49. 憧れの母娘ツーリング

 黒羽絵美は、娘の将来のことが心配だった。親にとって、子供はもっとも大切な存在で、心配をするのが当然だったが、特にこの娘は将来をあまり考えてないように見えたからだ。


(あなたは、小さい頃から感受性の強い子だった。だから、『普通』の仕事なんてしたくないって思ってるんじゃないかな)


 親というのは、子供の考えていることなど、全てお見通しなことがよくあり、子供はたびたびそれに驚かされるが。


 虐待や親の役目を果たさない親が多い中、絵美は娘の夢葉を懸命に育てた。その結果、娘は真っすぐで純粋な子に育ったと思っている。それだけは彼女の「誇り」だった。


 かつて、若い頃からバイクにまたがり、バイクに魅了され、スピードを出すことだけに集中した時期もあった絵美。自分がまさか結婚して、娘をさずかるとは思っていなかったし、まさかその娘が自分と同じように「バイク乗り」になるなど考えてもいなかった。


 人生は不思議だが、面白い。今さらながら、実の血を引く娘を愛おしく思っていると。


 12月のある金曜日。その娘が大学からバイクで帰ってきて、夕食前にこんなことを口にした。


「お母さん。今度、一緒にツーリング行こうよ」

 台所でいつものように夕食を作っていた絵美の元に、彼女の想像以上に大きくなった娘が、目を輝かせながら聞いてきた。


 夫であり、彼女の父である亮一郎がまだ帰宅していないことが幸いだったが。


「えー。お母さん、もうだいぶ前にバイク降りたんだよ。それにもう55歳越えたおばさんにはちょっとね……」

 尻込みしていると、娘は、


「そんなことないよ。私、この間、71歳のバイク乗りのおじいさんに会ったんだよ。お母さんなんてまだ全然若いじゃない」

 と、身を乗り出すように言ってきたが。


(でもねえ)

 内心、尻込みする絵美。彼女はその時、すでに57歳だった。娘の夢葉を産んだのが35歳。それからすでに22年が経過。以来、ずっと彼女はバイクに乗ることを意図的に「封印」してきた。

 彼女が最後にバイクに乗ったのは結婚する前の33歳の頃。しかも最後は事故に遭って入院し、両親にこっぴどく叱られて廃車にして、バイクを降りたという苦い経験がある。


 それから実に24年の歳月が流れていた。

 世の中は変わり、携帯電話やインターネットが急速に普及し、バイクも進化し、大型バイクまで簡単に乗れる時代になった。


 だが、年を取った絵美は、当然ながら体力も落ちてきたと感じるし、関節の節々が痛いと感じることもあるし、動体視力も確実に落ちていると実感していた。


「お願いお願い! 私、一度でいいからお母さんと走ってみたかったの」

 娘が必死に懇願する姿を見ていると、さすがに心がぐらついてくる母親であった。


「でも、お母さん。そもそもバイクなんて持ってないよ」


「そんなの借りればいいよ。私がバイク買ったお店は、レンタルバイクもやってるの。だからさあ、お願い!」


 絵美は、少し娘にバイクの話を語りすぎた、と後悔した。そもそも彼女はバイクを降りて、結婚を決めた時から、もうバイクには乗らないと決めていた。

 ただ、内心では、「親子でツーリング」に行っている知り合いを見たり、インターネットの記事、SNSを見ていると確かに羨ましい気持ちになったのも確かだった。


 しばしの逡巡の後、絵美は静かに決心する。

「……わかった。でも、お父さんには絶対内緒にしてね。お母さんがまたバイクに乗ったなんて知られたら、絶対怒られちゃうから」

 人差し指を口の前に立て、ウィンクまでして、娘に言い聞かせた彼女に対し、娘は、


「やった! じゃあ、早速明日、行こうよ。私がバイク屋まで連れていってあげる」

 無邪気な子供のように喜んでいた。


 いや、事実として絵美にとっては、大事な一人娘で、親から見れば子供はいつまでも子供に見えるものだったが。



 翌日、土曜日。

「夢葉と買い物に行ってくるわ」

 絵美は、夫に嘘をついてまで、出発することにした。


「ああ。しかし買い物にしては、随分暑そうな格好だな」

 夫の亮一郎は、妻の絵美と娘の夢葉が、やたらと分厚い冬用のジャケットを着ていることに、怪訝な表情で答えた。


(ヤバい。バレてる?)

