5. その視線の先を目指して
夢葉の教習は順調とは言い難かったが、なんとか続いていた。
学校が夏休みの間に、少しでも進めておきたいと思った彼女は、毎日のように教習所に通っていた。
あれから、夢葉は一度も怜には会ってなかった。
学校にも行ってなかったし、教習で忙しいというのもあったから、なおさらだった。
やがて、8月が終わり、9月に入った。
残暑厳しい季節。
まだ、夢葉の教習は続いていた。
だが、ようやく彼女は少しずつコツを掴み始めた。
(坂道発進は、リヤブレーキを踏んだまま、アクセルを多めに回して、クラッチを半クラにしてリヤブレーキをじわーっと離す)
(クランクは、半クラッチで調整して、視線を前に)
(一本橋は、ニーグリップと、半クラッチと、視線を遠くに向けること)
(スラロームは、パイロン横に来たら、アクセルを閉じて、パイロンを過ぎたら、アクセルを開ける。それとニーグリップ)
(急制動は、パイロンのちょっと手前からブレーキ)
いつしか、夢葉の携帯のメモ帳が、バイク教習のためのコツで埋まっていた。
そして、9月中旬。ついに既定の学科26時限、実技19時限をクリアし、夢葉は最後の難関に挑む。
卒業検定、いわゆる「卒検」だ。
最初の卒検は、緊張していたこともあって、一本橋で脱輪して、一発検定中止だった。
つまり、二輪の卒検では、一本橋から落ちた時点で、もうその検定が終わるのだ。
2回目。一週間後の挑戦。
今度は、一本橋は上手くいったのに、テンパって、その後逆走して、試験官にクラクションを鳴らされて、そのショックのためか、今度はスラロームでパイロンに接触。結果的に失敗、不合格だった。
(ああ、やっぱ私にはバイクの才能なんてないんだ)
ヘコむ夢葉。
2度も卒検に失敗し、再度教官から、補習を受ける夢葉は思った。
だが、「バイクの神」、―そんなものいるとは思えないが― は彼女を見捨てなかった。
3回目の卒検の日。9月も最終週に入っていた。
いつものように教習所に行くと、教習所の駐輪場にあの白いバイクがあった。
そう、怜のバイクだった。
実は事前に、怜から夢葉にメッセージが来ており。
「二輪教習はどうなった?」
と問われていた。彼女は彼女なりに気になったいたらしい。だいぶ前に夢葉が「教習所に通うことになった」とメッセージを送ってから、丸きり音沙汰がなかったからだろう。
「なかなか上手くいきません」
とだけ夢葉は返しておいたが。
教習所の受付棟の端、外にある喫煙所で、いつものように、白い包装に赤い丸のついたタバコ ―ラッキーストライク― を吸っていた怜を見かけた夢葉は声をかけた。
「怜さん。どうしたんですか?」
すると、顔を上げた彼女は、
「見に来たんだよ」
とだけ言った。
「えっ。マジですか? つーか今日卒検なんですよ。まさかこんな大事な時に怜さんが来るとは思ってなかったです」
「なら、ちょうどいい。受かったら、すぐにバイク屋に行くぞ」
もう受かる気でいるのか、怜は少し微笑みながら、そう夢葉に告げた。
「いやー。その前に受かるかどうかわかんないですよ」
「バカ。そんな弱気でどうする。こんなもん、気合いだ」
「なんか昭和のおっさんみたいなこと言いますね」
「誰が『昭和のおっさん』だ。てめえ、殺すぞ」
そう言った怜だったが、眼は怒っていないようだった。むしろ少し楽しそうにしている感すらあったように、夢葉は感じていた。
過去、二度の卒検で、緊張のあまり、いつものバイク走行が出来ず、失敗していた夢葉の緊張が少しほぐれていた。
いよいよ、ゼッケンを受け取って、二輪教習者専用の控え室に入っていく夢葉を、怜は、喫煙所でタバコを吹かしながら見守っていた。
夢葉のゼッケンは3番。今日は5人卒検対象者がいたから、丁度真ん中という、いいんだか悪いんだかわからない順番だった。
(まあ、最初よりはいいか)
最初、一番目というのは、やはり緊張するし、なんかイヤだなあ。と漠然と思っていた夢葉にとっては、悪くない番号だった。
最初の一人が卒検に行く。
20代の男の彼は、難なく無難にクリアしていった。
続いて、30代っぽい女がスクーターで卒検に向かったが。彼女は一本橋で落ちた。
(ああ、落ちちゃったよ。緊張する!)
周りと同じ境遇にいる卒検者というのは、実は卒検中も結構気になるもので、一緒に受かって欲しいと願うものだが、それがこういうことになると、緊張が増して、プレッシャーになる。
「3番、黒羽さん」
ついに呼ばれた夢葉。
まずは、バイクの前に行き、サイドスタンドを倒して、後方確認をする。すでにこの時点で卒検は始まっているのだ。
ついで、バイクにまたがり、ミラーの角度を調整する。
ここまでは問題なかった。
エンジンをかける。当然、怜のバイクと違うからイグニッションスイッチだ。
再度、後方確認をする。
ローギアに入れる。ウィンカーを出す。後方確認をする。そして発進。
三度目とはいえ、しつこいくらいに後方確認をして、夢葉は出発した。
まずは第一関門、坂道発進。
コースを周回してから、坂道に到達。
ポールの前でバイクを停める。
(坂道発進は、リヤブレーキを踏んだまま、アクセルを多めに回して、クラッチを半クラにしてリヤブレーキをじわーっと離す)
と、思い出す夢葉。
何とかエンストをせずに乗り切った。
続いて、クランクだったが、テンパっていたのか、夢葉は規定のコースから外れていた。教官に注意される。
(うぁ。しまった!)
