第43話 少女の介抱(改)

(これまでのあらすじ……)


愛するおばさんとの辛い別れを経た少年は中学生活の中で思いを募らせた少女と同じ道を歩み始め、高校に進学して絆を深め合います。しかし、高校3年の春、愛する少女は遠く異郷の土地で不慮の事故死を迎えました。少女の死に責任を感じ自らに戒めを課した少年の前に、1人の少女が現れます。最初は反発した少年団でしたが、心の垣根を外して話しこんだ少年の悲壮な様子に、少女は我を忘れて少年に飛び込み口づけをしてしまいました。しかし、それは甘いものではなく、少年への叱咤とでも言うべき強いメッセージでありました。その後、少女としばしば交際を続けていた少年は、理恵子の事件の際に知り合った麗美ねぇの友人でもある女性記者と会いました。その時、新聞記者から言われた言葉に少年はショックを受けました。自分はあれほど愛し合った理恵子のことを忘れてしまったのか。大好きだったおばさんの思い出も含め、自分の愛とはそんなものだったのか、少年は愕然としたのです。


**********


 9月の末、もう残暑も遠のき、秋雨前線が活発さを増して、日本中が寒く冷たい雨模様に覆われはじめた時、少年は住所を頼りに土屋朱美の自宅マンションへとやってきました。


 前に南部中学出身とは聞いていたので、それなりに市内からは離れているとは思いましたが、電車でふたつくらい駅を過ぎて、もう隣の市に行くんじゃないかというところまでやってきました。


 ワイシャツを小雨に濡らした少年は、住所は知っていて、ピンポイントでマンション前までは来たものの、初めてくる場所で次はどうしたらいいか戸惑ってしまいました。


(どうしよう。せっかく、ここまで来たのに……ぼくは何をやっているんだ。)


 傘もささず長い時間をそこにそうしていた少年は、身体全身がぐっしょりと濡れてしまいました。その間、少年が頭の中で思い描いていたのは、理恵子との日々でした。


 中学時代、理恵子のマンションの前で理恵子から頬をはたかれた懐かしい思い出が、別のマンション前なのに、こうしていると不思議と鮮やかに甦ってきます。


 マンション前の歩道フェンスに腰をかけて、少年は何も出来ないまま雨に濡れていました。夕方となりいよいよ薄暗くなっていくなかで、塑像のように固まっていた少年は、ようよう腰を上げようといたします。


(もう、帰ろう……。)


 その時でした。傘をさしてマンションに帰ってきた土屋朱美が少年に気づき、驚いて駆け寄りました。


「どうしたの、慎一くん。来てくれたの?でも、ひどくずぶ濡れじゃない。」


 思いを決めてやって来た筈なのに、もう帰ろうと思ってしまったために、最初の決意はどこへやら、少年は不必要にうろたえてしまいました。


「いや、ぼく、きみに言わないといけないことが……。」


 少年は雨に濡れた状態でそう言いましたが、その言葉は、やや、しどろもどろだったかもしれません。しかし、腰掛けたフェンスから立ち上がった少年は、足元がおぼつかないような状態でフラフラしています。言葉足らずだったのは、どうやら決意が鈍ったためだけではなかったようです。


 自分ではしっかりと立とうとする意識が強いのでしょうが、そこで足を踏ん張ったがためにバランスが取れず、少年は歩道にがっくりと倒れて手をついてしまいました。あわてた少女が傘を投げ出して少年に駆け寄りました。


「慎一くん、どうしたの!大丈夫!」


「大丈夫だよ。」


 少年は、彼女の手を振りほどこうとしましたが、よく力が入らないのか、緩慢な動きにしかなりません。少年は瞳の焦点も定まらない様子で、表情全体がぼうっとしています。


 その様子から少年の体調に異変を察知した少女は、少年の身体を抱えたまま、右手を少年の頭に当ててみました。


「ひどい熱じゃない!慎一くん、しっかりして!」


 驚いた少女はすぐに機転を利かせて現実的な妥当な対処をしました。つまり、少年の右腕を自分の肩に回し、左腕で少年の身体を支えて、マンションの中に連れていきました。そして、そのままエレベーターに乗り、少年を自宅まで連れていったのでした。


(理恵子……大げさだなぁ……ちょっと休めば……大丈夫だよ……。)


 意識の混濁した少年は、中学時代のことを思い出したのか、右腕を少女の肩に貸した自らの状況を、かつての情景にだぶらせていました。


 少女の家にたどりつくと、彼女は少年を自分の部屋の中に入れてベッドに寝かせました。


 少年は、朦朧としながらも、つい今しがたまで意識を保っていましたが、しかし、ベッドに横になったことで体が楽になったのか、そのまま眠りについたようでした。


(どうしよう……でも、このままびしょ濡れのまんまじゃ、まずいよね。ほんとに風邪をひいちゃうよ。)


 少女はどうして良いのか分かりませんでしたが、とにかく、ずぶ濡れの少年のワイシャツを脱がそうとしました。そうして、ワイシャツの上のボタンに手をかけた時、少年の唇が目に入り、ついドキリとしてしまいました。


(前に一度、キスしたじゃない。中学生じゃないんだから、なに、こんな時にドキドキしてんのよ、もう! )


 少女は目をつむって首を振り、ワイシャツの上のボタンから手探りで下へ下へとボタンを外していきました。そして、少年の手を片方ずつ持ち上げながら、なんとかワイシャツを脱がせると、部屋のチェストの引き出しから持ってきた自分愛用のバスタオルで身体を拭き始めました。


