第21話 養え、英気
山を下りて小一時間ほど歩くと、平野に一軒の長屋があった。そこが与一の家だそうだ。
そこには小さな馬小屋があって、俺はそこを使うように与一から言われた。その時の『そこがお前にはお似合いね』と言いたげな笑みを湛えた与一には、さすがの俺も殺意を覚えた。
その後、九郎は長屋に通され、俺は本当にその馬小屋に置いて行かれた。あんまりだと思ったが、しかしここ数日はずっと野宿だった。それに比べれば、馬小屋は雨風を凌げるだけマシだ。……マシだと思うしかない。
「くっそおおぉぉぉ。何なんだよあの女! チビ九郎よりよっぽどひでえじゃねえか」
馬小屋の中で、俺は一人噛み締めるように言った。もう外は夜で、冷たい夜風が吹き始めている。
「――誰が、チビだって?」
藁を敷いて寝返りを打った俺の頭上から、怒りに満ちたアルトボイスが聞こえた。
「げっ、九郎……」
慌てて起き上がると、腰に手を当てた九郎が眉を顰めて俺を見下ろしていた。
しかし、そんな九郎も、どうしようもないと言いたげなため息と共に肩の力を抜いた。
「はあ。せっかく食事の残りを持って来てやったというのに、お前は……」
やれやれと首を振る九郎の手には、竹の葉で包まれた握り飯と焼き魚があった。
「ありがとうございます九郎様。この御恩は一生忘れません!」
「現金な奴め……。まあいい。これも、主としての務めだからな。か、感謝して食えよ?」
そっぽを向きながらも、九郎は竹の葉で包んだお握りと焼き魚を渡してくれた。
それが俺の手に渡った瞬間。口の中が唾液でいっぱいになった。
そして、同時に涙が溢れてきた。
「……九郎。俺、初めてお前がいい奴だって思った。大好きだありがとう」
「だっ、大好きだなんてそんな――って、おい。今、初めていい奴だとか言わなかったか?」
半目になってずいっと顔を近づける九郎を無視して、俺は数日ぶりの食事を口に放り込む。
う、美味い……。素朴な握り飯が。塩をかけて焼いただけの川魚が、こんなにも美味しいものだったなんて……!
感動の涙を流して飯を食う俺を、九郎は隣に座り込んで「しょうがない奴だな」と言って、俺が飯を頬張る様子をじーっと眺めていた。
「なんだよ。俺の顔に米粒でもついているのか?」
「いいや。なんとなく、お前の飯を食う様子が見たかっただけだ」
なんだよそれ。変な奴だな。
九郎は、妙にニマニマして俺の食事を眺める。俺は落ち着かないながらも、渡された食事を食べ終えた。すると、それを待っていたかのように、九郎が真剣な表情で口を開いた。
「……弁慶。どうやら、わたしたちの苦労は無駄ではなかったぞ」
「ふぃー。って、どういうことだ?」
「与一の話によると、ここは那須国と呼ばれる場所らしい。関東の北だ。それも、奥州との国境に近いという話だ。那須連山というのは聞いたことあるか?」
「ああ。確か、奥羽山脈に連なる山だったよな? 一回親父と一緒に行ったことが――ってことは、栃木県まで来たのか!? 俺たち!?」
「未来語禁止!」牛若がムッとして人差し指二本でバッテンを作る。
「あ、ああ。すまん。となると、奥州まではあと一息ってことだな」
「その通りだ。そこで、更に良い知らせだ。この那須国の先に、白河の関と呼ばれる関所がある。そこが、都の監視の最北端だ。つまり――」
「その関所を超えれば、もう平氏の追手はやって来ない?」
「その通りだ。とにかく、今は英気を養え。数日したら、白河の関に向けて出発するぞ」
隊商からはぐれ、迷子になりながらも必死に歩いた。その努力が無駄ではないと分かっただけでも嬉しかった。あの与一とかいうクソ女のことなんか、すぐに頭から忘れてしまいそうだ。
浮かれていると、九郎は少し寂しそうな顔をした。
「すまない。できれば、お前も与一の家で休ませたかったのだが……わたしの力不足だ」
しおらしく、形のいい眉を八の字にして九郎は俯いた。こいつはこいつなりに、俺が屋敷で寝られるよう与一に掛け合ってくれたらしい。
それが意外だった分、少し胸が熱くなった。
「……べ、別にいいって。今までの野宿に比べれば、馬小屋だって天国だ」
「そうか……。しかし、それではわたしが寝られぬのだが……」
「お前の都合かよ! 感動して損したわ!」
実はこいつ、鏡の宿以降ずっと俺の膝を枕代わりにしていたのだ。俺がゆっくり休めなかったのは、野宿だけでなくこいつにも原因がある。
九郎は、敵意を向ける俺に「冗談だ、冗談」と笑うと、スッと真剣な表情に戻った。
「……とにかく。奥州までは、あと少しだ。……ここまで来たのだ。共に奥州の地を踏もうな、弁慶」
「……ああ。もちろんだ。俺、弁慶じゃねえけど」
俺が頷くと、九郎は少し寂しそうな表情のまま長屋へと戻っていった。
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