 一瞬、そう思った彼女だったが。


「ほら、今12月だし。私が冷え性なの知ってるでしょ」

「ああ」


 何とか誤魔化せた、と思い、玄関で待っている娘の元に向かう。


 娘と共に家を出て、娘がバイクを押してしばらく経ったところで、エンジンをかけた。父親にバレないように気を遣っているんだろう。


「じゃあ、お母さん。乗って」

 フルフェイスヘルメットをかぶり、シートの後ろを指さす娘が、ヘルメットを手渡してくれた。渋々ながらも頷き、絵美はシートにまたがる。ヘルメットは娘が予備に持っていたジェットヘルメットだった。


(まさか娘のバイクに乗せてもらう日が来るなんてね)

 彼女にとっては不思議な感覚だった。


 そして、夢葉はバイクを走らせ、所沢市にある「アウトインアウト」へ向かった。24年ぶりに乗るバイクからの風景が、絵美を懐かしい感覚に導く。


 店の前で降りて、店内に入る二人。

「こんにちは、晴さん」


 娘が元気に挨拶をかわしている女性は、40歳くらいの女性で、青いツナギを着ていた。


「あら、夢葉ちゃん。久しぶりね。どうしたの?」

「お母さんとツーリングに行くんです。なので、バイクを借りにきました」


「へえ、いいわね」

 そう笑顔で答えた後、その女が絵美に近づいて微笑む。


母娘おやこでツーリングなんて素敵ですね。何か乗りたいバイクありますか?」

 そうは言われても、彼女には最近のバイクなんてわからない。24年前、最後に乗っていたバイクも古い2ストのバイクだった。


「いえ。私、最近のバイクって全然知らないので、見せてもらえますか?」

 そう告げると、晴と呼ばれたそのメカニックと思われる女は、パンフレットを見せてくれた。


(色々とあるのねえ。でも、やっぱり昔みたいな2ストはないか)

 2スト全盛期を生きてきた彼女には、それが少しだけ残念に思えたのだが。


 やがて、彼女の目に止まったのは、鮮やかな群青ぐんじょう色が美しい、カウルのついたスポーツタイプの1台のバイクだった。


「じゃあ、これでお願いします」

 絵美が選んだバイクは、ヤマハ YZF-R25と呼ばれる250ccのバイクだった。


 彼女自身、様々なバイクを乗り継ぎ、大型バイクにも乗ってきたし、決して経験がないわけではないが、長年のブランクと加齢を考えて、乗りやすそうな250ccを選んだ。

 また、元々、彼女自身がスポーツレプリカのようなバイクが好きだったことも影響していた。


 手続きをして、12時間レンタルで借りることになった。お金は付き合う絵美が出した。


 実際にまたがると。

(へえ。最近のバイクってすごいのね。乗りやすいわ)

 昔のバイクしか知らない彼女にはちょっとした衝撃だった。シートの座り心地は昔に比べて、柔らかく快適に感じるし、足つきもいい。


 彼女の知る昔の2ストのバイクは確かに「速かった」が、今とは違い安全性など二の次だった。


 実際、「曲がらない」、「止まらない」、「見えづらい」。そんなバイクばかりだったような気がしていた。


「そういえば、夢葉。今日、どこに行くの?」

 ヘルメットをかぶる前にそれを聞いていると。


「伊豆だよ。ただ、レンタルで時間もあまりないから、熱海あたみに行って、温泉入って帰ろうと思ってるの」

 娘は、嬉しそうに微笑んでいた。


 ついに出発する二人。

 先導は夢葉が務めた。というよりも、バイクのブランクがある絵美は、当然ながら慎重に進むため、ゆっくりとしたスピードで後方からついて行くのだった。


 その娘は、力強い走りで、下道から圏央道を走り始め、やがて小田原厚木道路に入って、伊豆方面を目指していた。


 そんな娘の姿を後ろから眺めながら、

(自転車の補助輪を外すのも怖がって、小さな手で握ってきたのが、ついこの間みたいに思えるけど、もうこんなに成長したんだなぁ)

 絵美には、感慨深いものがあった。


 それはもう20年近くも前。自転車の補助輪を外すのを怖がって、小さな体、小さな手で泣きながら必死に自分の手を握ってくれた娘が、今ではこんなにしっかり成長して、バイクに乗っているとは、という込み上げる思いがあった。


 親にとって、子供は「財産」であり、「宝」である。余程、ひどい親でない限りは、子供のことが好きだし、大切な存在なはずだ。

 ましてや、母親というのは、父親が経験できない「産みの苦しみ」を味わっている。自分のお腹を痛めて産んだ我が子。血を受け継いでいる我が子。可愛く思わないはずがなかった。