と思うも、もう遅い。ただ、卒検では実は周回コースを間違っても、減点にはされない。
(クランクは、半クラッチで調整して、視線を前に)
リヤブレーキを上手く使い、視線を向かう方向に向け、パイロンに接触することなく乗り切った。
(よし!)
やっと落ち着く彼女。
そして、最大の難関にして、彼女が最も嫌いな課題が待ち受ける。
一本橋だ。
夢葉は、未だにこれが大嫌いだった。
(教習所でしか意味ないじゃん!)
と未だに思っていたからだ。
そして、ついに一本橋の手前で停まり、挑むことになる。
(一本橋は、ニーグリップと、半クラッチと、視線を遠くに向けること)
メモを思い出し、心の中で唱える夢葉。ついでに言うと、普通二輪免許卒検では、一本橋の通過に7秒以上かけないといけないのだが、今の夢葉にそんなことまで考える余裕はなかった。
まずは、ふらつかないように、少し強めのアクセルで1速で板に乗っかる。
(視線は遠くだ。この視線の先にバイクの世界があるんだ!)
祈るようにして、バイクを操る夢葉。
あれだけ何回も落ちた一本橋だったが、不思議と落ちる気配を見せなかった。
(やったぞ! 乗り切った!)
もう心の中で安心していた夢葉。
次はスラロームだ。実はこいつも夢葉にとっては、2番目に苦手なものだった。アクセルワークが難しいし、バイクを傾けることにまだ恐怖感を抱いていたからだ。
(スラロームは、パイロン横に来たら、アクセルを閉じて、パイロンを過ぎたら、アクセルを開ける。それとニーグリップ)
これも形は不格好だったが、何とかパイロンに接触せずに乗りきっていた。
空は朝から曇り空だったが、この時から陽射しが出始めていた。
そして、夢葉は最後の関門に達する。
もう一度コースを一周し、その関門「急制動」に挑戦すべく、入口から一気に加速する。
「急制動は、パイロンのちょっと手前からブレーキ」
いつの間にか声に出していた夢葉。
ギリギリだったが、急制動の止まるべきラインで止まった。
(やった。何とか乗り切ったぞ!)
初めて夢葉は、まともにコースを走り切ったのだ。
最後にスタート地点に戻ってきて、後は最後の動作だけだ。
停車して、左足を地面に着ける。ギアをニュートラルに入れる。エンジンを切る。後方確認をする。バイクから降りる。サイドスタンドをかける。ハンドルを左に切る。
すべての動作を、いつの間にか流れるようにできるようになっていた夢葉。
終わった後、彼女はすぐに怜のところに行った。
結果はしばらく後に出るという。
彼女はまたも喫煙所にいた。一体一日何本のタバコを吸っているんだろう。絶対、体に悪いのに、と危惧する夢葉だったが。
「終わりましたー」
「おう、お疲れ」
まるで、仕事上がりのサラリーマンに声をかける、おっさんのように、それだけ言って、またタバコの煙を空に向ける怜。彼女はそれだけを言って、携帯を見つめていた。
何を見ているのか、と夢葉が覗き込むと、バイクの写真が画面にあった。
「勝手に覗くんじゃねえよ」
睨まれたが、
「怜さん。なんでバイクの写真なんて見てるんですか? 買い換えるんですか?」
と、臆せずに問う夢葉に、
「別に。何でもねえよ」
ぶっきらぼうに答える怜が、夢葉には印象的だった。
やがて、卒業検定を受けた全員が受付棟に呼ばれる。
「では、合格した方だけ発表しますね」
試験官のちょっと甲高い声が上がる。
(今度こそ)
祈るような気持ちの夢葉。怜は、離れた場所でまだ携帯を睨んでいた。
そして、何人か呼ばれた後。
「黒羽夢葉さん」
ついに名前を呼ばれる夢葉。
(よっしゃ! 合格だ!)
いても立ってもいられなかった夢葉は、試験官からの重要な説明をほとんど聞き流して、話しが終わったらすぐに怜の元へと駆けて行った。
「怜さん、受かりました!」
飛びつかんばかりの勢いでそう明るい声を上げる夢葉に、怜は少し戸惑ったような表情を浮かべ、
「おう。まあ、とりあえずよかったな」
少し照れたような、笑みを浮かべていた。
その後、卒業検定に受かった人に、合格賞状が贈られ、免許証の書き換えの説明などを受けて解散になった。
夢葉は、怜の姿を探したが、また彼女はいなかった。
(また、喫煙所かな)
と思い、向かってみるもいない。
どこへ行ったのか、と探しているうちに、いつの間にか駐輪場に来ていた。
そこの自分のバイクの上に怜は腰かけていた。
「あれ、怜さん」
声をかけると。
「今からバイク屋に行くぞ」
「えっ。今からですか? いや、早くないですか?」
「早くねえよ。受かったら、早速自分が乗るバイクを決める。それがバイク乗りって奴だ」
「そうなんですか?」
「ああ。つーかお前、まだ決めてねえのか? 普通は教習中に、ある程度目星をつけておくもんだぞ」
何故か怒ったようにそう語る怜を不思議そうな瞳で眺めながら、夢葉は、
「まあ、そんな余裕なかったですからね」
と言った後。
「じゃあ、よろしくお願いします」
もう半ば怜に任せるような口調で、そう声に出していた。
「乗れ。バイク屋に連れていってやる」
怜の言葉で、夢葉はまた怜の白いバイクの後ろにまたがった。
教習所から、白いバイクの甲高い2ストのエンジン音が轟き、そして真っ白い特徴的な排気ガス ―正確にはオイルが蒸発した蒸気― が出て行った。
その先に、新たな世界を求めて。
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