 でも、少年が中に着ている半袖のインナーも、ワイシャツからしみた雨でびしょびしょになっていて、少年の肌に貼り付いています。少女はこのままバスタオルで身体を拭いても意味がないことにようやく気づくと同時に、次に何をしなければならないかに思いが至った時、改めて自分も熱が出たかのように顔を真っ赤にしてしまいました。


(シャツも脱がさなきゃ……いけない……よね。でも……え~い、ままよ、女は度胸、いちいち男子の裸にキャーキャー言ってらんないよ。)


 少女は顔を真っ赤にしながら、少年のシャツを脱がしにかかります。ワイシャツと違い、下からめくりあげるだけですから、さっきよりは余程に簡単です。


 しかし、父親以外で男子の胸板をこんなに間近で見るのは、女子高に通う彼女にとって初めてのことです。いえ、中学校のプールの時間だって、こんなに近くでまじまじと男子の胸板を見ることはありません。


(そう言えば、中学では柔道をやっていたんだよね。小柄なのに、意外に硬い……。)


 少年の身体を甲斐甲斐しく拭いて世話をしながら、少女は不思議な充足感と幸福感に満たされていました。


 少年の体についた水分をほとんど拭き去った時、少女は少年の胸の前でタオルを持つ手が止まります。そして、ゆっくりと少年の胸に顔を寄せ、左の頬を少年の肌に優しく横たえたのでした。そのまま、少女の両手は、少年の体に添えられていきます。少女は自然な流れで少年の身体に甘えてしまったのです。


(ずっと、このままでいたいな……。)


 そんな風に少女がささやかな幸せを噛み締めている時でした。


「……りえ、こ……りえこ……。」


 それは熱に浮かされた少年のうわごとでした。でも、たったそれだけの言葉でしたが、それは少女を現実に引き戻すには充分でした。


(なにやってんだろ、わたし……。バカみたい……。)


 ちょっと寂しそうな表情を見せた少女でしたが、気を取り直し、タンスの中から白い半袖の自分の体操着を取り出して、代えのインナーの代用として少年に着せました。


 体操着ですから、ややゆったりとしたサイズでもあったので、寝たままの状態であっても、少年の頭からかぶせて、袖に片腕を通していくのに、それほど難しいことはありませんでした。でも、その着替えの作業は、脱がせる時よりも体をより密着させる作業でもありましたが、少女はそんな献身的な作業に不思議な充実感を感じていました。


 もちろん、少女の体操着ですから、左胸には城東女子高の校章と、その下に少女の名前が刺繍されていました。そして、少女はいつも自分が使っている毛布を少年の身体に掛けたのでした。


 少女は少年のワイシャツとインナーを持って洗濯機に向かいます。でも、そこで少女はふと立ち止まり、少年の衣類に顔を埋めてみました。たった今、少年と体を合わせて着替えさせた時に感じた、汗とは違う少年の男の香りがほのかに少女の鼻腔に届きます。


 しかし、図らずも異性の匂いを嗅いでいるという行為に顔を赤くしてしまった少女は、すぐにその衣類から顔を上げて、プルプルと顔を横に振り、洗濯機にシャツを放り込みました。


(……でも、良かった。いつもお父さんは遅いから良いけど、お母さんも親戚の法事に行って留守だったから。)


 少女は洗濯機のタイマーと、自動乾燥機のセットをして、少年の眠る部屋にいそいそと戻りました。


**********


 少年は夢心地の中にいました。目の前には甲斐甲斐しく理恵子が少年の身体を拭いて介抱してくれています。


(ごめんよ、理恵子。ぼく、中学の時みたいに、また熱中症で倒れちゃったのかな。)


 理恵子は甘えん坊な少年に、いつもの優しい笑顔で答えます。


(いいんだよ。あの時から、しんちゃんの面倒をみるのはわたしの役目だから。)


 あの時とは、もちろん、中学三年の時のあの夏の日の放課後のことです。理恵子は少年の世話をするのが心底から嬉しくてたまらないような笑顔で、少年に微笑んでいます。


(理恵子、ひとつ、お願いして良い? )


 少年が甘えるように言いました。


(なあに? しんちゃん。)


 少年が大好きな小首をかしげるような素振りの微笑みを浮かべ、少女が尋ねます。


(ぼくにキスして。)


 少女はコロコロと笑って答えました。


(ほんと、甘えんぼなんだから。元気になったら、しんちゃんが嫌だって言っても、いっぱいしてあげるから。……どう、あったかい? )


 そう言って少女はふわふわに起毛した柔らかい毛布を少年に掛けてくれました。


(あぁぁぁ……、とっても気持ちいいよ……。あたたかくて、いい匂いに包まれて……ぼくは理恵子といる時が一番、幸せなんだ……。)


(ふふふっ、相変わらず、甘えん坊な変態さんだよね。心配しないで、わたしはずっとしんちゃんと一緒だから。)


(ほんとだよね?…理恵子、どこにも行っちゃだめだよ。)


(安心して。たとえ、姿形は変わっても、わたしはずっとずっとしんちゃんと一緒。おばあちゃんになるまでずっと……て、しんちゃんがわたしに約束してくれたんだよ。)


(あぁぁぁぁ……、そうだよ……、そうだよね……。)


(だから、……今はゆっくり休んでね。安心しておやすみなさい……。)


(うん……。)


 少年は子供のようにスヤスヤと寝入りました。

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