第40話 過去との訣別(改)

(これまでのあらすじ……)


愛する麗美おばさんとの辛い別れを経た少年は中学生活の中で思いを募らせた理恵子と愛を育てますが、高3の春、理恵子は異郷の土地で不慮の事故死を遂げました。その前後、理恵子の死に責任を感じる少年の前に朱美という少女が現れますが、少年は心を閉ざし朱美と別れます。その後、受験勉強に集中する道を選んだ少年に、後輩の朋美はどこまでも少年を慕い信じ続けます。聖バレンタインに少年のもとへ合格祝いに駆けつけた朋美を、一旦は突き放そうとした少年でしたが、その熱意に心を動かされ、朋美にこれまでの経緯を語るのでした。そして、朋美は不慮の死を遂げた理恵子に思いを遂げさせてあげるため、自らの身体を投げ出す決意をします。その朋美の献身により、遂に慎一と理恵子はかたく結ばれたのでした。そして、理恵子への思いを果たした慎一は、どこまでも慕ってくれた朋美に心からの愛情を注いだのでした。


**********


 慎一と朋美が遂に結ばれた翌日の朝早く、慎一は朋美とふたりで人気のない河川敷にいました。まだ残雪の残る肌寒い初春、空は高く、澄みきった青さをたたえていました。


「こんな朝から付き合わせてごめんね。でも、朋美には、ぜひ一緒に見届けてほしかった。」


 堤防上を走る道路の駐車帯に自転車を置き、ふたりは堤防から河川敷に向かう階段を降りていきます。


「いいえ、嬉しいです。私も、理恵子さんをちゃんとお見送りさせていただきたかった。」


 そう言いながら、朋美にはまだ一抹の不安がありました。


 昨日は朋美にとり、思いを遂げた最高の日でした。しかし、その興奮から醒めた後、朋美には慎一のことがとても不安でなりませんでした。純粋で優しくて、壊れそうな心を持った慎一のこれからに、朋美はまだ安心してはいなかったのです。


 というのも、慎一が自分の思いを受け止めてくれた時の言葉に、朋美はずっと違和感を感じるものがあったからです。あの時、真一は確かにこう言いました。


(……きみはぼくの初めての人になる、そしてきみにとってもぼくが初めての人だね。……そしてぼくにとっての最初で最後に人になる。)


 ……と。『最初で最後の人』……それはどういう意味だったのか。『最後の人』……つまり、少年は、朋美を最後に、もう、女性とは誰とも愛し合わないと言っているのか?それとも、朋美以外の他の女性は愛さないというのか?


 これから、朋美だけを愛するという宣言ならば、それは朋美にとってこれほど嬉しいことはありません。しかし、どうしても単純にそうは受け取れませんでした。


 だからこそ、昨日、慎一の家を出る時、この日の約束を慎一から申し出られたことに、朋美は一も二もなく承知して、自ら望んでこの場に来たのです。


 慎一はスポーツバッグを肩から掛けて、朋美の前を黙々と歩きます。ふたりはすぐに河川敷の河原に到着しました。


 暖かい季節の天気の良い祝日には、家族連れでバーベキューなどをする市民憩いの場所ですが、今はまだうっすらと雪が残る初春の河川敷であり、ふたり以外にはまったく人影もありません。


 慎一は手頃な石を組み上げて即席の竃を作り上げようとしています。朋美も石を拾い、竈作りを手伝います。二人は無言で作業を続けました。時折、ふたりが視線を交わすと、お互いに微笑み合い、まるで砂場で砂山を作る無邪気な幼稚園児のようでした。


 そして、不恰好ながら一応の竈が出来上がると、慎一は河原に置いたスポーツバッグの中から、持ってきた理恵子の制服とスリップ等の下着、麗美のスリップを取り出しました。


 新聞紙を軽くくしゃくしゃに丸めたものを竈の下側に敷き詰めて、その上に制服と下着を丁寧に置きました。その中には、理恵子が死んでから慎一のもとに届いた理恵子のスリップやブラジャーもありました。


 それらのすべてを、丁寧に仮設の竃の中に並べると、慎一は、持参してきたペットボトルに入れてきた灯油を、満遍なくその制服とスリップに掛け回します。


 厚手の制服の中にまで十分に灯油を染み込ませるよう、ゆっくりと入念に浸していきます。そして、生地全体に灯油が染み渡ったことを確認すると、慎一はライターを取り出しました。


