第14話 祝宴の別れ
数日後、おばさんの結婚式当日は、見事と言えるほど、雲の欠片も見えない青空となりました。
少年は学生の正装がそれであるように、黒い詰襟の男子学生服姿で式に出席しました。少年が久しぶりに会うおばさんは、少年が今まで見たこともないような美しいウエディングドレスで着飾り、いつも以上の美しさを誇っていました。
結局、おばさんからの手紙もメールも、この日まで少年のもとに届くことはありませんでした。でも、あの紙クズの山を見た少年には、おばさんの心情はすべて分かっていました。もちろん、出せないほどに苦しみ悩んだおばさんの心情も、少年にはうかがわれたのです。今の少年にはそれが十分すぎるほどの、おばさんからの思い出の置き土産になりました。
でも、手紙をどうしても出せなかったという後ろ髪を引かれる思いを抱いているであろうおばさんに、その後悔の念を払拭せしめるためにも、少年はおばさんに声をかけて祝福してあげなければなりません。それが少年に課せられた責任なのであり、いままでたくさんの素敵な思い出をくれたことへの感謝の思いを行動で示さなければなりません。
少年は親族控え室で久しぶりにおばさんと会いました。少年はあらかじめ決心をしていたように、深く深呼吸をして気持ちを落ち着けると、おばさんに自ら近づき、笑顔でおばさんに話しかけます。
「レミねぇ、おめでとう。とっても綺麗だよ。」
おばさんは、驚いたように少年を見返しました。
瞬間的に、内心は戸惑っていたようでしたが、おばさんは努めて冷静に、そしていつもの優しいにこやかさで返事をしました。
「ありがとう。しんちゃん、……本当にありがとう。」
少年はにこやかに答えます。
「ぼく、もう大丈夫だから、もう、心配しないで。……レミねぇ、幸せになってね。」
一瞬、おばさんは驚いたような表情を見せましたが、次の瞬間、涙ぐみそうになりました。
「泣き虫だなあ、まだ泣く時じゃないぞ、レミねぇ。しっかりしろよ。」
少年はいつもの仲良しな気安い口調でおばさんをいじります。でも、その少年のいつもの気安さがおばさんの気持を和らげてくれました。
「言ったなぁ、分かってるよ。」
おばさんはちょっとぐずって目尻を押さえながら、本当に嬉しそうに、少年に笑顔で答えたのでした。
おばさんは、人生の晴れ舞台を迎えている筈ながら、それまで鬱々として、なぜか心から晴れやかになりきれませんでした。親族の食事会にも少年は来てくれず、「あの野郎、いじけて来ねえんだよ。」と言った少年の父親の軽い言葉が、彼女には重苦しくのしかかっていたのでした。
……でも、今、目の前の少年から笑顔で言われた言葉が彼女にはどんな祝福の言葉よりも何より嬉しく、これ以上はない元気と勇気をいただけたのでした、
(ありがとう、しんちゃん。……本当におとなになって、強くなったんだね。もう、お姉ちゃんは貴方には必要ないね。しんちゃん、……ありがとう。)
**********
神前での結婚式が粛々と進み滞りなく終了しました。そして、休む間もなくすぐに結婚披露宴が大広間に会場を移して華やかに進んでいきます。
おばさんは、時折、少年の方にさりげなく視線を向けて少年を見ていました。すると、少年はいつもおばさんに視線を向けて、笑顔で見つめ返してくれています。少年はずっと見続けていたのか、彼女が視線を向けると、常に満面の笑みで応えてくれました。
来賓の祝辞、ケーキ入刀、友人達のお祝いの余興、キャンドルサービス…等々、祝宴は華やかに賑やかに続き、両親への花束贈呈がおごそかに営まれ、そして、両親への感謝の言葉では、おばさんも涙を潤ませていました。そんな彼女を常に少年はにこやかにみつめていました。
披露宴も滞りなくつつがなく終了し、新郎新婦と両家の両親による来賓者へのお見送りも無事に終了しました。
少年は、披露宴会場外のロビーの端にあるソファに座っていて、所在なさげに帰りの時を待っていました。その時、ウエディングドレス姿のおばさんが、ドレスの裾を揺らして少年に近づいてきました。
新婦は、ソファに座る少年に正対し、膝を折って目線の高さを合わせ、少年の膝に右手を添えました。
「しんちゃん、ありがとう。」
新婦は満ち足りた笑顔で優しく少年に微笑みかけます。
