23. 幻の中央道最高速チャレンジ

 2月下旬。


 それは、夢葉の家にある女性が訪れていたことに始まる。


 いつものようにバイクで学校から帰宅した夢葉がリビングに入ると、見知った顔の中年女性がソファに座って、母と談笑していた。


「京子おばさん。お久しぶりです」


 そう、彼女の名前は松島京子。夢葉の母・絵美の古い友達で、母と同い年だった。ショートヘアにパーマをかけた、年相応の風貌だが、年齢の割には若々しくも見える。細い目と、スタイルの良さが特徴的な女性だった。


 夢葉にとっては、小さい頃から何度も会っているが、ここ最近はなんだかんだで忙しかったため、しばらくぶりの再会だった。


「あら、夢葉ちゃん。しばらく見ないうちに可愛くなったわね」


「もう、おばさんったら」


 そう言われて、満更でもないように、照れ笑いを浮かべる夢葉に対し、


「そうそう。聞いたわよ。バイクに乗り始めたんだって」


「ええ、まあ」


「やっぱり絵美の娘さんね。若い頃のお母さんにそっくり」


 そう言って、京子は、絵美の方を露骨に見て、クスクスと笑い出した。


「どういう意味よ、もう」


 口を膨らませて抗議する母が、なんだか可愛いと夢葉が思っていると。


「知ってるかしら? 絵美、あなたのお母さんが昔、『峠の女王クイーン』って呼ばれてたのは?」


「はい。その話は聞きました」


 そんな夢葉の反応に、京子は意外と言ったような驚いた表情を浮かべたが、次の瞬間、イタズラをする子供のような顔で、絵美と夢葉を交互に見てから、薄ら笑いを浮かべて、口に出した。


「あ、そうなんだ。なら、この話は知らないでしょ。『中央道最高速チャレンジ』」


「知らないです! お母さんがちょろっと口走ったことがあったかもですけど」


 目を輝かせて、京子にその先を促すような熱い視線を向ける夢葉。対して、絵美は、


「ちょ、ちょっと、京子。何、言うつもりよ」


 露骨に慌てていた。


 だが、京子も夢葉もそんな絵美の姿が逆に面白くて仕方がないようで、京子は親友の娘にそのことを語り始めた。


 絵美は、大きな溜め息をつき、諦めたように、照れ臭そうに視線をそらしてしまったのだった。



 話は再び過去へと遡る。再度、約30年前へと。


 1989年5月、東京都。


 中央高速道路、調布ちょうふインターチェンジ。時刻は午前0時を回っていた。


 深夜、この中央高速道路にひっそりと入る2台のバイクがいた。


 一台は白い車体に赤いラインが入った、ホンダ NSR250R。型式MC18。


 通称「88ハチハチNSR」と呼ばれた、当時最速と言われた2ストの250ccレーサーレプリカだった。


 もちろん、当時まだ結婚前の旧姓深川絵美、つまり夢葉の母だった。当時、23歳。大学を卒業して、OLになって1年目の新入社員だった。


 そして、もう一台。


 青い車体に銀色のフレームを持つ、ネイキッドバイクで、ホンダ VT250 SPADAスパーダと呼ばれるバイクだった。


 こちらには、同じく結婚前の旧姓岩沼いわぬま京子、現在の松島京子が乗っていた。彼女もまた絵美と同じく、大学を卒業して、OLになったばかりの新入社員だった。同学年のため、彼女も23歳だった。


