第42話 麗朋(改)
とあるナイトクラブにて……つづき
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感情を消し去ったかのようなホステスの悲しい作り笑顔に、麗美は自分の無力さを恨みました。崩れるように膝をついたその女性は、床に手をついて涙に暮れるしかありませんでした。
「しんちゃん……、ごめんなさい……。もっと……もっと早く、あなたの苦しみに気付いてあげられたら……。」
女性の嗚咽する声が、そのクラブの中にしみわたっていきます。
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しかし、その時です。再びドアが開いて別の若い女性が入ってきました。
「先輩! 」
張りのある声をあげて店内に入ってきたのは、見違えるほどに立派な美しい大人の女性になった中村朋美でした。
(朋美ちゃん! あなたまで! ……どうして! )
そのホステスは朋美の出現に声をあげて叫びだしてしまいそうなほどに驚きました。かろうじて手で口を押さえましたが、その大きく見開いた瞳は、彼女の驚愕を余すところなく、伝えていました。
彼女は最初の動揺から立ち直り、ようやく感情を消し去ったものが、再びまた揺さぶられるかのごとく気を動転させてしまいました。
朋美は16歳の当時の面影をしっかりと残しつつ、美しく成長していました。髪の毛を伸ばし、たっぷり肩を覆うようにはなりましたが、まったく少女の頃と変わりなく、しかし、しっとりと成熟した大人の女性になっていました。
そのホステスにとって、今入ってきたこの朋美にも、決して今の姿を見せたくはなかったと思っている筈でした。彼女はつい顔をそむけ、大きく開けたドレスのあらわになった背中を向けました。
「ごめんなさい、しんちゃん。朋美ちゃんが私を訪ねてきてくれて……、朋美ちゃんから、すべて話しはお聞きしたわ。……大切な人を失って、本当につらかったのよね。……しんちゃんがつらい思いに苦しんでいた時、そばにいてあげられなくて、本当にごめんなさい。」
麗美は涙声になりながら、声も絶え絶えに言いました。それは、麗美にとって、8年前につらい別れを強いた愛する少年への懺悔であり贖罪の言葉でした。
そのホステスの脳裏に、猛烈な勢いで様々な情景がフラッシュバックしてきました。
……教室のなか、笑顔で挨拶をする少女
……床に横たわる同級生を、甲斐甲斐しく介抱する少女
……広場から少年の手を引いて駆け出す少女
……真新しい高校の制服に身を包んでいる笑顔の少女
……唇にクリームを付けて美味しそうにガトーショコラを頬張る少女
……恥ずかしさに顔を真っ赤にしている少女
……涙を浮かべて駄々をこねる少女
……純白のスリップ姿で抱きしめられている少女
……パソコンのモニターで笑顔で手を振る少女
そして、……大量の菊の花に囲まれた家族の集合写真で微笑む少女
悲しい思い出ばかりだと思っていたのに、どうしてか少女の明るい笑顔、いたずらな可愛い笑顔ばかりがとても印象的でした。しかし、それが余計にそのホステスの心を苦しめるのでした。そして、とめどなく内側から涙が次から次へと溢れ出してきて止まりません。
そして、また別の少女の笑顔が次々にフラッシュバックしてきます。その少女はどこまでも元気な笑顔のアップでそのホステスの脳裏に迫ってくるのです。
……駅の雑踏の中、ラブレターを突き出す少女
……カフェのテーブルで楽しそうに笑顔の少女
……友人たちの手を振りほどいてプレゼントを差し出す少女
……バレンタインのチョコレートを手に、笑顔の少女
……心から嬉しそうに抱きついてくる裸の少女
どこまでも元気に明るい少女でした。そして、次いで浮かんできたのは、少女が最後に見せた顔でした。しかし、それは少女が最初で最後に見せた激しい泣き顔でした。
それは、……河川敷の河原で、涙を浮かべて胸を叩きながら泣きじゃくる少女の姿でした。
その少女の泣き顔が、ホステスの心に切々と何かを訴えるように迫ってきます。そこに女性の声がかぶります。
「でも、朋美ちゃんのおかげで、私もあなたを探すことができた。その上で、私が朋美ちゃんに一緒に来てもらったの。もちろん、朋美ちゃん自身も、自ら望んで、自分の意志でここに来たの。」
