7. 「初めて」は危険がいっぱい!

 あれから1週間。

 夢葉は、元・バイク乗りの母に教わって、バイク用品を揃えた。


 教習所でも教わったが、「バイクに乗る」ということは、万が一を考えて、それなりの装備がいるらしいとわかったからだ。


 アライの白のフルフェイスヘルメット、白を基調とした黒のラインが入るコミネのライダースジャケット、elfエルフのライダースショートブーツ、同じくコミネのバイク用グローブなど。


 それだけで結構な出費だった。


(バイクって、お金かかるんだなあ)


 初めて知るバイク用品の値段の高さにも、彼女は驚かされていた。


 それらを怜のバイクに乗せてもらって買い揃えた夢葉はついにその日を迎えた。



 納車の日だ。


 その日、空は曇り空だったが、まだ少し蒸し暑い夏の名残が残る、残暑の10月初旬だった。


(怜さんのバイクの後部座席に乗るのもこれが最後かもしれないなあ)


 その大きな背中を見ながら、夢葉は少し感慨深く思うのだった。


 無事に、「アウトインアウト」で、納車されたばかりの、真新しいレブル250を受け取った夢葉の心は、これから始まる新しい、そして見たこともない世界への大きな希望と期待に満ちていた。


(やっとこれから私のバイクライフが始まるんだ)


「じゃあ、早速走ってきます!」


「おい、ちょっと待て。ガソリンは……」


 バイクにまたがり、ヘルメットをかぶった後、怜が何かを言いかけていたようだったが、既に夢葉は、勢いよく加速して、出発しており、怜の言葉がその耳に届くことはなかった。


 怜のバイクとは違う、「ボルボルボル」という低いエンジン音は、走り始めると「ブォォォーーン」というこれまた低い音を響かせる。


 新しいバイクに乗って、初めて街に、つまり公道に乗り出した夢葉。その眼に映る景色、そして浴びる風、体感するスピード感、夏の名残の匂い。


 全てが彼女を魅了した。


(教習所のバイクとは全然違う。すごいパワーだ)


 それもそのはず。教習所のバイクは基本的に教習所の中でしか走ることを想定していないし、教習所ではせいぜい時速40~50キロくらいしか出さないから、通常のバイクよりもデチューンされており、出力も落としてある。


 レブル250のPS、つまり馬力は26PSと、決して多いほどではないが、それでも彼女には教習所のホンダ CB400スーパーフォアよりも速く感じた。


 夢葉が最初に向かった場所。それは初めて怜と会った場所であり、彼女を最初にバイクの世界へと引き込むきっかけとなった、埼玉県の白石峠だった。


 所沢のバイク屋からは約1時間30分くらいで行けるようだった。

 高速道路にも乗れるETCと、ついでにナビ用に使うスマホホルダーもつけてもらっていた彼女は、途中から携帯電話の地図アプリをナビに使い、白石峠を目指した。


 かつて、自転車で散々苦労し、登るだけで汗だくになっていた、その峠は簡単に登れたのだった。


(バイクって、やっぱりすごい!)


 もう、それしか考えていなかった、頭の中が一種のお花畑状態の、テンションMAXの彼女は、怜と出会ったあの駐車場に向かい、ゆっくりと減速したが。


 実はその駐車場は、少しだが勾配がついていて、坂道になっていた。


 そこで。


 減速して停車し、足を降ろした夢葉は、その坂道でバランスを崩し。


(うわぁ! 傾く。止まらない!)


 見事に転んでいた。


 幸いバイクの下敷きになるようなことはなかったが、転倒し、動揺する夢葉。


(どうしよう。いきなりコケちゃったよ! 早く起こさなきゃ!)


 頭の中は、パニック状態だった。


 左側に完全に転んでいるバイク。懸命にフレーム部分を持って、持ち上げようとするも、一向に持ち上がらない。


(教習所じゃ何回も引き起こしやったのに、なんで!)