 きっかけは、ある日、絵美が京子に言った一言だった。


「最高速チャレンジがしたい!」


 いきなりそんなことを公衆の面前とも言える、喫茶店で絵美が大きな声で言い出したので、京子は声を落として、聞き返していた。


「何、言ってるの、絵美? あなた、頭大丈夫? 警察に捕まりたいわけ?」


「京子こそ、何言ってるの? せっかくバイクに乗ってるんだよ。自分のバイクの限界を知りたくない?」


「そりゃ、まあ知りたいけど。大体、そんなのどこでやるわけ? 北海道にでも行かないと無理でしょ」


 声を抑え気味にして、辺りをはばかるように絵美に尋ねる京子に対し、彼女の親友は、胸を張って、堂々とこう言った。


「そんな面倒なことしなくたって、あるじゃん。深夜の中央高速が」


「えっ。中央道でやるの?」


 京子が驚いて聞き返すと、絵美は説明してくれた。


 曰く。深夜の時間帯なら警察のパトカーや白バイが少ない。また交通量も少ない。ちなみに、当時はまだ現在のように、中央高速道路の沿線にオービスが設置されていなかった。


「まあ、やってもいいけど、私のスパーダはネイキッドだし、そんなにスピード出せないよ」


「いいよ、別に。私が出したいだけだから」


「なら、絵美一人で行けばいいじゃない?」


「イヤよ。悪いことしてるみたいだから、付き合って。あと、実際どれくらい出てるか見ておいて欲しいし」


「なんで、私が……」


 不満そうに口を尖らせる京子。つまり、結果的には、京子は絵美のワガママに付き合わされる形になったのだった。



 その日の天気は、快晴とまでは行かなかったが、晴れていたし、5月ということで、ちょうどいい気候だった。暑くも寒くもない。


 走るには、いいコンディションだった。


 そして、絵美はそれを狙っていた。


 深夜0時過ぎ。当時、まだETCなどないため、律儀に高速道路の料金所で止まってから、二人は走り出した。


 調布インターチェンジからは、下り線に入り、八王子インターチェンジ手前にある石川パーキングエリアまで行く予定だった。


 この区間を選んだのは、身近にある中央高速道路で、この辺りが一番走りやすい区間だったからだった。ゴミゴミしていて、車線の幅が狭い首都高とは違って、車線は広いし、中途半端に田舎で、深夜だから23区のようにパトカーの数も少ない。一歩手前の高井戸たかいどインターチェンジだと23区に入るから避けたのだった。


 また、距離的には約16キロほどの距離で、時間的にも10分程度で、一気に走り抜けるには丁度よかった。


 絵美は路線に入ると、バカみたいに一気に加速していた。


 NSR250Rは元々、「速い」と言われた2ストの傑作バイクだが、その「速さ」とは加速にあって、最高速ではなかった。

 つまり、最高速で言えば、現代の大型バイクの方が余程速い。


 それでも、リミッターを解除すると、最高出力は70PSまで上がると言われていたし、最高時速200キロ以上は出たとも言われている。


 一方のスパーダは最高出力40PS、180キロまでしか出ない上に、元々風の抵抗を受けやすいネイキッドタイプだから、がんばってもせいぜい150キロか160キロくらいしか出せない。


 加速が抜群にいいと言われるNSR250Rに乗っている絵美は、わずかな時間で一気に時速100キロに達し、一気に京子を置いて行ってしまう。


(私、別に必要ないんじゃ……)


 と思いながらも、京子もスピードを上げていたが、追いつけそうな気配すらなかった。


 その間、絵美は、アドレナリンが出まくっていて、一種の興奮状態に入っており、道行くわずかな車をどんどん抜き去り、己の限界を超えるために、一気に右手でアクセルを回していた。


――ビィィィィーーン!


 深夜の中央高速道路に、NSR250Rの甲高いエキゾーストノートが響き渡り、2スト特有の白煙がもうもうと立ち込める。


 時速140キロ、150キロ、160キロ。


(ハンドルが風でブレる! あと風の抵抗がキツい!)


 さすがにいくらカウルとウィンドシールドがあるとはいえ、この速度域で、しかも車体の軽い250ccでは抵抗が辛くなってくる。


 だが、それでも絵美は、負けじとアクセルを回す。


 ついに170キロ、180キロ、190キロに達する。


(うぉお! これはマジでヤバい。一瞬でも油断したら間違いなく死ぬ!)


 NSR250Rの車体重量は、約130キロ前後。つまり、現在の一般的な250ccの車体重量よりもかなり軽い。現在では大体160キロ前後の250ccが多いからだ。


 そして、絵美はついに、アクセルの限界に達する。


 時速210キロ。


 それは、未だかつて、彼女が体験したことがない、未知の速度域だった。すべての物や風景が圧倒的速度で後方に流れていく。


 それよりも、全身に浴びる強風、そしてハンドルがブレるのを必死で腕の力で抑えつける。


 一瞬でもハンドル操作を誤れば、あるいは路上の障害物に当たりでもすれば、間違いなくあの世行きだった。


 さすがに彼女は怖くなったのか、しばらく210キロの速度域を楽しんだ後、アクセルを緩めた。


 だが、それでも時速150キロ以上は保っていた。


 やがて、ようやく京子が少しずつ追いついてくる。


 二人は、次の国立府中インターチェンジを越えて、石川パーキングエリアに入る。


 フルフェイスヘルメットを脱いだ、ツナギ姿の絵美は、汗をかいていた。それが恐怖から来る冷や汗なのか、興奮から来る汗なのか、彼女自身にもわからなかったが、妙な高揚感だけは残っていた。