 それに、大きな病気も怪我もなく、しっかりと成長してくれた。それだけで母親としては嬉しいものだった。


 ところが。

 出発から1時間半あまり経ち、高速道路を降りて、国道135号沿いにある、小田原市の早川辺りにあるコンビニに休憩に立ち寄った時に。


「お母さん、遅いね。昔、めっちゃ速かったって言ってたのに」

 その娘が、生意気にもそう言って、少しがっかりしたような表情を浮かべていた。


「あのねえ、夢葉。お母さんももう年なの。昔みたいにがんがん飛ばすなんて、怖くてできないのよ」


「なーんだ、残念。せっかくお母さんの走りを見て勉強しようと思ったのに」

 娘は、そんなことを口走っていたから、絵美は苦笑いを浮かべるのだった。



 休憩後、そのまま国道135号を海を左手に見ながら南下する。

(懐かしいな、伊豆。昔、京子とよく来たっけ)

 その日は、乾燥した日だったが、太平洋岸の冬らしい冬晴れが見られる、穏やかな日だったから、陽光に照らされる伊豆の海が彼女にはより一層、美しく見えた。


 絵美自身、結婚する前に親友の京子とバイクで、そして結婚してからも夫の車で伊豆に来たことは何回かあったのだが、やはり車と違い、バイクは直接、自分の体に風を浴びて、五感で風景を感じることができるから、感覚としては全然違う、と改めて絵美は思っていた。


 だが、20年以上もブランクがある割には、YZF-R25は乗りやすいと感じた。昔のバイクのように変な癖がなく、曲がりやすいし、止まりやすいし、最近の車のようにABSまでついているし、燃費だって悪くないように感じていた。


(時代は進化したなあ)

 と思うと同時に、しばらくバイクに乗っていなかった彼女は、自分が時代から取り残されたような気持ちもした。


 そして、若い頃のように機敏に動かなくなった自分の体、落ちてきた動体視力が恨めしく思った。

(寄る年波には勝てないなぁ。年は取りたくないものね)

 絵美はそう思っていたが、同時に「夢葉」という大切な存在を見守ることができるのであれば、年を取ったのも悪くないとも思ってしまう。


 やがて、娘のバイクは、熱海市街に入って行き、駅前にある自転車とバイク共用の駐輪場に入って行って、そこでエンジンを停めた。


 娘のバイクの隣に停め、ヘルメットを脱いだ彼女。


「ここからは歩きだよ」

 元気にそう言って、歩く娘に着いて行く。


 熱海の駅前の駐輪場からは、アーケードを歩くことになった。土曜日のその日は、観光客でいっぱいだった。


 そんな中。

「どう、お母さん? 久しぶりにバイクに乗った感想は?」

 そんなことを聞いてくる娘に、彼女は笑顔で、


「うん。楽しかったわ。昔に比べて、随分進化したのね」

 そう言って、娘に昔のバイクのことを教えていた。実際にブランクはあっても、久しぶりに乗ったバイクは、絵美にとって興味深いものだったし、「昔取った杵柄きねづか」で、ちゃんと体が操作を覚えていた。


 並んで歩きながら、娘がオススメと言っていた日帰り温泉に向かう。

 そんな時間が彼女には、たまらなく嬉しかった。


 彼女は、娘に対して意図的に「友達」のように接してきた。もちろん、しつけとして時には厳しく接してきたが、理不尽に叱ったり、娘の言うことを真っ向から否定することだけはしなかったのだ。


 それは、絵美が実の親、つまり夢葉から見て祖父母だが。特に父親からは厳しく躾られてきたことが影響している。真向から意見を否定され、反抗期が長かった絵美は、皮肉なことにそれがきっかけでバイクに乗ることになったのだが。


 だから、せめて娘には「自由」に生きて欲しい。世の中の常識に囚われず、のびのびと成長して、自分らしく生きて欲しい、と願った。


 また、あえて娘としてよりも「友達」感覚で付き合うことで、逆に母娘という枠を越えた付き合いを目指していた節が彼女にはあった。


 結果的には、それが成功し、どちらかというと、過保護で口うるさい父親よりも、娘は母親に懐いていた。もっとも娘というのは、結局どこの家も、異性である父親よりも同性の母親の方に共感して、懐くものかもしれないが。