朋美はホステスをまっすぐに見ながら力強く言いました。朋美は、4年前のように泣きじゃくるでもなく、ひたとホステスの顔を見つめます。
「先輩! わたし、あれからずっと、……そして、今でも、先輩を待っています。」
凛凛しい朋美の声に反して、形勢逆転したホステスの声は、もはや弱々しいものでした。
「今のわたしを見たでしょう。わたしはあなたの知っている先輩じゃないの。……慎一という子は、もう、この世にはいない、……いてはいけない子なの。」
そのホステスは半分体を戻しながら、でも、横向きの態勢のまま話しました。しかし、朋美の心からのその叫びは、そのホステスの身体を容赦なく貫きます。
「そんなこと、嘘です。わたしは信じません。……わたしを、……わたしを不幸にさせたくないと言った先輩の言葉は嘘だったんですか。」
朋美はずいっと前に進みホステスに近づきます。そして、たたみかけるように言葉を続けます。
「わたしを好きだと言ってくれた言葉も嘘だったんですか。」
「わたしを大事にしたいという先輩の言葉も、全部、全部、嘘だったんですか。」
「わたしを抱きたいと言ってくれた言葉は本心ではなかったとでも言うのですか。」
「理恵子さんとの約束を、先輩は守ってはくれないのですか。」
たたみかける朋美の言葉に対して、もはや抗しきれぬかのように、そのホステスは崩れるごとくソファーの上に腰を落とし、そのまま、首をうなだれさせてしまいました。
朋美はそのホステスに更に近づき、その目の前に腰を落とし膝をつきました。そして、ホステスの両手を自分の両手の手のひらで強く握りしめ、正面からまっすぐに目を向いて食い下がります。
「先輩は、理恵子さんと、おばあちゃんになるまでずっとずっと一緒にいると約束したんですよね。……わたしは理恵子さんの思いを受け継いで、先輩の愛を受け止めたんです。それなら、わたしがおばあちゃんになるまで、ずっとわたしのそばに居てください。」
それは理屈のすりかえかもしれません。しかし、あの聖バレンタインの日に愛を確かめ合った時、あの時の少年もその理屈のもとに朋美を愛したのです。朋美はホステスの手を強く強く握りしめながら、必死の様子でホステスに詰め寄ります。
「いえ、そんな……嘘じゃないし……、約束を破るなんて……。」
食い下がる朋美に顔を向けられないかのように、そのホステスは斜め下を向きながら所在無げに答えました。
しかし、朋美も必死です。朋美は慎一からの返事が来ないことを承知で、慎一が大学在学中の4年間、折に触れて手紙を出し続けました。卒業して間もなく、彼の消息が途絶えた時も、彼女は麗美のもとにすぐさま駆けつけて助力を請いました。
朋美はここで引き下がるわけには行かないのです。朋美にとって、これは4年前の少年の魂を救う戦いの続きなのです。あの時、まだ無力な少女だった朋美は、愛する人の胸で駄々をこねて泣くしかできませんでした。しかし今、朋美は理恵子と朱美の思いをも背負って、不退転の覚悟で麗美とともにこの場に来たのでした。
ここを先途と、朋美は間髪を置かず、涙に声を震わせながら、更に容赦なく畳み掛けます。
「それなら、わたしを幸せにしてください、わたしを大事にしてください、……わたしがおばあちゃんになるまで、ずっと一緒にいてください。……先輩に思いを残して逝ってしまわれた理恵子さんのためにも……、」
朋美は握る手にひときわ力を込めて絶叫します。
「わたしを愛してください! 」
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この時、突然の修羅場? にあっけにとられた色物ホステスが、気持ちを取り直してここぞとばかりに反撃に出ようとします。
「なんなのよ、あんたら。レンホーちゃんをいじめに来たんかい。客じゃないんなら出てってんか! 痴話喧嘩なら店を閉めてからにしろ! オカマをバカにすんなよ! 」
しかし、空気を読めない先輩ホステスの援護射撃も、ママの一喝であえなく退場を余儀なくされました。
「ややこしくなるから、あんたは引っ込んどき! それに、何べん言ったら分かるんかい、どっかのグラビア上がりの政治家じゃないんだから、レンホーじゃないよ、レイホーちゃんだよ。麗、朋、ちゃん。」
二人の女性闖入者の前のテーブルに、さりげなく、ママが麗朋の源氏名を書いた名刺を置いて言いました。
