第44話 少年の悔恨(改)

 小一時間も過ぎた頃、ようやく少年の意識が戻りました。


(……あれ……ここは? ……なんだか、すごく気持ち良かったような……あぁぁ……いい香りだなぁ……。


 少年はとても居心地の良い空間にいる安らぎを感じていました。


(……ここは、どこだろう、……え? 布団の中? )


 意識がはっきりすると同時に、少年は慌てたようにガバッと起き上がりました。


「慎一くん、大丈夫? 」


 横あいから、少年を心配する優しい少女の声が聞こえてきます。


 少年はおぼろげながら夕方の情景を思いだしました。身体がふらついて、彼女に肩を貸してもらってどこかに担ぎ込まれたのを思いだしたのです。


 ただ、不思議なことに、今の今まで、ここに理恵子がいたような妙な気持ちに少年はとらわれていました。


「あぁ、もう大丈夫。……ごめん、またきみに迷惑をかけちゃったみたいだね。」


 少年はそう返事をしましたが、その後の言葉が続かず、ふたりの空間は妙な静けさに包まれました。


 少年は初めて入った彼女の部屋を見渡しました。理恵子の部屋は、キャラクター物の人形や可愛いグッズなどが置いてありましたが、土屋朱美の部屋は、キャラクター物ではなくアイドルのポスターやグッズに溢れていました。


「そんなに見られると、恥ずかしいな。」


 少女は、自分の幼稚な趣味を、異性からしげしげと見られることに、ちょっとした気恥ずかしさを感じたようです。


「あ、ご、ごめん。」


 少年は慌てて返事を返して視線を落としました。でも、そのおかげで、何とはなしに、話しのきっかけがつかめたようで、少女がストレートに疑問を尋ねてきました。


「そういえば、何か用だったの?マンションの前で、わたしの帰りを待っていてくれたんだよね。」


 少女からの当然な疑問に、少年は即答します。


「いや、なんでもない。」


 なんでもないわけがありません。用もないのに、何駅も過ぎてわざわざ来る筈がありません。彼女にとってはあまりにも見え透いた言葉でした。


 しかし、少年はそう言わざるを得ない心理的状態になっていたのも事実です。こんな無様な状態で、少年は本来の言うべき言葉を、何も切り出せなくなってしまったからです。


 少年は布団から起き上がって再び驚かされました。ズボンのベルトが緩められ、ホックも外されただけでなく、自分には覚えのない体操着を着ています。しかも、胸には彼女の名前が刺繍されています。


 恥ずかしそうに固まってしまった少年に、少女は無言でシャツを差し出しました。


「びしょ濡れだったから、軽く洗濯して乾燥機にかけておいたの。余計なお節介で、ごめんなさい。」


 ますます少年は決まり悪い状況にあることを理解してしまいました。しかし、その一方では、少女の機転の効いた対応に改めて驚きました。


(まるで、あの時の理恵子みたいだ……、い、いや、ち、違う、違う……。)


 少年は、一瞬、中学の時の思い出を呼び覚まされそうになりましたが、急いで自らその思いを振り払いました。


 少年にとって、あれは理恵子とのかけがえのない思い出の筈であり、その出来事は余人を以ては代えられないものなのです。


「あ、ありがとう……ほんとに、迷惑をかけちゃったみたいだね。ごめん。」


 少年は、お礼を言って自分のワイシャツに着替えました。そのワイシャツと半袖インナーは、少年にはとても同じものとは思えないほどに、柔らかくふんわりと心地よく少年の身体を包み込み、更に、とても良い香りがしました。


 少年が脱いだ体操着を彼女が手にしようとした時、少年は先にそれを取り上げて彼女に言いました。


「ごめんなさい。これはぼくの汗できたなくなったから、ぼくが綺麗にクリーニングして返します。」


「いいわよ、体操着なんて汚れるもんだよ。洗わなくて良いから。」


 少女のその言葉に、少年はかすかなデジャブのような思いにとらわれましたが、少年は、まるで何かに取り憑かれたように、自然と次の言葉が口をついて出ました。


「いや、こんなに世話を焼かせた上に、雨で濡れたぼくの身体で、きみのベッドを汚してしまった。何もできないから、これだけでも気のすむようにさせてください。」


 言葉を返しながら、少年は不思議な感覚に襲われました。なんだか前にも似たような状況で、似たような会話をした気にとらわれたのです。


 そんな少年の必死な思いに、彼女もとうとう根負けしてしまいました。それに、少年からこんなにお願いされるなんて初めてでもあり、彼女はちょっと嬉しさも感じていたのでした。


「うん、分かった。」


 少女は笑顔で答えました。でも、ちょっぴり残念そうにも見えたのでした。


(慎一くんの汗なら、わたしは別に構わないんだけどな……。)