「見た見た、京子? 210キロ行ったよ!」


 そんなことを興奮気味に、目を輝かせて語る絵美に対し、親友の京子は、大きな溜め息をつき、


「はあ。見れるわけないでしょ。私のスパーダはせいぜいがんばっても160キロくらいだったわ。ハンドルはブレるし、風は怖いし、無理だよ」


 と言っていたが、絵美は不満そうに口を尖らせる。


「何よ、つまらないわね。バイクってのは、速く走らせることが面白いんでしょ」


「いや、速いって言っても限度があるでしょ」


 京子は呆れたように声を上げ、絵美を恨めしそうに見つめていた。


「絵美。さすがにもうこんなことやめようよ。捕まったら、一発免停だよ」


「ああ、わかってるわかってる。さすがに『東京では』もうやらないよ」


 明るい声と、満面の笑顔で絵美はそう言ったが、京子は内心、別のことを心配していた。


(あの顔は、絶対、北海道でやる、って顔だな。まったく)


 そう思いながら、心底呆れていた。


 だが、京子自体は、このお調子者だけど、明るい、どこか人を引きつける魅力がある絵美のことが好きだった。


 ちなみに、「峠の女王」伝説の時に、奥多摩有料道路で、絵美と市振誠のレース開始の合図をしていたのも、実は京子だった。



 京子の昔話が終わった後、夢葉は盛大に呆れたような顔で、自分の母親を見つめていた。


 そして、


「お母さん、バカだね」


 母に向かって、溜め息混じりに、そして少し軽蔑するような眼差しを向けていた。


「もう、だから言って欲しくなかったのに……」


 絵美は、訴えるように、京子に向かって抗議の声を上げていた。


「いや、別に隠したって、どうせいつかはバレるんじゃない?」


 むしろ、京子は京子で楽しそうに笑顔を浮かべていたが。


「お母さん。一歩間違ったら、確実に死んでたわけでしょ。そしたら、私は生まれてこなかったわけでしょ」


「いや、まあ。そうね。でも、結果的に全然大丈夫だったわけだから……」


 娘の抗議の声と視線に、たじたじになりながらも、絵美は何とか、母としての威厳を保とうとしているようだった。


「そういう問題じゃないでしょ」


「はい。ごめんなさい。若気わかげの至りでした」


 娘に詰め寄られて、素直に謝る絵美。


 そんな二人を見て、京子は実に楽しそうに、声を上げて笑い出した。


「あははは。いやあ、あなたたちって、本当に仲のいい母娘おやこね。羨ましいわ」


 だが、夢葉は思い出していた。彼女にも子供がいることを。


「でも、おばさんの家にだって、りょうくんっていう男の子がいるじゃないですか?」


 そう、京子には息子が一人いる。涼という名の男の子が。京子が涼を連れて、家に遊びに来たことがあり、夢葉と遊んだこともある。最も、二人はかなり小さい頃に会っただけで、その後、ほとんど交流がなくなっていたが。


「まあね。でも、涼はちょっと最近、ナーバスになっててね」


 どこか歯切れが悪い京子。


「なに、反抗期?」


 涼は夢葉より年下で、多分今は高校生くらいだったはずだ。絵美が尋ねると。


「まあ、そんなところ。色々とデリケートなところがある子だから……」


 そんなことを口に出す、京子のセリフと表情が気になった夢葉だったが。


「いつか、連れてきてあげるわ。実はあの子も最近、バイクに興味を持ってるみたいだから」


「えっ。そうなんですか? それは楽しみだなあ」


 呑気に言って、笑顔を見せる夢葉に対して、京子はどこか難しそうな、バツが悪そうな顔をしていた。


 その理由を、夢葉は後に知ることになる。


 それはともかく、母・絵美の知られざる一面を、夢葉はまた知ることになると同時に、母が元気なままで良かったと心底思うのだった。

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