 慎一が朋美に振り返ります。朋美が頷くと、慎一もそれに応えて、軽く笑みを浮かべて頷きました。


 そして、慎一は理恵子の笑顔を脳裏に思い描きます。


(……理恵子、今日までありがとう。もう、ゆっくりお休み。)


「いくよ。」


 それが、朋美に言った言葉なのか、自分に掛けた言葉だったのか、……朋美は、それが理恵子に対する別れの言葉ではなく、今までの様々な辛い過去に対する訣別の言葉であると思いました。そうであってほしいと、朋美は思うのでした。


 慎一は紙切れにライターで火をつけると、それを竈の中にほうり投げました。灯油が染み渡った理恵子の制服は勢いよく炎を立ち上げ、瞬く間に全体が炎に包まれました。


 炎を上げる竈の前に立ちすくむ朋美は、その炎に向かって手を合わせました。恐らくは、朋美は朋美なりに、理恵子に向かって心の中で問いかけているのかもしれません。


 もちろん、朋美が理恵子に語りかける言葉は慎一のことに他なりません。


(理恵子さん、……どうか、どうか、慎一さんを助けてください。わたしには、どこまで出来るか分からない。わたしに何がしてあげられるのでしょうか。……理恵子さん、お願いします。)


 慎一には、理恵子の冥福を願っている姿に見えたことでしょう。慎一は、そんな朋美の仕草を一瞥して、朋美の素直な心情を微笑ましく思い、朋美にならい自分も炎に向かい手を合わせました。


 しばらくの間、炎を上げる竈の前で、二人は手を合わせて佇んでいました。


 間もなくして炎が落ち着くと、ふたりは膝を曲げ、その炎の前で無言で燃え盛る炎をじっと見つめていました。赤々とした炎が二人の顔や頬を赤く染めていきます。二人はその炎を飽くことなく見つめていました。


 ずっと無言で炎を見つめていた二人でしたが、先に沈黙を破ったのは慎一の方でした。慎一は炎に視線を向けたまま呟くように話を始めました。


「ありがとう、一緒に理恵子を見送ってくれて。理恵子のお葬式にも行ってあげられなかったけど……これでぼくにも、ようやく区切りがついたよ。」


 慎一は理恵子が葬られたお墓も菩提寺も知りません。葬儀にも出なかった慎一は、喪主を務めたであろう理恵子のお父さんの縁戚も知りません。葬儀社にも行きましたが、身内でもない素性の知れない少年に、個人情報に当たることなど教えてはくれませんでした。


 たとえお墓参りができたとして、そこに愛する人はいない……慎一は、そう思うようにしていたのですが、しかし、そのことは、ずっと少年の心の中に小さな小骨として突き刺さっていたのでした。


 一方の朋美は、慎一の言葉を待っていたかのように、慎一に今まで言わなかったことを話しはじめました。


「先輩には言ってませんでしたが、わたし、理恵子さんのことはよく知ってました。先輩とは小学校が違いますが、わたしと理恵子さんは小学校が一緒で、通学の時にはいつも一緒に集団登校していたんです。優しくて明るいお姉さんで、わたしも大好きでした。」


 少女は、懐かしいお姉さんの顔を思い出しているかのように、じっと炎を凝視していました。


「だから、わたし、先輩と理恵子さんのことを信じてこられました。わたしの大好きなふたりだから、絶対に……。」


 少年は特に驚く風でもなく、むしろ得心がいったような表情で、少女の話を頷いて聞いていました。


「そうか、きみも理恵子のことをよく知っていたんだね。ぼくにも、昨日、理恵子が教えてくれた。きみのことを、とても良い子だよ、……とね。」


「え! 」


 理恵子が教えたという言葉に朋美は驚き、思わず顔を慎一の方に振り返らせましたが、慎一はそれに構わずに言葉を続けました。


「それに理恵子はこうも言ってた。『朋美のことを大事にしてあげてね』と。」


 朋美は慎一が夢の中で幻覚を見たのかもしれないと思いました。でも、慎一の夢に理恵子が現れたなら、確かに理恵子がそう言ったのだろうとも確信しました。やはり、慎一と理恵子は見えない糸でつながっているのだと。