「え! 」「え! 」
その名刺を見た二人は、その名前にささやかな驚きと希望を見出しました。ふたりはその名刺に、それぞれ自分たちの名前の一文字を入れてくれていたことにかすかな嬉しさを感じるとともに、その人を自分たちの元に取り戻す希望を見たのでした。
いえ、そのホステスの過去も何もすべてを知っているママが、それを承知でそこに意図的に見せるように置いたのでしょう。
そして、その二人を尻目に、とうとうそのビッグマムが出てきました。逃げ場を失っているホステスの前で、そのビッグマムが吠えます。
「麗朋、もういい加減にしな。……どのみち迷惑なんだよ、お店にトラブル持ちこまれちゃ。……いいかい、もう、あんた、明日から来なくていい、クビだよ。」
「え! そんな! ……ママ! 」
突然のクビ宣告に、そのホステスは悲痛な驚きを隠せません。今の彼女にはそのママやお店の先輩たちが唯一の家族でした。いったいその彼女に他のどこへ行けというのでしょう? そんな彼女の動揺がありありと見てとれました。
「ママ、なに言ってんの~! レンホーちゃんがいなくなるなんてヤダヤダヤダ~! 」
先刻の色モノ系のお姉さんも、突然の展開に驚き叫び、他のお姉さんたちも、意外なビッグマムの言葉にざわついています。新入りのそのホステスが、どれだけ先輩のお姉さんたちから可愛がられているのかが、その場にいる麗美や朋美にもよく窺えました。
「あんたら、おだまり! 」
ビッグマムの一喝で、一瞬に店内のホステスたちはシュンとします。そして、皆、目の前の客の相手も忘れて次の展開をじっと窺っていました。
異様な雰囲気に包まれた店の中でしたが、しかし、その後に続くビッグマムの言葉は、当然と言えば当然の言葉でした。この業界ではともかく、一般社会的には。
「いいかい、戻れる内に戻りな。あたしらみたいになってからじゃ遅いんだよ。……あんたにゃ、帰る場所があるじゃないか。そこに迎えてくれる人がいるじゃないか。……わたしらとは違う。」
そう言ったビッグマムの瞳がさびしげに映っていたいたことは、目の前のホステス以外には誰も窺い知れないものでした。
そして、次にそのライターもどきの常連客を横目でジロリと睨んで言った言葉、経営者としてあまり客に私情は挟まないママでしたが、その言葉は今のママにとっては、かなり本心だったでしょう。
「……それと、ヤマちゃん、あんたもうここ出禁ね、こんな疫病神あったもんじゃないわ。せっかくのニューフェイスを台無しにしやがって。」
「いやいや、ママ、それはないでしょう~~~~~~。」
「そ、そんな……ママ……ママまで、わたしを見捨てるの……。」
そのホステスは両手で口を覆い途方に暮れたようになってしまいました。
「麗朋、あんた、まだ竿もあるし、玉も取ってないだろう。今の内だよ。……いや、麗朋じゃないね。慎一くん、元気でいろよ。もう二度とこんなとこに来んな。」
そう言って、特にそのホステス肩を抱いて慰めるでもなく、ビッグマムは話しを打ち切ります。ビッグマムその人も、感情の高ぶりを必死で抑え込んで平静を装っていたからだったかも知れません。
「……ほら、みんな、もう終わりだよ。何やってんだい、見せもんじゃないんだ、とっとと酒、飲みやがれ。クソ面白くもない! 」
ママは優しくそのホステスに別れを告げましたが、手を叩いて店員たちに喝を入れてるママも、振り返ったその顔には、やはり隠しようもなく寂しそうな様子をたたえていました。店のお姉さんたちは知っていました。誰あろうママが一番、麗朋を可愛がっていたことを。
呆然として床に崩れ落ちたそのホステスに、二人の女性が寄り添い両側から肩を抱きしめました。そして、ふたりはママの背中に深々と頭を下げていました。
二人は涙ぐんでいましたが、そのホステスもボロボロに涙を流して何も答えることができませんでした。
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両脇のふたりが、優しい目で、真ん中にいる美しいその青年を、泣き濡れる慎一を見つめます。
「おかえり、しんちゃん。」
「おかえりなさい、先輩。」
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