 やがて、娘のオススメの日帰り温泉に到着し、二人で脱衣所に行って、そして二人で裸になって、お湯に浸かる。


 年を重ね、体のあちこちが痛くなっていた絵美にとって、久しぶりの温泉は気持ちいいものだった。


 そんな中、娘に対して、絵美は、覚悟を決めたように、あえて避けてきた話題を振ることにした。


「夢葉。あなた、将来のこと、ちゃんと考えてるの?」


 娘の夢葉は、バツが悪そうな顔をして俯き、


「うん。ごめんね、お母さん。一応は考えてるんだけど……」

 そう言った後、珍しく真剣な表情で、絵美の目を真っすぐに見て、


「でも、もうちょっと待って。きっとちゃんとした『答え』を出すから」

 しっかりとした、意志を感じる瞳を向けて答えた。


「わかった。一度しかない人生だし、お父さんは色々と言ってくるかもしれないけど、あなたの好きにように生きればいいわ。ただ……」

 そう切ってから、絵美は娘を慈しむように、


他人ひとに迷惑をかけることはしないこと。それだけは守ること」

 そう諭すように言うと。


「わかってるよ。だから、もう少しだけあの家にいさせて……」

 心なしか、寂しそうに、まるで捨てられた子犬のような視線を向けて娘はそんなことを口にしたから、絵美は微笑み、安心させるように言葉を返した。


「何言ってるの。あそこはあなたの家。好きなだけいればいいわ」


 恐らくは、このまま就職先が決まらなくて、大学を卒業してしまい、その後、フリーターにでもなってしまうことで、親に迷惑がかかる。

 夢葉はそのことを危惧しているのだろう、と絵美は思っていた。


「ありがとう、お母さん!」

 そう、まるで尻尾を振る子犬のように喜んでいる娘を見て。


(あなたの考えてることなんて、お見通しよ。何年、母親やってると思ってるのよ)

 絵美は、面白くなってしまい、つい笑い声が出てしまいそうになるのを堪えていた。

 娘は、そんな母親の横顔を不思議そうに眺めていた。


 結局、この日帰り温泉に長湯してしまい、その後は坂の多い熱海の温泉街をウィンドウショッピングして、買い物を楽しみ、熱海の海岸線沿いの熱海サンビーチを並んで歩いて、色々なことを話す二人。


 レンタルバイクの返却の時間があるため、あまり長居はできなかったが、帰り道。

 行きと同じく小田原厚木道路を通って、途中の大磯パーキングエリアに立ち寄った夢葉に従い、そこで二人で肉まんとお茶を買って、カフェテリア風の野外にあるチェアーに座って話をすることになった。


 絵美はもう一つの気になっていたことを聞くことにした。

「そういえば、夢葉。あなた、彼氏はいないの?」


 途端に、飲んでいたお茶を吹き出しそうになるくらい、驚いている夢葉だった。

「……あー。それは、ちょっとー」

 恥ずかしそうに俯いている。


 そんな姿を見たら、母親としてはすぐに気づいてしまった。

「はぁ。私の娘のくせに、どうしてモテないのかしらね」

 絵美には不思議に思えた。


 母の自分から見ても、娘は決して「可愛くない」わけではない。自分の若い頃に似ているし、事実として、絵美は若い頃、それなりにモテたからだ。


「そんなこと言われてもね。お母さんは若い頃、モテたんでしょ?」


「そりゃあね。そもそもバイクに乗っている女子なんて、今以上に珍しいのもあったしね。しょっちゅう声をかけられたわ」

 事実。亮一郎と結婚する直前までバイクに乗っていた絵美は、「峠の女王」のあだ名もあり、とにかくモテた。

 だが、色々な人に声をかけられ、色々なバイク乗りと付き合ったが、不思議と彼らとは結婚には至らなかった。というよりも、そういう気にはならなかった。


「へえ。私もたまに声かけられるけど、何故かみんなおじさんなの。若い男の人には全然声、かけられない気がする」


 そんなことを口にする娘が、母としては少し心配だったが、同時におかしくも思えた。

「あなた、若い頃のお母さんと違って、童顔で子供っぽいところがあるからね。『おじさんキラー』なのかもね」

 そう言って、思わずクスクスと笑い声を立てていると。


「もう、お母さん。何よ、『おじさんキラー』って。笑いごとじゃないよ」

 と、娘は怒ったように、頬を膨らませていた。

 そんな姿さえも、母親の絵美にとっては、愛おしく感じてしまうのだった。



 その後、レンタルバイクを返却し、無事に夢葉のバイクで自宅に戻った二人。


 夫であり、夢葉の父である、亮一郎は帰ってきた二人を見て、何かに感づいたような顔をしていたが、予想とは違って特に何も言ってこないのだった。


 憧れの「母娘ツーリング」はこうして終わり、母娘は揃って、夫であり父である亮一郎と共に平穏な新年を迎えることになった。


 だが、夢葉にはもう大学卒業まで残り3か月程度しか残されてはいなかった。

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