「理恵子の言った通りだよ。ぼくは朋美のおかげで女性を愛することができた。それに、朋美のおかげで、女性の本当の素晴しさも、ほんのちょっぴりだけかもしれないけど、分かったように思う。……それに、理恵子だけじゃない、きみたち、素晴らしい人達の存在もぼくに気づかせてくれた。」


 慎一は炎を見つめながら、わずかに頬笑むように言いました。


「それも、全部、朋美のおかげだよ。朋美に出会わなかったら、ぼくはこのまま東京に出て、悶々としたままどうなっていたか分からなかった。」


 朋美は目を輝かせて慎一の顔を見つめました。


「それじゃ、先輩! ……大学に行っても、ここに戻ってきてくれるんですね。わたし、この街で先輩の帰りを待ってていいんですね。」


 しかし、それに対する慎一の言葉は朋美を絶望させるのに十分な言葉でした。慎一は表情を変えず、炎を見つめたまま話します。


「それは別なんだ。ぼくは愛した人を不幸にする男のようだ。理恵子と家族を死に追いやり、レミねぇと朱美にはつらい思いばかりさせた。たとえ理恵子たちがぼくを許してくれても、ぼくはそんな自分を許せない。」


「そ、そんな……。」


 朋美は愕然としました。今日、慎一は過去と訣別して、自分と新しい歩みを始めてくれる……そんなムシのいい甘い願いを期待していたわけではありません。でも、せめて、愛する者を失った喪失感からは立ち直ってくれるのではないかと淡い期待を持っていました。


 今の今まで、朋美は慎一を、見誤っていました。慎一の深い嘆き悲しみの根底にあるのは、愛する人を失った喪失感だけではなかったのです。


 朋美はこの時、初めて気づきました。慎一が許せないのは自分自身なんだと。そして、慎一はまだ自分を許してはいない。彼は、愛する者たちを不幸に追いやった足立慎一という男の存在を憎んでいるのです。


 そのことに朋美は気づいたのです。朋美が漠然と感じていた不安感は、まさに的中していたのでした。


「……それに久美ちゃんとの約束もある。……理恵子と約束した『きみを大事にする』ということは、きみを不幸にしないよう、ぼくがきみの前から姿を消すということなんだ。」


 朋美は呆然としました。お互いに愛し合っているのならば、なぜ、別れなければならないのか? 朋美には慎一のその考えが理解できません。しかし、この同じ疑問に、かつて麗美や朱美もまた同じように悩んだことまで、朋美には知るすべもありませんでした。


「今はまだ分からなくとも、きっと分かる日が来るよ。」


 慎一は、初めて炎から目を離し、少女に顔を向けて話しました。それは、はかなげに安らかな笑顔でした。


「いやです。そんなこと、分かりたくない。」


 そう言って、朋美は慎一の体に飛びついて抱きつきました。そして、その勢いで河原の上に倒れこんだ慎一にしがみつき、駄々をこねる赤子のように、泣きながら慎一の胸を叩き続けます。


「いやです……ううっ……うっ……いやだ……うっ……わからない……わかりたくない……ううっ……えっ……えっ……。」


(慎一という男の存在が、朋美をこんなにも悲しませる……こんな無垢な少女の心さえも傷つける、そんな男は、この世から抹殺しなければならない……。)


 河原の丸石があちこちに散在する場所に寝転んだ格好の慎一の背中に、その丸石が痛い程に食い込んできました。


 でも、慎一にはその数倍する心の痛みに呻吟している目の前の少女の悲しみを思う時、せめてこの背中の痛みくらいは自分に対するささやかな戒めかもしれないと受け止め、朋美に思うたけ好きにさせてあげようと思いました。


「せんぱい……ううっ……行かないで……うっ……うっ……いやだ……どこにも……えっ……えっ……戻ってきて……。」


 慎一の目の前で嘆き悲しむ少女の姿は、中村朋美であるとともに、慎一にとっての麗美であり、理恵子であり、朱美なのでありました。


 理恵子の制服がまだゆらゆらと燃え続けています。慎一は、せめてこの炎が完全に燃え尽きるまで、少女との最後の時間を共にしようと思ったのでした。

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