 夢葉は、引き起こしの基本すら忘れていた。腕の力だけで、懸命に引き起こしをやろうとするも、250ccとはいえ、車重が170キロ近くはあるレブルはビクともしないのだった。


 そのまま5分、10分と格闘するも全く動く気配も見せない。


(初めてのツーリングなのに、こんなのってないよ)


 泣き出したくなるくらい、自分がみじめに思える夢葉だった。



 その時、峠の下の方から、聞いたことのある、甲高いエンジン音が響き、白い煙が見えてきた。


「怜さんだ。助かった!」


 と、思って、口に出していた夢葉だったが。


 確かに近づいてきたのは、予想通り、怜のTZR250 3MAだった。


 だが、彼女は、バイクを夢葉の近くに停めて、ヘルメットを脱ぐも、


「素人が、早速調子に乗って立ちゴケしたな」

 と、少し冷たく言い放ち、助けようともせず、禁煙のこの場所でタバコを口にくわえて、火をつけていた。


 立ちゴケとは、バイクで停車時に転ぶことを指す言葉だ。夢葉は、まだその言葉すら知らなかった。


「ちょっと、怜さん。そんなこと言ってないで、助けて下さいよ!」


 少し怒ったようにバイクの下から叫ぶ夢葉に対し、怜の反応は冷ややかだった。


「イヤだね」


「なんでですか? なんで、そんなイジワルするんですか?」


「お前は、バイクに乗って、初めての『』を受けたんだ。この先、こんなことはいくらでもある。その度に、いちいち人が来るのを待つのか」


 それは、確かに正論ではあった。だが、夢葉には、バイク乗りの先輩で、バイクの楽しさを教えてくれた、怜が途端に冷血な人間に見えた。


「そんな~。怜さん、冷たいですよ」


 すると、紫煙を吐いた後、怜は意外な事を口にした。


「夢葉。バイクってのはな、『坂道』、『砂利道』、『草の上』で停めちゃいけないんだ。特にお前のバイクは、オフロードタイプじゃないから、簡単にコケる」


「わかりました、気をつけます。だから助けて下さい!」


 必死にお願いをする夢葉に、しかし、やはり怜は動いてはくれなかった。そんな怜を少し見損なったと思った夢葉だったが。


「アドバイスくらいはしてやるよ。教習所でのことを思い出せ。力任せに、腕だけで上げようとしても、バイクは持ち上がらないぞ」


 ハッとして、我に返り、夢葉は教習所での事を思い出していた。


(そうだ。バイクは腕の力で上げるものじゃないんだ。確か、右足を踏み込んで、身体全体を使って、反対側に持っていく感じ)


「ん~~~~っ!」


 やっと、思い出した夢葉は、それでも苦労の末、何とかバイクの引き起こしに成功していた。


 怜は、まだタバコを吸いながら、それを眺めていたが。


「あっ」


 夢葉は叫んだことが、少し気になり、様子を窺っていると。


「曲がってる!」


「あ、シフトペダルか」


 そう、バイクの左側、ちょうど左足を使ってシフトチェンジを行う、シフトペダルが転倒した衝撃で、少しだが曲がっていた。


「うぁああ。ショック! せっかく買ったのに。どうしよう。これ、もう壊れちゃったんですかね」


 パニクる夢葉に、怜は、タバコを携帯灰皿で揉み消してから。


「なんだ、たかがシフトペダルが少し曲がったくらいじゃないか。大丈夫だ」

 心なしか、夢葉が優しいと感じるような、穏やかな声でそう言った。


「そうなんですか?」


「ああ、それくらいなら壊れはしないし、走ることも出来る。後で晴さんに直してもらえ」


「そっか。よかったぁ」


 心底、安心したように呟く夢葉を見ながら、怜はバイク屋で伝え忘れたことを、伝えに来たことを思い出した。


「夢葉。お前、全然人の話聞いてなかったな。納車直後っては、ガソリンがほとんど入ってないんだ。ガス欠になる前に、さっさと戻ってスタンドに寄るぞ」


 そう言われ、怜の瞳には、夢葉がものすごく嬉しそうに、相好を崩したように見えた。


「わざわざそれを伝えに来てくれたんですか。怜さん、やっぱり優しいですね!」


「そんなんじゃねえよ。お前みたいな素人は心配なんだよ」


 そう、顔をそらして、またタバコを吸い始める怜。

 夢葉はニコニコしながら、怜に。


「ありがとうございます。でも、ここ禁煙ですよ」


 逆に正論を言って、怜を注意していた。


 最初に会った頃は、夢葉の眼にはすごく怖いヤンキーに見えた怜。

 だが、今は不器用なだけの女性に見えるのだった。


 初めてのツーリングで、立ちゴケを経験し、ガソリンのことも学んだ夢葉。

 だが、試練はまだまだ続く。

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