「うん、レミ姉ちゃん、良かったね。幸せになってね。」
二人だけの会話を、それと察した新婦の姉でもある少年の母親が、気のきかない朴念仁の父親を連れて親族の控え室に行きました。新郎もまた、新婦が可愛がっていたという中学生の甥っ子との別れを察して、場を外してくれたようです。
「お姉ちゃんは、しんちゃんがとっても大好き。いつまでもしんちゃんとふたりでいたかった。……でも、いつか、今までのように仲良くふたりだけではいられない、お別れの時が来ると思っていた。」
おばさんはそこで言葉を区切ると、言葉を改めました。そして、柔らかな微笑みを隠し、少年の瞳をひたと見つめながら言葉を続けます。
「でも、わたしは、貴方と一緒に過ごした今日までの日のことを絶対に忘れない。わたしが大好きになった貴方の思い出の中に、ほんの少しわたしの影を残してくれれば、それだけでわたしは嬉しいの。……貴方を心から愛した一人の女として、最後に貴方にちゃんとお別れが言いたかった。」
おばさんは一人の女として、一人の愛する男に、最後の別れの言葉を送ったのでした。
「……レミねぇ……。お姉ちゃん……。」
少年は、それまでにこやかに平静を保っていた表情を、にわかに崩していきました。そして、ボロボロと涙を溢れさせていきました。
「うっ……うっ……ひどいよ……最後にそんなこと。……大好きなレミねぇを、……これ以上、悲しませたり、心配させちゃいけないと思って……。うっ……ううっ、うっ……だから、レミねぇを、笑顔で見送らなきゃいけない。……いっぱい、いっぱい考えてそう決めて、……頑張って、頑張って、我慢してきたのに……。」
少年はひくひくとえずきながら、とめどなく溢れ来る涙を押さえることもできぬまま、涙で顔をぐしゃぐしゃにしています。
「レミねぇを笑顔で送り出して……ぼくは、ぼくは今でも、レミねぇと離れたくないのに、……でも、でも、もうわがままは言わないと決めて……それなのに、それなのに、……今更、そんなこと言うなんて……ひどいよ……うっ……ううっ……。」
感極まって涙が止まらなくなってしまった少年の頭に手のひらを添えて、おばさんは優しく答えました。
「……だからよ。……しんちゃんが、頑張って笑顔で応えてくれたから。笑顔でわたしを送ってくれたから……だから、わたしも、……お姉ちゃんじゃなくて、……ちゃんとした大人の女性として、大人になった貴方に応えたかったの。……だから、泣かないで……ほんとに、慎一くん、ありがとう。」
おばさんは、右耳の上から右手で髪を後ろに流しながら、ゆっくりと少年の唇に自らの唇を重ね合わせました。
「! 」
その瞬間、少年は、驚きで瞳を大きく見開きました。柔らかいおばさんの唇を感じ、おばさんの素敵な香りとレースのブーケに包まれて、少年は硬直してしまいました。
本当ならば、このまま永遠に時間が止まってほしい…とでも願うのでしょう。でも、少年にとってはまったくの予想外の不意打ちのおばさんのキスでしたから、少年はただただ驚くばかりで、頭の中が真っ白になって涙も止まってしまいました。
そして、おばさんはゆっくりと唇を離しました。心なしか頬を赤らめて……。
「私も、……もう、心残りはないわ。貴方に、ようやく本当の気持ちを伝えられたから。……慎一くん、ありがとう。……そして、いつまでも愛しているわ。……さようなら、わたしの大事な……足立慎一。」
そう言いながら、おばさんは少年の首に両腕を回して抱擁しました。まだ、少年は硬直したままです。
そして、おばさんはゆっくりと身体を離すと立ちあがり、くるりと少年に背を向けました。
そのまま、少年の最愛の女性は後ろを振り返らず、ロビーの反対側に歩いていきます。しかし、そこに待っているのは、女性が心から愛した少年ではなく、女性がこれから愛情を注ぎ、愛を培っていくであろう別の男性、新郎が待っているのでした。
でも、その時、その美しい花嫁の目尻に、なぜか涙がにじんでいたということは、少年にも分かりませんでした。
少年は大切な人との別れを、辛い別れを経験して、少年から大人へと昇る階段に、一歩、足を踏み出したのでした。
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