これは美味しいぞ! これ、与一が作ったのか?」
きらきらと目を輝かせる九郎が、与一を見つめる。
だが、与一は少しだけ気まずそうな顔をすると、九郎から視線を逸らしてしまった。
それも仕方ないだろう。与一は俺の言うままに調理しただけなのだから。
普段は勝ち気なくせに、こんなところで素直な反応してどうすんだよ。
俺はしし肉を口に放り込んだ。
「はふっ――んぐ。しし鍋を作ったのは与一だぞ。俺は肉の下準備をして、与一の料理に口を挟んだだけだからな」
俺がそう言うと、隣で与一が勢いよく俺を見たのが横目でも分かった。
「なっ。あんた、何を言って――」
「すごいな与一! これが坂東流の食事なのか! ううむ、これでは本当に与一を嫁にしてもよいかもな! あっはっは!」
「ありがとう、ございます……」
満面の笑みを湛える九郎に対して、与一の表情は何故かうかない表情だ。
再び九郎が鍋に集中しだすと、隣の与一が俺にボソッと耳打ちをした。
「あんたの案に乗ったの、失敗だったわ」
「あ? なんでだよ。大成功じゃないか」
「こんなの、私の料理じゃない。分かっていたけど、こんなに悔しいなんて思わなかったわ。私は、私の料理で九郎様の胃袋を捕まえてやるんだから」
自分のお椀の中を強く睨みながら、与一は言う。そして、パクッとゴボウとしし肉を口に放り込んだ。
「んぐっ――くーっ、悔しい味がする……! まっ、負けないんだから! 絶対に、この味を覚えてクソタコ坊主を見返してやるんだからああぁぁぁ! もぐもぐっ!」
やけ食いする与一の隣で、俺は苦笑しながらしし鍋をつつくことにした。
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