 少年は、ふと、何か懐かしい思いが蘇ったかのように、思わず聞き返しました。


「え? ……なに? 」


 自分のつぶやきが聞こえたかと思い、少女は笑顔で首を横に振ります。


「ううん、な、なんでもないよ。」


 しかしながら、結果的に、少年は、またしても彼女に一本も二本も取られてしまいました。少なくとも彼の意識の中ではそうでした。


 彼女は意識してはいないながら、常に、結果として少年の一歩先を能動的に進んでいるのです。今回も、そして、河川敷公園でもそうでした。


 この時点において、少年は、そこに気づくことが出来ませんでした。少年がそこに気づけば、少年には別の未来が開けたかもしれません。表面に現れている現象は違えど、実は、土屋朱美という女性は、少年が愛した三枝理恵子にもっとも似かよった女性だったのです。


 少年はレミねぇの影を慕いつつ、三枝理恵子に麗美の面影を見つけました。そして、その三枝理恵子の死後、彼女にもっとも近い少女を少年の前に使わしたもうたは、まさに天の配剤の妙でもありました。


 しかし、理恵子と同じく少年のことに理解の深い朱美の言葉は、それが正鵠を射ているだけに、結果として少年の反発を生むだけでした。残念なことに、その少女は土屋朱美であって、三枝理恵子ではありませんでした。最愛の人を失ったばかりの少年には、まだそれを理解出来るだけの余裕がありませんでした。


 電車の中で少年は、窓の外を眺めていました。


(……いいわよ、体操着なんて汚れるもんだよ。)


(……慎一くんの汗なら、わたしは別に構わないんだけどな。)


(……ううん、な、なんでもないよ。)


 少年は、最後に彼女とやり取りした会話が、なぜか頭にこびりついて離れません。少年は、ふと、何か大事なことを忘れているような、そんな気になりました。でも、それが一体何なのか、どうしても思い出せないのでした。


**********


「……ったく、どこほっつき歩いてんだか、受験生の自覚はあるのかね。」


 帰宅した少年は、母親から愚痴られながら、遅めの夕食を取って風呂に入り、この夜は勉強をせずに早く休みました。


 まだ、体のだるさが取れず、大事を取ったこともありますが、なんとなく、今日は勉強が手につかないような気がしたのでした。しかし、どうやら勉強だけではなかったようです。少年はどうしても寝付けません。


 少年は寝返りを打つと、机の上に置いたままの土屋朱美の体操着に視線を向けました。そして、ふとそれが気になって、ベッドから起き出し、それを手にとりました。


 少年はベッドに腰かけた状態で、その体操着をまじまじと見つめます。私立城東女子高等学校の校章が圧着のプリントで付けられたその下に、紺色の刺繍糸で「土屋朱美」の名前が縫い付けてあります。


 次に少年はまるでそうするのが当然であるかのように、その体操着に顔を埋めました。少年の鼻腔に、ほのかな少女の甘い香りがします。土屋朱美の香りでした。


(女の子のほんのり甘い香りがする……でも、理恵子の香りとはまたちょっと違う、甘い匂いだ。)


 いつしか少年はその匂いに夢中になり、気付かぬ内に、少年はその匂いを嗅ぎながら、右手で自分の肉棒を握りしめ、しごき始めていました。


(しゅっ……しゅこ……しゅっ……。)


(はぁ……はぁ……はぁ、……はぁ……。)


 少年は、初めて土屋朱美の顔を思い浮かべてオナニーをしていました。朱美が涙を浮かべて強引にキスをしたあの時、いま思い出せば、あの時の彼女の瞳は、美しく妖艶な雰囲気を醸し出していました。


 そして今日、少年は朱美が少年の世話をしてくれたことを思い出していました。少年の濡れた衣服を取り替え、体を拭き清め、そして青年のシャツや下着を甲斐甲斐しく洗ってくれました。


(しゅっ、しゅっ、しゅっ、しゅっ……。)


(はぁ……はぁ……あけみ……あぁぁ……。)


 少年はセーラー服姿の朱美の面影を追い、自分が唇を奪われた時に彼女を抱擁した時の感触を思いつつ、もう今更に右手の動きを止めることはかないませんでした。


 朱美の部屋で、朱美の布団にくるまれ、朱美の匂いに包まれた数時間前の出来事が、心地よい夢のように少年の官能を高めていきます。


(あっ……ああっ……い、いくっ。いくっ!)


(ずびゅっ!びゅるるる!)


 少年の先端から、激しい勢いで、すごい量のザーメンがほとばしり出てきました。まるで、今の少年が土屋朱美という女性に対する思いの深さを体現しているかのように。


 しかし、射精を終わった瞬間、その射精量とは裏腹に、少年はひどい罪悪感に襲われました。


 自分はなんて穢らわしい最低な男だろうか、別れようと決意しながら別れの言葉も切り出せない、それでいながらその女性の衣類をオカズに欲望のはけ口にしている。


(なんて奴だ。俺は誰でもいいのか。それじゃ、ケダモノと何も変わりないじゃないか……。)


 少年は激しい自己嫌悪に襲われてしまいました。


 三日後、少年は朱美の家に行き、体操着を返却しました。彼女は喜んで、家にあがるように勧めましたが、少年はまともに彼女と目を合わせることができませんでした。


 彼女のその体操着をオカズに自慰行為をした恥ずかしさは、少年の心に拭いようのない侮恨のシミを残していました。

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